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菅元総理のマイクロマネジメントと「迷惑な養護教諭」

 産経ニュースでは,菅元総理の参考人聴取(国会の東電福島原発事故調査委員会が実施)での「大弁明演説会」の内容が紹介されています。

 記者の憤りがここまで強く伝わる記事も珍しい。

 私も学校における諸問題について,自分の責任に対する自覚や責任を果たさなかったことに対する反省をせず,ひたすら責任転嫁をする教師を相手に,いろいろと書き綴ってきたわけですが・・・。わざわざこういう場で書くという行為そのものから,「憤り」を感じていただけると幸いです。

 学校でも,大切なことは知ろうとせずに,「どうでもいいことを知ろうとする」のに熱心な人がいる。

 私が過去にふれていた,「迷惑な養護教諭」がその例です。

 最近はスクールカウンセラーに相談して,ある程度,適切に問題が解決に向かったり,問題の拡大を防ぐことができるようになりましたが,

 「迷惑な養護教諭」の手にかかると,

 問題がこじれ,解決が困難になるばかりでなく,問題をさらに拡大することになる。

 記事で読んだ菅元総理にそっくりな状況が生まれるのです。

 菅元総理の場合は,こんなやりとりがあったそうです。

***************

 菅氏「あなたのリポートには目を通したが、技術的に理解できない。外部冷却装置はどこにつけるのか。私がどこにつけていいのか分からずに決定はできない」

 上原氏「そんなことは首相が考えるべきことではないはずだ。技術的に分からずとも、やるやらないの決断はできるでしょう」

 すると、菅氏は突然「なにいっ!」と激高して、日本語かどうかも聞き取れない言葉で延々とわめき散らした

***************

 事故翌日の3月12日早朝に第1原発を視察した意義についてこう述べ、失笑を買った。

 「現場の考え方や見方を知る上で、顔と名前が一致したことは極めて大きなことだった」

 国家の非常時に、現場の責任者の顔まで自分で見て確かめ、名前と一致させなければ納得できないトップとはどういう存在か。部下の業務を過剰に管理・介入したがる悪しき「マイクロマネジメント」の典型がここにある。

***************
 
 記事は,以下のようにしめくくられています。

***************

 己の限界も足らざるところも知らぬ半可通が全て仕切ろうとし、必然的に多くの失策を犯した。それが官邸の事故対応の本質だったのだろう。

***************

 意思決定のほとんどが一人一人の教師に任されてしまっている教育現場では考えられないことかもしれませんが,「トップが決断することに部下が従う」のが一般的な組織で一番問題なのは,「決断の遅さ」「決断の誤り」なのですね。

 確かに,「早くて正確」なのが理想であることはたしかですが,

 「失敗を恐れて決断しないことが失敗の原因になる」場合,これはもう最悪です。

 出典は明らかにされていませんが,ウィキペディアには,

 マイクロマネジメントについて,
 
 指示・命令を与えることによって、管理者自身が有能さや職務の重要さを示していると感じることもある。このような管理者は、実際には職務に必要な能力や創造性を欠いているにも関わらず、自尊心を満たせる状況を自分で作り上げていると考えられる

 という記述もあります。


 菅元総理と「迷惑な養護教諭」が似ているのは,

 「任せるべきことを任せない

 「必要以上のことを確かめようとする

 「手を出すべきではないことに手を出す」ことにあります。

 「悲劇のヒロイン」としての生徒をたきつけてますます「怒りや悲しみ」を燃え上がらせ,

 「話を聞いてくれるやさしい先生」としての満足感を高めていく「迷惑な養護教諭」。

 お互いに自尊心を高め合い,「裸の王様」になっていく。

 
 この人でなければ,こんな結果にならなかった・・・・と後で振り返られてしまうのは,哀しいことです。


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コメント

参考になると思うのでリンクを貼っておきます。

http://www.u-gakugei.ac.jp/~ohkawara/ronlist.html

養護教諭のお話、よくわかります。似たような人いましたから。
問題児童と同じ行動パターンの教諭よいうのも確実に大勢います。知ってるだけでも何人も、あ~恐ろしい!

どれも皆、クラスターB群の人ですよ。
クラスターB群の人の共通の特徴として他人を傷つけたりしても平気でいつも自分に賞賛を求める傾向があります。

菅直人元総理も同様でしょうね。反社会性と演技性、境界性などを寄せ集めたような人柄ですよ、しかし彼らはよほど子供の時に親子の関係が悲惨だったことが同時に覗えるので、気の毒ではあるけど周りの人をメチャメチャにするのはやめなさいと言いたいです。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より