ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月

辞書をたよりにする外国人には分からないであろうこと

 「言葉の正しい意味」を知るのに,辞書をたよりにしなければならない外国人に対しては,

 「理解するのは難しいことだろうな」と思うのが一般的でしょう。

 日本人が使う「おかしな」英語は,日本人にとっては,「わかりやすい(和製)英語」なのかもしれません。

 同じように,日本語を母語としない人が使う「おかしな」日本語は,それを使っている人間にとっては,「その表現のどこがおかしいかわからない」ものであることは無理もないこと。

 話は変わって,

 dolceさんが「辞書に書いてある」と言っている,「切磋琢磨」の意味は,

>学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。

 という説明の後半部分のことですね。

 「また」という接続詞の意味を,辞書で引いて調べてみたらいかがでしょうか。

 友人同士が互いに・・・・して,学問や人徳をいっそう磨き上げることも含まれますが,

 自分の力で,学問や人徳をよりいっそう磨き上げることも,「切磋琢磨」で表現できるのです。

 「切」とは骨を加工する時の,

 「磋」とは象牙を加工する時の,

 「琢」とは玉を加工する時の,

 「磨」とは石を加工する時の作業をそれぞれ言い,

 それらの作業は,手間と緻密さが要求されます。

 人と協力したり,競い合ってやると高い効果がねらえるかもしれませんが,

 一人でできる力を伸ばすという意味にも使えるのです。


>切磋琢磨の言葉の意味は「友人同士」ですから、一人ではできません。

 というdolceさんの見方は一面的で,

 「友人同士が互いに励まし合い競争し合って,共に向上することは一人ではできません

 なんていっても,何の意味もないわけです。


>学問や人徳をよりいっそう磨き上げること

 を一人では決してしていないdolceさんのような方の「教育観」が,どれだけ歪んでいるかは,

>精神的にもおかしいが(ママ)恒常的に起こる人は医者に行った方がいいし、事実、行っている人も多い

 ということを平気で書けることから容易に想像できます。

 ご本人は,ご本人が書かれている通り,「どこがおかしいかわからない」のでしょう。

 恥の上塗りを重ねているそのお姿に,同情を禁じ得ません。

 裸の王様に,決して教えてはいけないこと。

 それは何ですか?

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ  

ぬるま湯人間にはわからない「切磋琢磨」する動機と機会と場所(追記あり)

 人をバカにする態度や言葉を投げかけることにかけては天才的なdolceさんに,

 「多様なものの見方・考え方」をご紹介します。

 ぬるま湯人間たちは,「切磋琢磨」という状態が起こるには,人間関係がよくないと起こらない・・・・・などという発想があるようですが,

 人間関係がよいことによる逆効果として,あえて努力に努力を重ねて「切磋琢磨」するような苦労はしない現場があることは,もう言うまでもないことです。

 「こういう指導では,本当に子どものためにならないのではないか?

 という疑問が生まれ,それを直接,相手の教師に投げかけると,一度は関係がぎくしゃくするもとになるかもしれません。

 でも,お互いが本当に子どものことを考えているのであれば,意見の相違や歩み寄りが難しく,関係がぎくしゃくしてしまっても,いずれは「本当の答え」に近いものに到達できるようになるかもしれません。

 教師と教師との関係はぎくしゃくしていても,

 しっかりとした指導ができているのであれば,

 一人一人の子どもの能力は順調に育っていきます。

 そもそも,「切磋琢磨」は,個人でもできることですし,研究会などでの他校の教員の集まりでもなし得ることです。

 dolceさんは,私が最初の記事で書いたことを,自ら証明してくれています

 読解力がなくても,明らかなこと。

 目の前の子どもにとって最善の教育を実践すること,

 そのことを主目標にするのであれば,

 職場でよい人間関係を無理してでも維持する必要はないのです。

>意としてすり替えているのなら、問題な性格であるし、切磋琢磨は良い環境の中で起こるということが理解できず、悪い環境(ギクシャクした人間関係)の中でも良い成果はあるとまじめに考えているのなら、これは、はっきり言って知能の問題である

 とdolceさんは書かれていますが,

 切磋琢磨は学校内でしかできないとまじめに考えているのなら,・・・その先は,言わないでもわかるでしょう。

 いずれにせよ,もとの文章をきちんと読まれていないのが最初のボタンのかけ違いですから,それは,ご自分でどうにかしてください。

 私の文章は,「人間関係がぎくしゃくしている方がよい学校もある」です。

*****************

 dolceさんは相も変わらず・・・もとになる記事を読もうとされていないし,新しい記事にも目を通さず,思い込みだけで,相手を「馬鹿にしたい」という気分の一心で・・・・。

 こういう老化現象は,学校現場にいる教師の場合,20代から始まってしまうので注意が必要です。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

なぜ視野が広い教師が求められるか ~dolceさんへのアドバイス~

 dolceさんは,まだ一般社会ではご活躍の場をおもちだそうなので,いつものご愛顧に感謝して,

 「視野を広くもつこと」の大切さをご紹介させていただきます。

 「上から目線」と感じてしまうか,「謙虚に受け止められる」かは,dolceさん次第です。

 まず,文章をよく読んで,「曲解」したり「捏造」したりしてはならないことは,ご自身が他者によく指摘していますからおわかりだと思いますが,

 たとえば,「理屈にならない屁理屈」としか想像できない,いえ,他のことを想像しようとしない態度・・・・相手が間違っているのだ,と断定する態度を改められることが大切です。

 
>恐らく、理屈にもならない屁理屈があるんでしょう。
>それは、これまでの経緯から予想することです。

>「マイナス効果」なんて言葉も使っていますが、効果という言葉はマイナスには使いません。

>これも、予想通り訂正されませんでした。

>もし、本当に子どもを伸ばしたい、いい教育をしたいと思っていたら「間違いを訂正しない先生」はダメだと思います。

>それは、私自身強く経験しています。

>合唱、吹奏楽、オーケストラなど指揮をしている時、指揮を間違えた時「今のは間違えました」と言わないと、子どもからの信頼がなくなります。

>子どもは何も言いませんが、指揮を見なくなります。


 「効果という言葉はマイナスには使いません

 とありますが,

 マイナスになることがプラスである,

 そういう現象も社会にはあるんですね。

 たとえば,税金。

 たとえば,教師による犯罪件数。

 たとえば,生徒の問題行動の件数も。

 一方,『皮肉にもそうなってしまった』という意味で,マイナスの価値を招く場合も,「マイナス効果」が使われるのは,一般的なことです。

 「成長」はいい方に育つことである。だから,「マイナス成長」という言葉は間違っている,なんて言われても,困るんですよ。

 日本語には,一見,正しくないような言葉の組み合わせでも,そこに「皮肉」「意外性」「期待外れ」「悪影響」などの意味をこめて使用することが可能になるのです。

 日本語を母語として使ってきた日本人なら理解できるはずのことです。

 あと,またご自身の経験をご披露されていますが,

>指揮を間違えた時「今のは間違えました」と言わないと、子どもからの信頼がなくなります

 とありますが,もともと子どもからの信頼がない教師の場合は,「今,間違えました」なんてことをいちいち言うと,もともと信頼などしようとしていない子どもに対しては,「マイナス効果」=「逆効果」=「皮肉な結果」=「期待と逆の結果」になるかもしれない,と想像できる教師にならないといけません。

 私もそういう「謙虚」な教師の実態をたくさん見てきましたから。

 すぐ子どもに謝る教師たち。態度としてはもちろん「正しい」のですが,

 「教師も間違えることがあるのは当たり前」と共通認識のある人間関係の場合は,

 「表情」だけですべてを伝えることが可能です。

 むしろそういう伝え方ができる教師に成長する方がいいでしょうね。

 でも,本当に子どもに信頼されていない教師の場合は,まだ自分の間違いを認めず,好き勝手やってもらった方が,子どものやる気をそがないで,子どもが伸びるという「場合もある」ことを想像してみてください。

 反面教師というものですね。

 「手本」というのは,「よいもの」でなければいけないもののようなのですが,

 「悪い手本」があるから,「ああはなりたくない」という「正しい判断」をもたせることができるようになるのです。

 私が

>教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 と書いたことの意味が少しご理解いただけたでしょうか。

 学校の教師は,今の時代は「容易に超えられる存在」になっているわけですから,子どもに直接的な迷惑をかける教師でなければ,「ダメな人」にも「超えられていく」という存在価値があるのです。

