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児童生徒を「犬」扱いしているわけではないのでしょうが・・・・

 しばらく教育から遠ざかっていたのに,ちょっと戻ると,またすぐ「ばれてしまうこと」が出てきてしまう・・・・。

 どんどん哀しさが増幅してきます。

 以前,「上から目線だ」と言い出す人の中に,自分自身がいつでも「上から目線」であることに気づかない人がいる・・・・だから,逆の立場になることが絶対に許せない,批判が許せない・・・・そんな話を読んでここにも記したことがありました。

 私の「国語力」の感覚から申し上げると,

 「児童生徒と先生の関係」について記すときに,「犬や猫」の話をたとえに使っていくことは,申し訳ありませんがダメですね。

 だからか・・・・と私なんかが納得してしまう,そんな「わかりやすい」たとえでもあるのですが。

 引用させていただきます。

******************

>児童生徒を変数S、先生をTとして考えたが、このSとTは孤立した変数ではない。

>SとTが相互に関係しあって変化するのである。

>本ブログのタイトルは「子どもが先生の話を聞くとき」であるが、児童生徒がどの程度先生の話を聞くのかは、相互の人間的関係が影響する。

>ただ形式的に聞いているだけなのか、心に響いて聞いているのかは、人としての相互の関係で違ってくる。

>犬は人間に一番近い友だちであると言われるが、猫も同様に人の生活圏に入り込んでいる。

>飼い主と他人では、猫や犬も対面した時の反応が違う。

>犬は、おもしろいことに、家族に順位をつけると言われている。

>順位の上の者には従順だが、自分より下の者には言うことを聞かない場合がある。

>また、初対面の他人であっても親しげに寄ってくる犬もいる。

>しかし、ある人には吠えるということもある。

****************

 日本人が使う日本語は,あいまいだと批判されることがあります。

 それは,あいまいなままにしておいた方が,波風が立たない,

 婉曲に表現することで,直接的に批判するよりも,相手が気づき,自ら変わろうとする力を促すことにつながる・・・そんな意図が隠されているわけです。

 でも,上のような日本語表現の場合は,指摘しないとまずいでしょう。

 たとえ「犬」が「人間に一番近い友だち」であったとしても,

 「児童生徒」は「犬」ではありませんから,

>児童生徒がどの程度先生の話を聞くのかは、相互の人間的関係が影響する

 ということと,犬が

>順位の上の者には従順だが、自分より下の者には言うことを聞かない場合がある

 ということとは,全く話が違います。

 日本語(国語)は,単なる「言語」ではありません。

 それを使うことで,「どのような人間か」がわかるのです。 

 日本語(国語)の能力と,こういう場合にこういうたとえを使うのは適切ではないな,と感じる能力は,「別物」ではありません。

 コンピュータには,区別がつかないことかもしれません。

 おそらくコンピュータは,「頭がおかしい人が通う病院」という言葉を「不適切だ」とは教えてくれないのでしょう。

 児童生徒がどうこう,国語力がどうこう書く前に,もっと根本的なことをふり返る必要があるのです。

 声を大にして言いたいのですね。

 国語能力,以前の問題なのです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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