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教職を志望する人が読んでおくべき教育ブログ

 採用試験情報のように,必要にせまられて読みに行くブログもあるでしょうが,

 教育の世界のことを知ろうと思ったら,無駄を覚悟で読んでおくとよいものもあります。

 ほとんど何の役にも立たないと思われるブログでも,「(元)教師の真実」が隠されているもので,

 「教師とはこういうもの」というイメージを持てているか,いないかによって,

 教職についた後の「心のゆとり」の幅が違ってきます。

 「理想」の教師とか,「理想」の授業には,「売り物」の本によってたくさん接してこられたでしょう。

 ただ,「本物の教師たち」にはなかなか接することができない。

 自分の小学校,中学校時代を思い起こせば,
 
 心当たりがあるでしょう。

 教師自身ができていないことを,子どもには強要する

 人の話を聞かない教師が,子どもには自分の話を聞け,という

 時間を守らない教師が,子どもには時間を守れ,という

 差別語を日常的に使いながら,子どもには差別をするな,という

 自分ができていない,まさにそのことを,「こういうことができていない人がいる」と書き綴っているブログがあります。

 こういうのを厚顔無恥,というのですが,

 実は,こういう人間こそが,教師に向いている,しかも,荒れた学校の教師には向いている

 というのが教育現場の「隠された常識」です。

 自分のことがわかっていない人間は,心を病んでしまうことがありません

 学校現場には,なくてはならないタイプの人間なのでしょう。

 こういう「安全な人」のうち,少しおだてられただけでその気になってしまう人が,「荒れた学校」に適している・・・・・と表向きは言いませんが,長い経験上,知っているのが教育委員会です。

 どうしてこんな人が教師をやっているの?という人にも出会うでしょうが,理由があるのです。

 本当は,こういう教師がいると,学校経営をする側が「困る」はずなのですが,そもそも「荒れた学校」というのは,組織としての経営が成り立たないところなので,管理職自らが「困る」ことをやめてしまえば,あとはいかに「何事もなく,一日,一日を終えるか」が重要であって,「新しいアイデア」とか「先進的な取り組み」など,決して教員には求めず,「余計なことをしないでくれる」ことに感謝するようになります。

 万事について鈍感な教師の存在が意外に重要なのであって,こういう教師が一定程度の割合を超すと,学校というところは不思議なほど「安定」し,やがて「荒れ」もなくなっていくことがある。

 「安定」の背後にあるのは,「みんなが低学力であることによる安心感」「学ぶ意欲の欠如」「競争心の欠落」。

 良識のある保護者がこの事態を察知したときはもう手遅れ。

 「困る」べき人たちが「困る」ことをやめたとき,学校は「安定」し,社会の将来の「不安定要素」は,拡大する

 もし初任者として赴任した学校がこんな学校である場合,学ぶべきことは2つ。

 1つは,子どもと教師との微妙な関係

 子どもは,鈍感な教師を軽蔑するのと同時に,うまく利用しています。

 その利用法を知りましょう。

 そういう教師は利用されていることを知らないのですが,教師としてやっていく上で大事なのは,あえて利用される態度がとれるということ。

 ついでに,軽蔑されないようにするには,どんな行動をとるべきか。

 もう1つは,教師と教師との微妙な関係

 どんなに鈍感な教師でも,「長いものには巻かれろ」式の処世術?は身につけている。それを「醜い」と思う感性を育てつつ,「だれのどういう行動に,どういうタイプの人が共感するのか」を観察する。

 そして10年くらいたったときに,一度くらいは「出る杭」になってみる。

 「鈍感な人」は,「出る杭」にはなりません。

 一般の社会に出ても,ほとんどは「出る杭」ではなく,「出る杭をたたく」方の人間です。

 「鈍感な人」に,自分をたたかせてみる。

 「出る杭をたたく」という経験をして初めて・・・・生まれて初めて,

 「自分の醜さ」「」「無知」に気づく人がいるかもしれません。

 「解脱」です。

 こうやって,「自分に目覚める」教師が増えるきっかけができれば,公立学校にも光が見えてくることでしょう。

 これから,公立学校の教師として重要な資質は,

 鈍感な教師をまずは受け止められること。

 次に,そういう教師に自ら「気づかせる」機会をつくれること。

 鈍感な教師がますます増え,

 敏感な教師の多くがますます病休に入るままだと,公立学校の教育に未来はありません。

 
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
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  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より