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十字架の「架け替え」は許されない

 タイトルから,「ご想像におまかせします」なんて書いたら叱られてしまうかもしれませんね。

 「橋下さん,あなたもですか」というタイトルにしようとも思ったのですが,テーマは教育にしぼっておきます。


 人はだれでも「背に重い荷を負って」生きています。

 小中学生でも,大人から見れば「あまりにも重い」荷を背負わされていることがわかる子どもがいますが,本人はまだ,その「重さ」に気づくことはできない。

 逆に,大人から見れば「軽い」荷が,子どもにはとてつもなく「重く」感じられることもある。

 たった一言でも,その「重み」は「話す側」と「聞く側」とでは,全く異なることがある・・・・・そういう自覚もなしに,「教育」のブログを書く資格はないだろう,と,カルロスさんは,おっしゃっているようです。

 教育とは,新しい十字架を子どもに与え続ける営みと言えるのかもしれません。

 だからこそ,教師は自分が背負ってきた十字架だけでなく,営みの中で生まれた十字架を背負う覚悟が必要なのです。

 自分の十字架をひけらかすのもおかしなことだし,自分が背負っていかなければならない十字架を勝手に下ろすのも,やってはいけないことです。

 しかし,個人ではなく,「行政」などに目を向けると,

 人が変われば,「廃棄された十字架」が積み重ねられていく

 これを拾う覚悟がある人が,新しい時代のリーダーなのか。

 あるいは,十字架を次々に抹消していくのが,よいリーダーなのか。

 現場から「足抜け」した「評論家」のように,無責任でいられない教師たちにとって,次の時代のリーダー像は欠かせないものだと思われます。

 私としては,前者のリーダーを育てるべく,日々を過ごしております。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より