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小学校の独裁体制が育てる子どもの「言語活動の技術」

 「ゆとりの中で・・・」

 「生きる力」

 「言語活動」

 これらのキーワードをてこに,教育を変える真摯な姿勢や取組をPRするのが「研究校」です。

 その発表を聞きに集まる教師たちは,「果実」「花」を見て,ある面は納得し,一方では「うちの学校では無理だな」などと感想をもつ。

 教育には,どうしても「閉塞感」がつきまといやすいものです。

 どうしたら学習に対する意欲を高めることができるか。

 どうしたら思いやりのある心を育てることができるか。

 「だめだ」「無理だ」とあきらめている教師が「悩む」ことはありません。

 「悩む」教師の邪魔を,「悩まない」自分がしているという自覚をもてる教師は少ないでしょう。

 教育現場の「閉塞状況」の特徴は,「育つ側」の問題だけではなく,「育てる側」の問題もあることです。

 「どん詰まり感」「無力感」を強固なものにしてしまう原因は,子どもではなく,教師の側にあるのです。

 ***************

 言語活動の充実がさけばれるなか,教師たちは,授業の中で子どもが自分の考えを自分の言葉で表現する活動の時間を増やすことでしょう。

 しかし,自分の考えをもつための材料(教材・資料)がなければ,決して「自分の言葉」は出せないし,材料があることで逆に,「自分の言葉」ではなく「コピペ」で済ましてしまおうとする態度が定着してしまうおそれもある。

 教育実習生の授業でよくあるパターンですが,現場の教師は「そんなことはしていない」と言い切れるか。

 「試験に出るから覚えろ」式の学習を提供して利益を出す会社の真似をして,ますます「自分の言葉」を失わせる努力をする教師もなかなか減らないでしょう。

 悩みは尽きません。

 ただ,どんな学校にも「言語活動を充実させる」絶好の機会というのはあります。

 ***************

 あまり「研究発表」の対象にならないのが,

 「問題行動に対する指導の理論の実践」です。

 原則的なことはみんな

 「わかっている」

 から,わざわざ本を読んだり講演を聴いても,なるほどとは思っても,「役には立たない」。

 しかし,「役に立てることができない」というのは,「わかっていない」からである,

 ということが「わからない」のが,教師の一番の問題なのです。

 生活指導のセンスがある人なら,「言語活動の充実を図る」と聞いたときに,

 自分の指導のあり方に反省の目を向けることができるでしょう。

 学校の中で,最も「言語活動の充実を図る」必要性が高い生徒はだれか?

 その生徒は,「言語活動を充実させる」機会を保障されているか?

 
 私は,その学校の教育力を「測る」上で重要な指標の一つに入れられるであろうものとして,

 「問題行動の事実」がどれだけ「正確」「公正」に教師の耳に入ってくるか?

 があると考えています。

 
 小学校時代に,

 隠す

 ごまかす

 しらをきる

 うそをつく

 だまる

 で逃げ続けてきたことを放置された子どもたちは,

 教師がチームワークを組んで「話を聞く」ことに慣れていないので,

 自分たちがいかに「いい加減」なことを言っているかが,すぐにばれてしまう,ということを知りません。

 「学級担任」一人が「聞き役」になるという「独裁体制」が,子どもにどのような「言語活動の技術」を育てたか,小学校の教師は想像したことがあるでしょうか。

*****************

 このような話をすると,

 私が「無責任体質が体にしみついた」と呼んでいる教師たちは,

 「それは家庭が悪い

 と開き直るでしょう。

 たしかに,両親がいる家庭で,子どもが問題を起こした時,常に「聞き役」は母親だけで,父親は聞こうともしない,こんなことがあるのは問題でしょうね。

 しかし,小学校は,学級担任という「一人親」の大家族なのです。

 もし,問題行動の聞き取りや指導を,自分一人で完結させてきた小学校教師がいたとしたら,それは自分が批判している家庭と同じことです。

 「一人で解決する方法」を切々とつづっているような「生活指導本」を読むと,

 そういう指導を受けている子どもが何だか気の毒になってきます。

 学校とは,本来,「チーム」で子どもを育てる場所なのです。

 他のクラスの子どもであろうが,他学年の子どもであろうが,

 問題を起こした子どもの話を「聞いてあげる」こと。

 それが常識である小学校から進学してきた子どもの「言語活動の能力」は高いです。

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コメント

男の子の生活指導をしていると,生徒が話すべきこと(生徒に聞いていること)をすべて母親が話してしまう,という場面がよくあります。

学園ドラマでは,教師の描き方は下手なのですが,この手の母親の場合は上手に描かれています。

家庭における「言語活動の充実」は,望むべくもない,と嘆いている教師も多いことでしょう。

自分に子どもができたときのために,教育を学ぶ機会を子ども時代に与えることは不可能でしょうか。・・・・そうですね。

「こんな親になっちゃいけませんよ」という人間が,まさに自分の母親だったらショックでしょうね。

言語に関しては、子供の時は一般には女の子の方が発達が早く、男の子は遅いという事があり、言語は確かに重要ですが、それが出来ない子が、たいてい男の子にいます。

どんな場面でも果実を求めすぎる傾向がどこにもあるようで、ちょっと難しい迷路にはまりそうな感じがします。

心の土台はちゃんと形成されたのかということと思いやりを持てるということが密接に関連あると考えられています。

また、男の子の場合、母親が男らしさを求める傾向があり、その男らしさというのが「不言実行」だったり、男は泣かないとかいろいろ無茶な要求が押しつけられる事があります。
そういう場合、言語によるコミュニケーションは難しくなるばかりです。

同じクラスであって同じ年齢でも言語能力の発達には大きく差があるということは頭に入れておく必要があると思います。

さらに社会的に求められる人格が昔とは異なる(戦時中とは)ということも周囲が十分承知していなければ『不言実行』となっていくような危険性もはらんでいます。

発達の遅い早いを十分見極めて、円滑にコミュニケーション出来るように育ててゆくことが1つのポイントではないでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より