 どんな教師でも,こうしないとこうだ,と決めつけてはいけないのです。

 特に指導経験の浅い人にとっては。

 書かれていることのレベルが低いことを指摘されて,立腹されるところまでは「共感」いたしますが,そこで反論を加えてますます墓穴を掘ってしまうという行動パターンが,もし現場の教師だったら,「信頼されなくなる」原因になるのです。

 こういう教師たちが「良い人間関係でいられる」学校がどんなところか,一般の方は,ぜひ想像なさってみてください。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

dolceさんが証明した読解力(読解意欲)不足と経験不足

 名指しではなかったのですが,また例の調子で始まったので,ご回答しておきましょう。

 ご自身がかつて批判していた姿そのままの記事を紹介してくれているので,興味のある方は,

 私の「人間関係がぎくしゃくしている方がよい学校もある」という記事と,

 dolceさんの「教員の知的水準」という記事を読み比べてみて下さい。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ


>人間関係はギクシャクしていた方がよい。なぜなら、その方が切磋琢磨が行われるから。
>こういう発言をしている人が、先生だとしたら、唖然とする保護者もいるだろう。


 「こういう発言をしている人」が私を指していることは明らかでしょうが,

 私が「そういう発言」をしているかどうかは,記事を読まれればおわかりになるでしょう。


 dolceさんは堅気からあちら側に住所を替えられたのでしょうか。

 
 私以外の,実名で記事を書かれている大学の先生まで,攻撃の対象にし始めました。


>しかも、こういう方を尊敬しているという大学の先生がいるのには驚きます。
>何を尊敬しているのでしょうか?
>デタラメさを押し通す、心臓の強さでしょうか?

>果たして、教員を養成できるのでしょうか?
>少子化で大学は経営が危ぶまれているところもあります。
>そのうち、名前さえ書けば合格するよと言われているところもあります。
>何か、日本沈没が現実化してきたようでもあります。


 「大学の先生」もだまっていられくなるでしょう。

 「大学の先生」だけでなく,「大学」までこき下ろしているわけですからね。


 dolceさんはほんのちょっと前にご自分が書いたことと正反対のことが平気でできる人で,その「知らんぷり加減」が魅力的なのですね。とても具体的でわかりやすい症例です。知らんぷり症候群。

 私がこの方とやりとりしている最大の理由は,繰り返しになりますが,

 どういう教師が公立学校にいたのか,そのどこがどのように問題だったのかを生々しくお読みいただけるからで,「これはまずいな」という危機感を現場の先生方にも気づいていただくためです。

 おそらく,経験不足が最大の原因で,

 「教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,そういう学校もある」ことに全く想像も及ばないレベルにいるのでしょう。

 それは,dolceさんだけではないかもしれません。

 教育実践に「成功っぽいもの」はあっても,「本当に成功と言えるもの」は簡単には見つかりません。

 その「成功っぽいもの」で満足している小学校の教師たちには,とてもじゃないですけど中学校の教育現場で苦しんでいる人を救うことはできないでしょう。

 なぜなら,恨まれている張本人ですからね。

にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「橋下総理」誕生後のシナリオを考えている中学生

 「ゆとりの中で生きる力を伸ばす教育」が行われていなければ,タイトルのような発想ができる中学生は生まれなかったかもしれません。

 「詰め込み」と悪態をつかれても,「必要となる知識・技能」の習得には時間をおしまずに努力し,力をつけることができる能力も,「生きる力」に含まれています。

 小学校とは異なり,中学校は「時間的なゆとり」がありません。

 一度,小学校の教師も中学校に「体験入学」してみると実感できることでしょう。

 「このペースで動ける子どもを,小学校6年生のときに育てていたか?

 生徒たちは,「時間的なゆとり」のない生活の中でも,「5分前行動」を心がけて,また,「次の次のこと」までを考えて,行動を起こし,「ゆとり」を生み出しています。

 ある人は,企業の面接でみている力を,次のように表現しています。

対人コミュニケーション能力に伸びしろはあるか

誠実さは偽りではなく今後も継続的に信じるに値するか

逆境での柔軟な解決能力を身に着けることができそうか

仕事に関する知識を吸収するスピード感は持ち合わせているか


 「伸びしろ」「継続的な誠実さ」「柔軟な力」「スピード感

 これらを身についている人間の潜在力が「ゆとり」であると考えることもできます。

 中学生たちは,「橋下内閣」誕生による日本の変化に関心を持ち始めました。

 もう行動を起こしている大人たちもいることでしょう。

 中学生たちは,目先の自分の利益のことを考えずにすむ年代です。

 目先の利益を優先する大人よりは,よほど,「社会」のことを考えているのが中学生ともいえるでしょう。

 (「選挙に勝つ」戦略を単純に「目先の利益」と呼んでいいかどうかは,内容にもよりますが)


 「橋下総理」は,私の想像ですが,そういう中学生の声をまともに受け止めるでしょうね。

 もし現橋下市長に,上の4つの「潜在力」はあるか,と問われたら,皆さんはどのようにお答えになりますか?


 *社会科の授業で橋下市政などを扱ったりしたことはありません。あくまでも,中学生の雑談の中から聞こえたきた声をご紹介いたしました。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「上から目線」が気になる人の「改革」観

 指示待ち型人間たちには,トップの言葉を待つ習性がしみついてしまっているようです。

 犬のような忠誠心は立派なのですが,

 もし子どもに教えている人間像を自分にも適用しようと考えるならば,

 人事異動によってどんな教師が来ようとも,

 どんな校長が来ようとも,

 自分たちで企画・立案して,これを自治体全体で採用してもらおうとか,校内では習慣化しようとか,そういうものをもつ気概というか「責任感」「当事者意識」というのが,教師にはほしいですね。

 トップダウンがすべてという感覚の人は,

 自分たちのトップではない人から,トップの人が言うような言葉を投げかけられると,

 「上から目線だ」と感じる習性がありますね。

 簡単に言えば,「責任を自ら背負うことをしない人たち」だということです。

 常に変革に意欲をもち,自分の行動に責任を持とうとしている人は,「上から目線だ」という反応の仕方をしないのですね。そういう反応自体,「する必要がない」ことがわかっているからです。

 「上から目線だ」と毒づく理由は,相手の口を封じるためです。

 こういうタイプの人は,自分にとって都合が悪い情報の口封じをする一方で,自分の直属の上の人間以外には,攻撃的になる

 わかりやすい話,

 政治家が悪い,官僚が悪い,と悪態をついている人の場合は,
 
 自分の住んでいる地域のため,この国のために何ができるか,自分から考えた経験があるのか,と聞いてみれば,どういうタイプの人間かわかるでしょう。

 お金がなければ何もできない,なんていうことを主張している人は,絶対にトップにならないでほしいですね。

 お金がないからこそしなければならないことを主張できる人が,たとえば学校現場には求められます。

*************

 会議で使う紙は,すべて「再利用の紙(かつては印刷後,あるいは使用後,余ったりいらなくなったりして廃棄していた紙)」を使用しています,という学校は何%くらいあるでしょうか。

 ・・・・というかそもそも,学校で年間「紙代」にいくら使っているか,すぐに言える教員は何%くらいいるでしょうか。

 「ぬるま湯」につかっていたのは,自分たちだった・・・・ということに思いが向かわない人に,だれかを非難する資格はあるのでしょうか。

 無責任な人間を作り出している背景に,あってあたりまえ,それが正しくてあたりまえ,と思っている政治のしくみがあることに気づける人間を未来に向けて増やしていかなければなりません。そういう自覚を持って取り組んでこそのしくみであることは,子どもにも気づかせることができる機会が中学校ならあります。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

人間関係がぎくしゃくしている方がよい学校もある(追記あり)

