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大学で「退化」してしまった教育実習生たち

 「優秀な学生」の中に,本当に「つまらない」授業しかできない人がいるのは,だれでも想像ができるでしょう。

 大学で,「優秀である」という「お墨付き」をもらうことによって,自分がやってきたことを肯定的に捉えている人が,いざ授業をする立場になると,

 「自分がやってきたように学ばせればよい」と考えて,「つまらない」授業をしてしまう。

 これで何がわかるかというと,大学で「優秀である」ことが証明されたことによって,教師としては「優秀ではない」ことが確定してしまった,ということです。

 大学では,「大量の履修生」を「消化」するために,「知識の垂れ流し」をすることが多いのでしょう。

 これが義務教育段階の「学び方」と異なる点です。

 入れる人が限られている大学,大学に入れる人が限られていた時代なら,それで成立していたのかもしれません。

 「知識の垂れ流し」という,最も労力の少ない,「免許がなくてもだれでも『教えた』ことにできる」ような仕事によって「学ばせる」ことができる大学は,今,どのくらいあるのでしょうか。

 当たり前の話ですが,だれでも大学に入れるようになると,「垂れ流し」では理解できない学生,講義の内容に興味・関心が持てない学生が増えるわけで,「授業が成立しない」状況が生まれ,

 大学の教員向けの「授業の仕方」という本が売れるようになる。

 こういう状況のもとで「授業」を受けてきた大学生が,少しでもまともだったはずの義務教育の「授業」を忘れてしまう・・・・「退化」してしまう・・・・ことは,本当にもったいないことです。

 「だれでも入れるわけではない」大学の学生から話を聞いても,

 中学校の「総合的な学習の時間」とか,「研究会」に毛が生えたような内容しか学ばせてもらえていない学生もいて,本当に気の毒だと思います。

 教育実習は,大学4年生のときではなくて,大学1年生の5月に始めた方がまだましであるような気もしています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より