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「自分の考えとは何か」を自分で考えてはいけない

 「自分の考えをもつ」ことは,そう簡単にはいきません。

 「自分の考えをもち,自分の言葉で説明する」ことは,なおさら困難です。

 現職の先生に,「言語活動の充実に向けて,先生が最も重要だと考えていることを述べてください

 という「課題」を「免許更新講習」などでお示しするとします。

 どんな「考え」が書かれることでしょう。

 私の予想では,法令だったり,文科省や都道府県の指導資料にある文言が並ぶだけの「模範解答」で,「考え」と言えるようなものにはなかなかお目にかかれないでしょう。

 「特に新しい『考え』などない。今までやってきたことを継続するだけだ

 というのが,「最も適切で,あるべき『考え方』」なのかもしれません。

 「自分の考えをもつ」というのは,

 最後の最後,本当にゴールに近いイメージで,

 もし小中学生に授業の導入で,「あなたの考えを述べなさい」などと言っている
 
 「考え」が,

 冒頭の「自分の考え」にあたる言葉と同じ意味なら,もはや何も語るべきことはなくなります。

 「自分の考え」というものへの「考え方」が浅い人たちが指導すると,

 その成果は「とても優れたもの」にすぐに到達できるでしょうね。

 話は少しだけそれますが,

 「目標に準拠した評価」=「絶対評価」が怖いのは,これです。

 教師の「目標」の理解がちぐはぐであれば,当然,

 「評価規準」が人によって違うことになりますし,

 「評価基準」をそろえることなど不可能になります。

 「自分の考えを自分の言葉で表現する」ことが,いかに難しいことかは,

 大人が理解しておかなければならないことです。

 「武士とは何か?」

 これを,社会科の教師たちは,「自分の言葉」で本当に語れるのでしょうか。

 子どもに「武士」と聞いて思い浮かべられる人は?

 と聞くと,「人名を知っている人物」「有名人」を答えるのが普通でしょう。

 「人物重視」の小学校歴史の課題はそこにあります。

 「どこからどこまでが貴族か」を知らないまま,「貴族の政治」という呼び方をしていますね。

 「武士による政治」「武士の世の中」の「武士」と,

 「武士の困窮」といったときの「武士」が違うことくらいは気づくでしょう。

 鎌倉時代の非御家人や,江戸時代の下級武士を想定して「武士」を語れたら,なかなかのものです。

 「武士とは何か?」について語るだけでも,
 
 そう簡単に「自分の考えを自分の言葉で表現する」ことはできないのです。

 言語活動の充実をめざす授業では,

 「自分の考えを自分の言葉で表現すること」が重視されます。

 こういう取り組みを繰り返していくことのメリットは,

 やがて,

 「基礎・基本とは何か」に

 目が向いていくことくらいしかないでしょう。

 子どもから教師まで,

 「口から出まかせ」のオンパレードの授業を見続けるのはつらいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より