 学校内の人間関係がとてもよい・・・・とても「過ごしやすい」「仕事がしやすい」学校は,教師たちの「理想像」であることは確かでしょう。

 そして,そういう学校が,一般的には「よい学校」である。

 教師たちにとっても,子どもたちにとっても。

 しかし,「人間関係はよいものでなくてはならない」・・・・・それが最優先事項かというと,決してそうではない。

 いい仕事をお互いにしているから,自然と人間関係がよくなる,というのが理想であって,

 みんな手を抜きあっている,

 学力テストはみんなで答えを教えてしまって,学校の体裁を整える,

 みんなで子どもたちを早く学校から追い出してしまって,自分たちも早く帰る,

 課題が山積しているはずなのに,みんなでそれを放置して,責任をだれもとろうとしない,

 改善しようとしない・・・・・苦労するのは,みんないやだから・・・・。

 こういうダメ教師たちにとってだけ「過ごしやすい学校」では,子どもにとっては不幸です。

 学校に限らず,「指導者たち」はいつも成果(=学校では,子どもの成長)を追い求め,「指導方法」「指導内容」をめぐって悪戦苦闘し,悩み続ける・・・・・場合によっては,意見・考え・方針が一致せず,いがみ合ったりもする・・・・・そういう「厳しさ」のないところには,組織としての成長もないし,何より

 教師個人としての成長も得られにくい

 教師たちに限らず,一般の公務員は,厳しい経済環境の中にある企業人からみると,

 「ぬるま湯につかった」人間たちに見えてしまうことがあります。

 実際,その通りの学校もある。

 教師たちは,子どものゆとりではなく,

 自分たちのゆとりを追い求めるという一面がありました

 今も「忙しい」「忙しい」と言って,ゆとりを切望している人がいるでしょう。

 「人間関係をよくする」学校

 ではなくて,

 「人間関係がよくなる」学校をつくることが大切です。

 どうすればそうなるか。

 小学校の発想にはないのが,「切磋琢磨」。

 単なる「競争」とはわけがちがう・・・・ことがわからない人が多い小学校。

 教師の人間関係がどこかぎくしゃくしている方が,子どもがぐんぐん伸びていく,

 そういう学校もあることを知っておいて下さい。

 教育にとって,優先すべき事項は何でしょう。

************************

 ご自分のコメント欄で,「ひそかに」批判を企てたようなので,

 私が述べている学校が,「東京のすべてにあてはまるわけではないこと

 「東京以外のすべての学校にあてはまらないわけではないこと

 を付け加えておきましょう。

 dolceさんの場合は,自分が批判していることを自分自身がしていることにいつまでたっても気づけないところがあるのが,ご自分の記事の登場人物そっくりで,びっくりしました。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

服従への抵抗すら共感できない教師たち

 どう読んでも病んでいるようにしか思えない教育ブログがあります。

 こういう「やまい」の根深さが,教育という現場における仕事の「難しさ」を表しているようです。

 教育現場の仕事を,教師と子どもという関係でしか見えていないように思えるそのブロガーの職場は,間違くなく小学校だったのでしょう。

 生徒指導については,

 小学校学習指導要領では,

 日ごろから学級経営の充実を図り,教師と児童の信頼関係及び児童相互の好ましい人間関係を育てるとともに児童理解を深め,生徒指導の充実を図ること

 中学校,高校では,この規定に加えて,

 生徒が自主(主体)的に判断,行動し積極的に自己を生かしていくことができるよう

 と記されています。

 教師と生徒との間の溝の原因を,その教育ブロガーは「権威・服従関係」と呼んでいます。

 もしそれが「分かり合えない」原因なら,教員と管理職,教育委員会も「分かり合えない」関係になるのでしょう。

 人間不信に陥っていることが想像できる,こういう「やまい」にとりつかれた教員は,現場には少なくありません。

 犯罪行為等が絶えない教員に対して,教師教育の必要性,重要性が叫ばれている現状では,こっちの方まで手がまわらない,というのが教育委員会の本音でしょうが,

 共感ではなく「共感的」な理解すら「欺瞞だ」と呼び捨てられるような教師と子どもとの関係は,不幸以外の何ものでもありません。

 少なくとも,「権力や権威に抵抗しようとする子どもの心」くらいは,「俺も持っている。同じだな」などと思ってもらいたいのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教育界で最も怪しい言葉は,「学び合い」

 「学び合い」を登録商標?にしている人がいるようなので,直接的にその人を批判するものではないことを,あらかじめお断りしておきます。

 だれも勉強の「おいてきぼり」にはしない,クラスの全員が,生き生きとして学習にのぞむ・・・・そういう「教師の心構え」は大切なことです。

 でも,その手段として,「学び合い」の形態を安易にとるのは,逆効果になる場合があることを知っておくべきでしょう。

 ごくごく当たり前のこととして,

 「自分の考えをしっかりともつ」時間がなく,いきなり「話し合い」に入るのはよくない,

 なんてことはだれでもわかることですが,

 では「自分の考えをもてない」子どもがいた場合に,

 「他の生徒の考えを聞く」ことは,その子どもにとってどのくらいプラスになることなのでしょう。

 中学校の場合,私の感覚では,

 自分の考えをもてない子どもが,他の生徒の考えを「聞く」ことはできても,「理解する」ことにいたるまでには,相当のステップを踏んでいかなければならないと思われます。

 本当は,教師がこの「ステップ」を超える方法を指導していくのが,「授業」であるはずで,私が読んだことがある「学び合い」の指導案は,こういう指導を完全に放棄しているものとしか見えませんでした。

 教材研究をする必要のない,あるいは,した形跡のない指導案を見たときは,教師として本当に情けなく思います

 子どもは,・・・・素直でいい子どもほど,

 「学び合い」「話し合い」をした結果,「よくわかりました」という感想を言いやすいでしょう。

 しかし,「よくわかったかどうかがわかる質問」をその場で教師は投げかける作業をしているでしょうか

 そういう「問い」をもっているのでしょうか。

 「よくわかりました」と聞いて安心してしまう教師,それで「よしとする」教師はいないでしょうか。

 「学び合い」は,「教師の責任を最も巧妙な形で回避する」方法として使われてはいないでしょうか。

 多くの教師が安易に飛びつく「教育方法」ほど,教師の力量が高まらないものはない,というのが私の考えです。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

小学校における保身のための逆差別と過大評価

 できない子をいたぶる教師は,だれから見ても,「ダメな教師」。

 できない子どもが,ますますやる気を失っていく姿を見ることは,普通の教師にとってはつらいことでしょう。

 しかし,できる子をいたぶる教師となると,これは人によって評価が異なるかもしれません。
 
 できない子からの「信用」を得るために,できる子を評価しない

 そういう教師の「保身のための逆差別」が小学校で見られるのは,

 「できない子のやる気をなくさせない手段」として,効果があるからなのでしょう。

 子どもを評価してあげることが,逆効果になっている場合もあります。

 子どもの目から見ると「えこひいき」にうつることですが,教師の側から見れば,まともな「評価」をしているつもりのときに起こることをここでは指しているとします。

 子どもに「教師に気に入られるつもり」はなくても,気に入られてしまう子どもというのはいます。

 小学校では,そういう子どもは,高い評価を得られてしまいがちなのです。

 気の毒なのは,そういう子どもが他の子どもから冷ややかな目で見られることです。

 小学校高学年にもなると,お互いの「実力」が分かるようになってきます。

 自分たちの間でだれがどのくらい「努力」しているかも知っています。

 子どもたちから見た評価と,教師からの評価が明らかに食い違ってしまう子どもというのが,小学校には多く存在しています

 先ほど「気の毒」と書いたのは,中学校になると,教師からの評価と子どもからの評価が一致してくるので,

 「小学校と比べて中学校では自分は『ダメ』になってしまったのだ」と受け止めてしまう子どもがいるからです。

 小学校の教師に限らず,基本的に子どもたちは「成長するものだ」と思われていることでしょう。

 しかし,教師からの評価の程度が自分の想像より低いことによって,成長を実感できないか,むしろ力が落ちているのではないかと受け止めてしまう子どもがいるのです。

 「伸び悩み」という通常の感覚とは別の「悩み」を抱えてしまう。

 原因は,小学校時代の「過大評価」「過剰評価」なのです。

 中学校側の配慮としては,「過大評価」を受けてきた子どもを早い時期に察知し,自尊心を傷つけないようにするのですが,「学級委員」などに立候補して選ばれてしまったりすると,

 現実を知ることになるので,防ぎようのないところがあります。

 成長への期待は大きく,でも,「評価」は,ほどほどに。お願いしたいところです。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

