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「ゆとり世代」が背負うあまりにも重い十字架

 新入社員が上司から

 「ゆとり世代」と呼ばれて

 注意される,叱責される,馬鹿にされる,軽視される・・・・・

 そういうケースが今後,増えていくかもしれません。

 人に自分よりも低い「階級」「集団」「階層」のレッテルを貼り付けて呼ぶことに,

 抵抗感がない人と,ある人の違いは,

 自分がそういうことが普通に行われる環境で育ったかどうかで決まるのでしょう。

 たいした意味も込めずに軽い気持ちで呼んでしまう人が,

 そう呼ばれた側の気持ちをしっかりくみ取っていかないと,

 組織や人材育成が立ち行かなくなる・・・・・・

 そういう「世代」が社会に入るようになってきた・・・・と言われるようになれば,

 「ゆとり世代」の「特徴」がまた一つ増えることになってしまう。


 「ゆとり世代」という「レッテル」は,無限の「発展性」を帯びたものになるでしょう。

 同世代の方々には,あまりにも重たい「十字架」になっていく。

 こんな他人ごとのような言い方で申し訳なく思います。

 しかし,これは間違いなく,一生背負っていかなければならない「十字架」でしょう。

 その対策とは何か。

 私は社会科の教師として,「ゆとりの中で生きる力をつけること」に勢力を傾けた世代の人には,

 たとえば,「調査する力」(学校では「調べる力」というのが一般的です)を社会人になっても磨き続けていってほしいと思っています。

 「調べる」というと,すぐに「インターネット」を連想してはいけません。

 「インターネット」はあくまで「入口探し」で,「調査」は自分の目と耳と足を使って行うのです。

 「事実を確認する力」を基礎として,「事実の背景や関連を説明する力」などの「活用力」「応用力」をさらに磨いていくのです。

 「自分の力で集めた情報をもとに,自分の頭で考えたことを,自分の言葉で話せる世代

 の先駆者として,「ゆとり世代」が輝いて見えるような活躍をしてほしいと思います。

 若い時は,年上からは何かと「説教」を受けるものです。

 入社20年くらいたっても,「ゆとり世代」と呼ばれることはないでしょう。

 「ゆとり世代」の前は,「詰め込み世代」でした。

 次は,「言語活動の充実」に力を入れられた,

 「口だけ世代」になるかもしれません。

 時代を先取りして,次に求められそうなものに取り組んでいく,という方法もあるでしょう。

 「言語活動の充実」の次は,

 「体験活動の充実」でしょうか。

 教育行政には「広い視野」はないので,

 ぐるぐるぐるぐる同じ場所をまわっているだけの話です。

 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より