大学で「退化」してしまった教育実習生たち

 「優秀な学生」の中に,本当に「つまらない」授業しかできない人がいるのは,だれでも想像ができるでしょう。

 大学で,「優秀である」という「お墨付き」をもらうことによって,自分がやってきたことを肯定的に捉えている人が,いざ授業をする立場になると,

 「自分がやってきたように学ばせればよい」と考えて,「つまらない」授業をしてしまう。

 これで何がわかるかというと,大学で「優秀である」ことが証明されたことによって,教師としては「優秀ではない」ことが確定してしまった,ということです。

 大学では,「大量の履修生」を「消化」するために,「知識の垂れ流し」をすることが多いのでしょう。

 これが義務教育段階の「学び方」と異なる点です。

 入れる人が限られている大学,大学に入れる人が限られていた時代なら,それで成立していたのかもしれません。

 「知識の垂れ流し」という,最も労力の少ない,「免許がなくてもだれでも『教えた』ことにできる」ような仕事によって「学ばせる」ことができる大学は,今,どのくらいあるのでしょうか。

 当たり前の話ですが,だれでも大学に入れるようになると,「垂れ流し」では理解できない学生,講義の内容に興味・関心が持てない学生が増えるわけで,「授業が成立しない」状況が生まれ,

 大学の教員向けの「授業の仕方」という本が売れるようになる。

 こういう状況のもとで「授業」を受けてきた大学生が,少しでもまともだったはずの義務教育の「授業」を忘れてしまう・・・・「退化」してしまう・・・・ことは,本当にもったいないことです。

 「だれでも入れるわけではない」大学の学生から話を聞いても,

 中学校の「総合的な学習の時間」とか,「研究会」に毛が生えたような内容しか学ばせてもらえていない学生もいて,本当に気の毒だと思います。

 教育実習は,大学4年生のときではなくて,大学1年生の5月に始めた方がまだましであるような気もしています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

視聴率稼ぎと大差ない「授業づくり」(追記あり)

 視聴率至上主義の「ばらえてぃー」番組への批判と同じ仲間に入れられては気の毒かもしれませんが,

 「人気とり」に熱心になる小学校の先生に一言。
 
 「おもしろい」と思われる授業をされたい気持ちはわかりますが,

 「何がどうおもしろかったのか」を子どもは中学生になって正直に話してしまいます。

 授業の本質がばれてしまうのですね。

 「今日の授業は楽しかったですか」

 という質問はやめておいた方が,「身のため」だし,子どものためでもあります。

 いろいろと子どもを楽しませるための工夫をわざわざ本にしてくれている先生へ。

 これを子ども向けの本として出版して子どもに買わせて,読ませたらいかがでしょう。

 従来の先生の役をしてくれる子どもがたくさんつくれて,先生は本来の仕事ができるようになると思います。

****************

 ダジャレやごろ合わせ,なぞなぞで「覚えさせる」ことに熱心な教師たちへ。

 いえ,こういうのは,塾の先生が得意な技では?

 「習得」の意味が分かっていない人が,これで「教えた気になる」のがこわいことです。

 あくまでも「入口」で,「出口」の情報ではありません。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

プロ対プロとアマチュア対アマチュアの「打率」の違い

 自分の出来不出来を「打率」にたとえて話をする人がいますね。

 プロの「打率」の意味が,おそらく全くわかっていらっしゃらない方が,そういう「たとえ」を使います。

 「たとえ」のセンスがない人同士がブログのコメント欄でやりとりしているのを読むと,どうしても「同一人物」にしか見えなくなってくるのが不思議。

 一般的な草野球の世界(リーグでトップクラスではない,という程度の意味です)では,打率が3割とか4割では,「いいバッター」とは見られにくいのです。

 打率が5割を超えて,ようやく「たよりになる」バッターと呼ばれる。

 プロの世界とはレベルの違いすぎる自分の「失敗談」の披露を,有名選手の打率まで持ち出して語るのは,謙遜しているというより,プロの世界を冒涜しているという姿に近いですね。

 ミスター長嶋と自分の「打率」が同じですって・・・・。

 謙虚さを人に求めているから,ときどき「自分は謙虚な人間ですよ」みたいな記事を書いてお茶を濁しているようですが,「見せかけの謙虚さらしさ」が,「たとえの質」で分かってしまうのです。

 「謙虚にしているのに,非難するとは何事だ!」と怒るようでは,まだまだ「謙虚」のレベルが低すぎるということですね。

 謙虚ではない人間というのは,自分が成功したつもりになって得意がるのを一生懸命こらえているので,「成功したつもりになっている愚か者」なんて趣旨の記事を読むと,怒りがおさまらないでついつい記事にしてしまうのですね。それでいつも本性が見えてしまうのです。

 本当に謙虚な人間というのは,自分の専門的な知識をわざわざブログなどでひけらかさず,中途半端な実践を公開したりせず,ただただ他の人が言うことから「学ぶ姿勢」を崩さない人のことを言うのです。
 
 「見せかけ」ばかりの人間かどうかの「見分け方」をご紹介しました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「~のよさ」は「~が子どもを成長させる力」のことですよ

 教員採用試験をこれから受けようとされている方は,

 「~のよさ」について,30秒前後で話せるようにしておいた方がよいでしょう。

 小学校なら,「算数のよさ」「物語のよさ」「音読のよさ」「筆算のよさ」「跳び箱のよさ」「発表のよさ」「仲間のよさ」などです。

 当然のことですが,それによって,子どもがどのような意味で成長できると考えているのかを確かめられる,そんな「問い」です。

 言葉狩りを趣味にしている教育ブロガーがいますが,

 こういう視野の狭い人間の授業はつまらなくて仕方がないでしょうね。

 「正しさ」の追求は,「あいまいさ」「悪さ」の排除につながり,コミュニケーション能力の低下を招くおそれがあることを知っておきましょう。

 「空気を読む」という,状況の中での「正しい反応」「正しい判断」で疲れ切っている子どもに,本当の「正しさ」だけを追求させるのは得策ではありません。もう何も語れなくなるでしょう。

 ただ,これだけは言っておきましょう。

 「~のよさ」と言って,「わかったつもりになっている人」は,教師になるべきではありません。

 そのためにも,採用試験の面接では,

 ぜひ「~のよさ」について語らせてもらいたいと思います。

 ちょっといじわるなのは,「教育改革のよさ」ですかね。

 空気を読まなければ,不採用まちがいなしです。

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教師の条件は「広い視野」です

 人間は,ときに極端な方に偏りがちです。

 もし日本が二大政党制になると,政権交代が起こるたびに,実は二大政党制ではなく,「一大政党制」の様相を呈するようになるという危惧があります。

 日本人がとても得意な「振り子現象」です。

 どういう人間を育てるべきかと聞かれて,社会科の教師は教科目標にもある通り,「広い視野をもつ人」を第一にあげる人が少なくないでしょうね。

 「広い視野をもっている」ということは,「思いやりがある」とか「向上心をもつ」とか,「基本的な知識や技能を身につけている」とか,多くのことも同時に実現しているはずだと考えられるからですね。

 「広い視野がない」人間には,

 まともな「反省」など決してできません。

 「広い視野をもつ」と,こういうことが言えるようになります。

******************

 「教師には,情熱が必要だ」という人に対して。

 ・・・・一部の活動だけに,情熱を燃やしている教師がたくさんいませんか。

 不思議なほど,「定時に帰る」ことに情熱を燃やしている教師がいます。

 組合活動への情熱の高さで,授業を自習にしてしまうほどの教師がいます。

 部活動の指導しかできない教師がいます。

 「一部の奉仕者」になる情熱ではなくて,「全体の奉仕者」としての情熱が教師(教育公務員)には必要なのです。

 子どもに対する直接的なはたらきかけだけに「情熱」を傾ける教師の多くは,「自己満足型」です。

  「情熱を傾けている」と「自分に酔う」人間たちにとっては,子どもたちの成長は「そういう気分を味わうための道具」なのです

 「自分は情熱を傾けてこれだけがんばっている(がんばってきた)のに,どうして自分の指導について,あれこれ言われなければならないのか」という反応を起こす人間が見ているのは「自分」であって,「子ども」ではないのです。

**************


 「教師には,相手を気分よくさせられる力が必要だ」という人に対して。

 ・・・・これを,「相手を気分悪くさせてはいけないこと」と勘違いする教師がいます。

 すぐ近くにもいませんか。

 子どもだけでなく,周囲の教師たちにも常に「いい人」と思われていたい,という人が。

 小学校や中学校の,「子どもを気分悪くさせてはいけないこと」を最重視したい教師が,子どもたちの問題行動の多くを「なかったことにしたい」気持ちになるのはよくわかりますね。

 小学校の校長が,「荒れているクラスもあるなあ」とのんきでいられる気持ちもわかりますね。

 勘違いしているからです。

 教育の世界で,「子どもの気分をよくさせる」のは,「何を通してなされるべきか」が語れないような人間は教師には向いていません。

***************

 
 「教師には,作文力が必要だ」という人に対して。

 もう,私が書くことはみなさんのご想像の通りです。

 どんな指導力不足教員でも,採用試験のときの「作文」は立派だったはずです。

 教育実習生ですら,「授業実践をする上での留意すべきこと」の「作文」は,とても立派に書くことができます。

 教師になるための条件と,

 教師を続けていける条件を,分けて考えることが重要なのでしょうね。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

人の笑顔を見たいから,笑顔にさせることをしたい???

 若い先生へのアドバイスです。
  
 子どもにこういうことを言ってはいけません。

 「私は,みなさんの笑顔を見ると,幸せな気持ちになります。だから,みなさんが笑顔になるような仕事をいっぱいしたいです

 なぜいけないか,わかりますか?

 これは,「無償の愛」ではないからです。
 
 「結局,満足したいのは自分なんですね」と見られます。

 だから,

 「笑顔を見ると自分が幸せな気持ちになる」ことは,思っていても,口に出してはいけないのです。

 「みなさんが笑顔になるような仕事がいっぱいしたい」だけで,よいのです。

 これで少なくとも,

 「自分もそれで満足したい」という「ホンネ」は隠すことができます。

 「無償の愛を人に提供したい」と思っている人は,

 「無償の愛を人に提供する」とは書いてはいけないのです。

 ああ,あの人は,「無償の愛を人に提供する」なんて書いて,「いい人だ」と思われたいんだな,と思われるのがオチなのです。

 なぜなら,この人が一切の釈明をしない言葉が,

 「●のおかしい人が通う◎◎」だから。

 この言葉に責任を感じない代償が,上の「オチ」です。

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

いつも「つくり笑顔」の「逃げ専門」教師がいた

 以前から2~3度,取り上げたことがあるのでご記憶のある方がいらっしゃるかもしれません。

 私の2校目の勤務校は,「荒れ方が半端でない」ことが全区に知れ渡っている,「指導困難校」でした。

 教師が半分以上入れ替わったら,学力向上のモデル校の1つになりましたから,少なく見積もっても半分以上は,教師のせいで荒れていた学校だったのです。

 その学校で勤務していた教師から,私と同学年に配属された初任者が,こう言われたそうです。

 「生徒に対しては,いつも笑顔でいれば大丈夫だから

 ・・・・・・・・・・・・・

 これがいかに「大丈夫ではない」かが,荒れた状態のままの学校の教師には,わからなかったようです。

 この初任者には,「笑顔でいてはいけない場面」がわかっていたようで,「大丈夫ではない」状態にはならないですんだようです。

 「やさしい先輩からのアドバイス」が,

 荒れた学校を放置する,いかに無責任な言葉であるかを,

 これから教職につく人にはご理解いただけるでしょう。

 しかし,

 笑顔でい続けることしかできない,指導力と「情熱」の欠けた人が現場に多いのも確かです。

 教師というのは,年数がたってくると,

 自分より指導力の低い教師がいると,安心してしまいがち,という側面があります。

 簡単な例を想像してみてください。

 5年生の子どもたちが口々に言います。

 4年生の担任より,字がきれいで,説明もわかりやすい。

 ・・・・と言われた教師が,4年生のときの担任に,今年,受け持たれているクラスの子どもを心配する,ということをふつうするでしょうか。

 学力が低いままで放置されている子どもが何人もいれば,その「問題」に気づくでしょうが,そうでなければ・・・。

 ダメ教師がいるから,自分への評価が高くなる。

 そういう「相対主義的自己満足・自己完結型教師」は,学校を良くする方向の役には立ちません。

 中学校に話を戻すと,

 (中途半端に)毅然とした態度をとることで,生徒が暴れ出し,おさえがきかなくなってしまうことを怖がる教師に,

 「そんなことだから子どもがああなるんです」

 と言える人がいなかったために,
 
 「目覚めることができなかった」教師を救うには,

 「あなたとあの子どもたちは同じレベルです」と伝えてあげるしかないでしょう。

 笑顔は,自然に生まれるものです。

 相手から言われて,初めて自分が笑顔だったことに気づくような表情でよいのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

虚飾の小学校への本音の言葉

 保護者をはじめ,「外部」の人間には「いいところを見せよう」とはりきる小学校の教師の中には,

 自分のクラスの子どもどう見られるかは全く気にしない人がいます。

 おかげで中学校では様々な情報が収集できるのですが,

 様々なタイプの問題を聞くなかで,

 小学校という「虚飾の世界」を熱心に演出する教師たちに共通しているのは,

 「正しいミラー」を持っていない,ということでしょう。

 正しいミラーを持っていないのに,外部からの目を気にするって,矛盾しているようで,そうでもないのです。

 私が名づけた「ミラー現象」とは,「鏡に映っている愚かなものが自分であることに気づかないで愚かだ愚かだと批判してしまうこと」・・・・つまり,

 「鏡を見ない裸の王様」のような存在になってしまうことを意味します。

 人間というのは,人の目に自分がどう映るかを知ることで,自己認識ができるようになるという一面があります。

 しかし,「本音」をぶつけられたことがなく生きてきた人,

 今でも,友達にすら「本音」が言えず,「空気を読んで」ウソの自分を演じるしかない環境で生きてきた人,

 こういう人には,本当の自分を知るための「鏡がなかった」のです。

 それで,中には「自分がわからない」といってカウンセリングに通う。

 だれか,その人に本当のことを言ってあげてほしい。

 ・・・・・こういうことが,小学校にはたくさんありませんか。

 もちろん,中学校にも,高校にもたくさんあるのですが,それは生徒も分かっているから,

 そして,相手に言っても意味がない(耳を貨なさい)ケースがあるから,ここではおいておきましょう。

 小学校の教師なら,「このままではまずいな」と気づけるはずです。

 子どもは「まずさ」に気づきにくい(認めにくい)面があります。

 家でも,学校でも,ほとんど1人でめんどうをみている人を「問題のある人」と見なしながら生きるのはつらいものです。だから子どもは,無意識に,「大目に見ている」のです。

 でも,「まずさ」が「正しいこと,当然のこと」だと認識したまま中学校に進学してくると,不適応を起こす可能性があります。

 「どうして掃除用具で遊んではいけないのか

 「どうしておにぎりでキャッチボールをしてはいけないのか

 「どうして授業中にマンガを読んではいけないのか

 と堂々と主張する中学校マイナス1年生にとって,

 「それはいけないことだ

 と言われて,もしそれを受け入れてしまえば,

 たった一人しかいなかった,「育ての先生」の「まずさ」を認めなければならなくなるからです。

 とても気の毒なことです。

 小学校にも,一人くらい,本当のことを言う人がいてもいいでしょう。

 「出る杭」になる人が,小学校には必要なのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

「チーム力」が発揮できない小学校と荒れた中学校の共通点

 ある中学校1年生が,しみじみともらした一言。

 「小学校は,楽しかった」・・・・・

 理由:「先生は,何も注意しなかった」・・・・・・

 学校は,ときどきアンケート調査をしますよね。

 「~は楽しかったですか」

 という項目をよく見かけます。

 でも,

 「どうしてですか」までは,書かせない。

 「道徳の授業は楽しかった

 ・・・・理由は,トランプをしていても,注意されなかったから・・・・?

 子どもにアンケートをするときは,

 「何がどうして楽しかったか」まで,具体的に記述させた方がいいですね。

 そうでないと,ほとんど意味がないというか,誤解まで招く,原因になる。

 さて,中学校の教師から見て,小学校の教師は甘い,問題教師とよべるレベルまで甘い・・・・甘いというか,「おかしい」・・・・ように思えることが少なくありません。

 定期考査で,ときどき,答えを書き直して,

 「先生,これ,採点間違っています

 と言ってくる子どもがいます(いました)。

 「答案はすべてコピーをとってあります」と宣言しておけば,こういうことは起こらないのですが,事前に不正行為に関する注意すると,こんなことを言ってくる中学校1年生がいました。

 「小学校のときの先生は,2個くらいは書き直してもいい,みたいな感じでした

 ・・・・・・・・・・・・・・

 不正行為を認めていたのは,小学校の先生だったのですね・・・・。

 足立区の学力検査で,答えを教えたのも小学校の教師でした。

 書き出すときりがないのですが,今日の話題は,

 生徒指導の「チーム力」です。

 小学校には,「チーム力」を発揮する「場」がめったにありません。

 他のクラスに「修正」のはたらきかけをすることなど,「もってのほか」。

 学級王国が基本の小学校では,運動会や学芸会などですら,担任による指導が中心というところもあるようです。

 私自身,他のクラスの先生に「指導」された経験はありません。

 私のクラスは,「厳しい」先生で,隣のクラスは,正反対の「甘い」先生でした。

 たまに,隣のクラスの人が,私のクラスの担任に指導されたことはあったようですが。

 小学生の中には,「甘えられる」と「見込んだ」教師には,とことん「甘える」主義の子どもがおり,一方から見れば「崩壊」,クラス内から見れば「生き生き」「活発」「伸び伸び」,そんな状況が生まれます

 中学校に入って,不適応を起こす子どものタイプの一つが,

 こういう学級で「自由を謳歌していた」子どもたちです。

 「中学校は厳しい」。「中学校はつまらない」。

 理由・・・「いろんな先生が注意してくる」。

 こういうことを言ってくれるおかげで,「チーム力」がある学校かどうかが自己判断できます。

 ある小学校のあるクラスは,

 「校長先生にも『崩壊学級』と呼ばれるところ」だったそうです。

 こういう学級がなぜ生まれるのか。

 なぜ管理職は,他人事でいられるのか。

 小学校の退職校長のブログにも,こういう「他人事ですませる」ような記述がありましたね。

 ・・・・・こんな「問題」をつきつけてみても,「どうしようもないでしょ」とあきらめられるのが「オチ」なんでしょうか。

 それとも小学校では,

 「隣のクラスが失敗している方が,自分のクラス経営がよく見られるので,望ましい」???なんて考え方もあるのでしょうか。

 中学校では,子どもが成長するにつれて,教師たちの

 「責任分担」「協調行動」「得意不得意」「リーダーシップ」等が見えてきます。

 そして,いつしか自分たちも,それらができたり,自覚できたりするようになっていく。

 残念ながら,荒れた中学校というのは,教師たちの

 「責任放棄」「身勝手行動」「不得意不得意」「リーダー不在」が見えてしまいます。

 そして,自分たちも同じようになっていく。

 荒れた中学校をたてなおすコツは,以下の4つです。

 ○教師の責任分担をはっきりさせ,役割分担ごとに責任をもつ

 ○教師たちの協調行動を子どもに見せつける

 ○教師たちは得意不得意を自覚し,自分が不得意なところを他の先生にカバーされている場面を子どもに見せつける

 ○教師たちは得意な分野では,リーダーシップを発揮して,教師はもちろん,子どもをリードしていく

 無理な注文かもしれませんが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「あなたは教員に向いていませんよ」

 教育実習で指導教官にこう言われて,

 自分自身でその理由を10個,答えられる人は,

 教師になった後,どうにか,続けられるかもしれません。

 そのまま思考停止してしまうような人は,本当に向いていないので,

 あきらめた方がいいです。

 でも,おそろしいことに,こういう言葉が本当に投げかけられるとは,想像の範囲外(実際に,面と向かってそのまま直言する指導教官はめったにいないでしょう・・・・いえ,いたらすみません)という人の場合は,

 おそらく,「そんなことはない」と自分に言い聞かせ,

 「そうかもしれない」などとは一切考えず,自分のやり方を曲げずにいくでしょう。

 なぜか,そういう人が,みんな採用試験に受かっていく。

 考えてみれば,当然かもしれません。

 採用試験の面接で,「私には無理かもしれない」なんて正直に言ったら,そんな人は採用したくなくなるでしょう。

 面接では,本当に「無神経な人」「鈍感な人」「自分のことが分かっていない人」が得をするようにできているわけです。

 教育現場に長くいると・・・・私の場合は,指導主事時代に初任者研修の担当をしていましたが,そういう立場にいると・・・・

 「どうしてこの人が採用試験にパスしたんだろう

 という人に出会います。

 その多くのタイプが,

 「人の話が聞けない人」です。

 当然,学級担任になったりすると,

 「子どもの話が聞けない」ので,学級が荒れ始めます。

 当然の結果です。

 でも,「人の話を聞こうね」などという「指導」では,絶対に「改善」できません。

 「人の話を聞かない」人の多くは,

 「自分の話も聞けない」のです。

 「自分の話」とは,たとえば,「自省の話」です。

 自分の声を聞けない人,自分の声がない人に,他人の声は聞こえないのです。

 指導の問題点を指摘すると,すぐに再反論してくる実習生がいました。

 まず,自分の課題をふり返ろう,という態度は全く示さない実習生でした。

 こういう人は,教員には向いていません。

 すぐに「はい」という実習生も問題ですが,すぐに「でも」という実習生も問題です。

 

 面接試験では,必ず,次の質問をしてみて下さい。

 そういう人間かどうか,すぐに分かります。

 「大学生活と,教育実習をふり返って下さい。今,あなたが後悔していることは何ですか

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

自分の「問題」を直視できない人の「逃げ方」

 ネガティブな記事がしばらく見られなかったと思っていたら,久方ぶりに登場しましたね。

 あれだけ丁寧な「添削」をされていたのに,私からの「疑問符」を完全に無視されていた理由が,本日公開された記事で明らかにされています。

 「言われた人は,やる気をなくすだろう

 ・・・・・そうですね。

 特に自分自身の実態を省みず,児童生徒からの生の声,他の教職員からの苦情,これらにいっさい耳を傾けない指導力不足の教員には,

 できれば現場で教師を続ける気をなくしてもらって,自分から「教師を辞める」と言ってもらいたい。

 もしそれを決意させることができる「決めぜりふ」があるとしたら,全国の教育委員会はのどから手が出るほどほしがるでしょう。

 ・・・・・でも,「辞めたら収入がなくなるから,辞めるとは言えない」・・・・・こういう人に,次の職場をきちんと用意するのが,自治体のつとめなのです。しかし,それができないから,ほとんど効果のない研修に時間と労力とお金を費やさなければならない・・・・。

 教育現場には,こんな指導力不足教員が引き起こす問題以外にも,「重箱のすみをつつく」ように問題点を見つけようとしたら,本当に数限りない「あら」が探し出せます。

 しかし,自分が指摘された「問題点」が,「あら探し」の内容に該当するかどうかは,だれが決めるのでしょう。

 指導力のない人は,問題点の指摘をする教員や管理職を,「あら探し」をしている人間とレッテル付けして,「いかに自分は悪くないか」をPRしようとします

 裁判に負けたある教諭は,その内容をわざわざ本にして出版しています。

 こういう人間が教育現場にいることで,「良心的な教師」がどれだけ困っているか,容易に想像することができるでしょうね。

 子どものために,教師の「問題」を本人に指摘することが「良心的」か,

 教師のために,その「問題」を指摘しないことが「良心的」か。

 ほとんどの学校では,後者の選択肢をとっているために,

 「どうしてこんなことを記事で書くんだろう」と本気で思ってしまう人が少なくないのでしょう。

>いや、もしかしたら、自分以外の人間はみんなうまくいってほしくないというのが本音かも知れない。

>職場にこういう毒ガスおじさんのような人がいたら、環境整備として、一刻も早く追い出す作戦を考えよう。

 もし自分の問題を指摘されて,このような「曲解」をする教員がいたら,どうしますか。

 ・・・・どうにもできないで,「異動を待つ」ことしかないのが,普通の学校なのでしょうね。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「自分の考えとは何か」を自分で考えてはいけない

 「自分の考えをもつ」ことは,そう簡単にはいきません。

 「自分の考えをもち,自分の言葉で説明する」ことは,なおさら困難です。

 現職の先生に,「言語活動の充実に向けて,先生が最も重要だと考えていることを述べてください

 という「課題」を「免許更新講習」などでお示しするとします。

 どんな「考え」が書かれることでしょう。

 私の予想では,法令だったり,文科省や都道府県の指導資料にある文言が並ぶだけの「模範解答」で,「考え」と言えるようなものにはなかなかお目にかかれないでしょう。

 「特に新しい『考え』などない。今までやってきたことを継続するだけだ

 というのが,「最も適切で,あるべき『考え方』」なのかもしれません。

 「自分の考えをもつ」というのは,

 最後の最後,本当にゴールに近いイメージで,

 もし小中学生に授業の導入で,「あなたの考えを述べなさい」などと言っている
 
 「考え」が,

 冒頭の「自分の考え」にあたる言葉と同じ意味なら,もはや何も語るべきことはなくなります。

 「自分の考え」というものへの「考え方」が浅い人たちが指導すると,

 その成果は「とても優れたもの」にすぐに到達できるでしょうね。

 話は少しだけそれますが,

 「目標に準拠した評価」=「絶対評価」が怖いのは,これです。

 教師の「目標」の理解がちぐはぐであれば,当然,

 「評価規準」が人によって違うことになりますし,

 「評価基準」をそろえることなど不可能になります。

 「自分の考えを自分の言葉で表現する」ことが,いかに難しいことかは,

 大人が理解しておかなければならないことです。

 「武士とは何か?」

 これを,社会科の教師たちは,「自分の言葉」で本当に語れるのでしょうか。

 子どもに「武士」と聞いて思い浮かべられる人は?

 と聞くと,「人名を知っている人物」「有名人」を答えるのが普通でしょう。

 「人物重視」の小学校歴史の課題はそこにあります。

 「どこからどこまでが貴族か」を知らないまま,「貴族の政治」という呼び方をしていますね。

 「武士による政治」「武士の世の中」の「武士」と,

 「武士の困窮」といったときの「武士」が違うことくらいは気づくでしょう。

 鎌倉時代の非御家人や,江戸時代の下級武士を想定して「武士」を語れたら,なかなかのものです。

 「武士とは何か?」について語るだけでも,
 
 そう簡単に「自分の考えを自分の言葉で表現する」ことはできないのです。

 言語活動の充実をめざす授業では,

 「自分の考えを自分の言葉で表現すること」が重視されます。

 こういう取り組みを繰り返していくことのメリットは,

 やがて,

 「基礎・基本とは何か」に

 目が向いていくことくらいしかないでしょう。

 子どもから教師まで,

 「口から出まかせ」のオンパレードの授業を見続けるのはつらいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「言語活動の充実」の評価で,絶対に欠かせない観点

 児童生徒一人一人の能力を向上させるために,

 学校が「言語活動の充実」を至上課題,優先課題として取り組む・・・・別に,悪いことではありません。

 思考力,判断力,表現力に課題がある,という「評価」を受けて,それらを育てていこう,という目標をつくる・・・・悪いことではありません。

 ただ,気になることもあります。

 ある小学校の研究会に出かけると,

 「他の人といかに違う発想ができるか

 「自分の考えにいかにこだわれるか

 を重視した授業を展開していました。

 私(だけではないと思うのですが)が感じる危惧は,

 「人の意見を大切にする」「人の発言をしっかり聞く」活動がおろそかにならないだろうか,

 というものでした。

 子どもが,自分に対する「評価」を気にして,

 「自分の優位性」を強調し出すようになると,

 そこは「言語活動が充実」する空間ではなくて,「自分中心主義の空気が蔓延する」空間になるのではないか・・・・という危惧を感じます。

 「言語活動の充実」を主目標にするのであれば,

 「いかに話すか

 よりも

 「いかに聞くか」「いかに聞けるか

 を重視すべきだというのが私の考えです。


 「学び合い」を無理して設定しなくても,

 教師の効果的・効率的指導によって,

 「しっかり聞ける」子どもを育てて,能力を高めてきたのがかつての教育でした。


 小学校の授業を参観すると,すぐに気づくと思いますよ。

 「賢い子ども」は,すごくよく「聞いている」。そして「考えている」。

 「発言数が多い子ども」は,「よく考えている」と言えるでしょうか。

 教師によって,利用されているだけかもしれませんね(これはわかる人には痛いほどわかるでしょう)。

 「発言数の多い子どもの思考力は高まりにくい」・・・・どなたか,この仮説を証明してくださいませんか・・・。
 
 

 さて,一方の, 「発言しない子ども」の頭の中を「表情で読む」ことができる人はごく少数でしょうが,

 それができていることは,挙手していない子どもを当てて,その子どもが迷いなく自分の考えを述べられている場面で証明されます。

 
 「しっかり聞く」ことよりも,「しっかり話す」ことの方を重視してしまうと,

 理解が深まらないのです。

 
 また,小学校の授業を見て,「やめた方が子どもの頭はよくなる

 と思ってしまうのは,

 「生徒の発言を黒板に書いてしまう」教師の行為です。

 
 子どもは,発言をよく聞かず,「黒板を読む」ことで「理解したつもりになる」。

 
 いかに聞けたかは,「聞いたこと」をノートに書かせればよいのです。

 黒板に書いてはダメ。

 
 子どもは「写す」作業では「頭は使わない」

 「聞く」→「書く」→「考える」→「話す」のサイクルを,大事にした方が,能力は高まるでしょう。

 「読む」→「話す」で終わっている子どもの大量出現を避けることができます。


 教師の発言はもちろん,子どもが子どもの発言を,自分の力で聞き取って,理解して,考えていく習慣。

 それが大事です。

 
 それと,もっともっと大事な「評価」をめぐることで大切にしたいのは,

 その「言語活動」が,

 どれだけ「人(友だち)のための言葉」であるかどうか。

 それを重視してほしいです。

 
 自分の考えを発表するのに,「言語活動」を行うのは当然なのですが,その能力を高める,ということ以上に,

 「どれだけ人(友だち)のための言語活動になっているか」を「評価」してほしいのです。


 自分の考えを伝える,ことよりもまず,人の考えを聞いて受け止める

 それが「言語活動」の基礎・基本であることを,すべての人が共通に認識した上で,研究活動をしたいものですね。

 常に一方通行のブログでこんなことを言うのも何ですが。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教育実習の「成功」「失敗」は何で決まるか?

 以前書いたことかもしれませんが,

 教育実習は,何をもって「成功した」と言えるのでしょうか。

 指導案をしっかりつくれて,授業をうまく行えたこと?

 学級で多くの子どもと話をして,相談にも乗ってあげたこと?

 業務日誌をしっかりつけて,一日一日の反省がしっかりできたこと?

 今年は,いつもの大学のほか,一橋,早稲田,上智などの学生が教育実習にやってきましたが,大学ごとに,「教育実習の手帳」「教育実習の記録」「教育実習のマニュアル」が異なっています。

 大学の先生から,これこれこういうふうに,指導をしてください,と言われたことはありません。

 でも,何か一つくらい,「ここだけは」という要望を出してもらった方が,

 「鍛えがい」があるかもしれませんね。

 私の教科がこだわっているのは,

 教材研究

 ほとんど,それに尽きます。

 授業の仕方がどうとかは,あまり重視しません。

 たくさん教えますけど。

 でも,考えさせたいところは,教えません。


 どの教材で,何を教えたいのか

 どんな力をつけさせたいのか


 いい教材が見つかった学生には,

 「指導案はどうでもいい」

 と「指導」する場合もあります。

 いい教材は,子どもがどういう反応をしてくるかわからないのと,

 最もいい「発問」は,教師がしなくても

 子どもが「つぶやく」場合があるからです。

 それが,授業の中心課題になることもある。

 以前にふれた,「関東地方の人々(武士)にとって,戦国時代っていつごろのこと?

 なんていう問いがまさにそれです。


 関東地方における戦乱をまとめた年表を見てみる。

 ある地方でつくられた「板碑」の数の,年代ごとの推移を見てみる。

 鎌倉幕府滅亡後の,「中央」と「関東」の関係を考えてみる。


 授業で生徒が課題を追究していく。

 その動機を生徒に与えるのは,教師ではなく,教師が選んだ,教材です。


 教材研究の大切さを知った学生は,

 社会科なら,残る大学生活の時間を「旅」に費やす人もでてくるかもしれませんし,

 「図書館にこもる」人もいるかもしれません。

 それも,さまざまな地方の県立図書館等です。


 教育実習は,何をもって「成功」と言えるか。

 私の答えは,

 「教育実習を終えた今,何をしているか?」で,決まる。

 というものです。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

生徒を死亡させる体罰も想定している?愛知県教育委員会

 読売オンラインで読んだ情報です。

 愛知県教育委員会は,2007年度から2011年度までの5年間,合計36件の体罰事案すべてで,関係者を懲戒処分でなく,より軽い訓告などの内部処分にしていた・・・・とのことでした。

 以前にも,このブログで話題になっていた,あの,愛知県です。

 読売新聞の記事に寄れば,学校教育法で禁じられているにもかかわらず,体罰をめぐる処分については,教育委員会によって対応の差が際立っているとのこと。

 驚いたのは,愛知県が決めた体罰事案の処分の基準に,

 「児童・生徒を死亡させるか、重大な後遺症が残るけがを負わせた場合、免職か停職」

 というものがあることです。

 体罰は,死亡させるか重大な後遺症が残るけがを負わせることまで,「想定に入っている」。

 他の自治体はどうなのでしょう。

 恐ろしいことです。

 愛知県における「言語活動の充実」の方策がわかりました。

 体罰を受けた子どもや親は,すぐに警察に通報し,「暴力事件」として立件してもらうことです。

 警察とのやりとり,裁判所とのやりとりのなかで,言語活動の充実が図られることと思います。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「原因不明」のことが多々起こる一方で・・・・

 大量のイワシの打ち上げ,

 中国での「co.jp」サイトが閲覧できなくなる騒ぎ・・・・

 「憶測」が飛び交っていますが,「原因は不明」です。

 「自然現象」や「他国の政府の動向」について,

 「警戒」するのは,誤った態度ではないでしょう。

 世の中には「原因不明」のことがたくさんあるなかで,

 私たち教師がはたらく学校現場における,

 「教師不信」の原因は明らかです。

 指導力不足から不正行為,犯罪にいたるまで,

 「ひととおりの問題」はそろっています。

 バッシングが起こっても,不思議ではありません。

 やるせないのは,

 本来はバッシングの対象ではない人たちが,心を痛めていることです。

 犯罪者のクラスの子ども。

 心を病んで現場を去って行った教師のクラスの子ども。

 小学校の子どもの場合は,毎日,ほぼ毎時間,顔を突き合わせている人が,

 逮捕されたり,学校に来られなくなったりする。

 どのような気持ちで,

 「次の人」を迎えるのでしょう。

 子どもたちによっては,「次の人も」,という経験をさせられるわけです。

 **************

 子どもを亡くし,残された親たちがやりきれない思いを抱かされ続けている町があります。

 東日本大震災後,まだ,「本当のこと」を知りたい人たちが,

 「学校」「教育委員会」の「正しい説明」を求めているのです。
 
 二転三転する説明に,子どもを失った哀しい気持ちは怒りの気持ちへと転化してしまっていることでしょう。

 まだ,続いているわけです。

 現場を離れている(そのときも,現場を離れていた)「元校長」の責任は,限りなく重いものです。

 退職した今でも,その責任を果たすべきであることは言うまでもありません。

 責任を果たすことは,どういうことか。

 退職した後,現場に立っている人間は,痛いほど感じていることでしょう。

 話は逸れますが,自分のやっていることを公開して喜々としているような人間に,
 
 教育現場の課題を真剣に考える姿勢があるとは考えにくいです。

 学校のどこにどのような課題があり,どうしたらそれが解決できるか,考えぬいた人間ができることは何でしょう。

 「自分でやるべき」ことと,「自分がやるべきではない」ことの区別ができない人が,特に小学校には多い。

 学級担任としての仕事が,他のあらゆる仕事よりもはるかに大きな比重を占めているので,無理もないことだと同情もします。

 一つうかがいたいのは,

 多くの子どもと教職員の命が犠牲になった小学校から,何が学べているのでしょう。

 学校には,小学校に限らず,「原因」が非常にはっきりとわかっているのにもかかわらず,手つかずで放置されていることがたくさんあります。

 お金がなくても,人間の努力でできることが,山ほどあるのに。

 「実践報告」を読んだり,「研究発表」を聴いたりするたびに,

 「問題は何ですか」と問いたくなるのは,私だけでしょうか。

 その「実践」や「研究」は,「問題の解決」に貢献できることなのですか。

 全くの逆効果を生んでいませんか。

 原因は,研究とお祭りを混同していること。

 せっかく呼んだ文科省の教科調査官に,「本音を語らせない」ことです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教職を志望する人が読んでおくべき教育ブログ

 採用試験情報のように,必要にせまられて読みに行くブログもあるでしょうが,

 教育の世界のことを知ろうと思ったら,無駄を覚悟で読んでおくとよいものもあります。

 ほとんど何の役にも立たないと思われるブログでも,「(元)教師の真実」が隠されているもので,

 「教師とはこういうもの」というイメージを持てているか,いないかによって,

 教職についた後の「心のゆとり」の幅が違ってきます。

 「理想」の教師とか,「理想」の授業には,「売り物」の本によってたくさん接してこられたでしょう。

 ただ,「本物の教師たち」にはなかなか接することができない。

 自分の小学校,中学校時代を思い起こせば,
 
 心当たりがあるでしょう。

 教師自身ができていないことを,子どもには強要する

 人の話を聞かない教師が,子どもには自分の話を聞け,という

 時間を守らない教師が,子どもには時間を守れ,という

 差別語を日常的に使いながら,子どもには差別をするな,という

 自分ができていない,まさにそのことを,「こういうことができていない人がいる」と書き綴っているブログがあります。

 こういうのを厚顔無恥,というのですが,

 実は,こういう人間こそが,教師に向いている,しかも,荒れた学校の教師には向いている

 というのが教育現場の「隠された常識」です。

 自分のことがわかっていない人間は,心を病んでしまうことがありません

 学校現場には,なくてはならないタイプの人間なのでしょう。

 こういう「安全な人」のうち,少しおだてられただけでその気になってしまう人が,「荒れた学校」に適している・・・・・と表向きは言いませんが,長い経験上,知っているのが教育委員会です。

 どうしてこんな人が教師をやっているの?という人にも出会うでしょうが,理由があるのです。

 本当は,こういう教師がいると,学校経営をする側が「困る」はずなのですが,そもそも「荒れた学校」というのは,組織としての経営が成り立たないところなので,管理職自らが「困る」ことをやめてしまえば,あとはいかに「何事もなく,一日,一日を終えるか」が重要であって,「新しいアイデア」とか「先進的な取り組み」など,決して教員には求めず,「余計なことをしないでくれる」ことに感謝するようになります。

 万事について鈍感な教師の存在が意外に重要なのであって,こういう教師が一定程度の割合を超すと,学校というところは不思議なほど「安定」し,やがて「荒れ」もなくなっていくことがある。

 「安定」の背後にあるのは,「みんなが低学力であることによる安心感」「学ぶ意欲の欠如」「競争心の欠落」。

 良識のある保護者がこの事態を察知したときはもう手遅れ。

 「困る」べき人たちが「困る」ことをやめたとき,学校は「安定」し,社会の将来の「不安定要素」は,拡大する

 もし初任者として赴任した学校がこんな学校である場合,学ぶべきことは2つ。

 1つは,子どもと教師との微妙な関係

 子どもは,鈍感な教師を軽蔑するのと同時に,うまく利用しています。

 その利用法を知りましょう。

 そういう教師は利用されていることを知らないのですが,教師としてやっていく上で大事なのは,あえて利用される態度がとれるということ。

 ついでに,軽蔑されないようにするには,どんな行動をとるべきか。

 もう1つは,教師と教師との微妙な関係

 どんなに鈍感な教師でも,「長いものには巻かれろ」式の処世術?は身につけている。それを「醜い」と思う感性を育てつつ,「だれのどういう行動に,どういうタイプの人が共感するのか」を観察する。

 そして10年くらいたったときに,一度くらいは「出る杭」になってみる。

 「鈍感な人」は,「出る杭」にはなりません。

 一般の社会に出ても,ほとんどは「出る杭」ではなく,「出る杭をたたく」方の人間です。

 「鈍感な人」に,自分をたたかせてみる。

 「出る杭をたたく」という経験をして初めて・・・・生まれて初めて,

 「自分の醜さ」「」「無知」に気づく人がいるかもしれません。

 「解脱」です。

 こうやって,「自分に目覚める」教師が増えるきっかけができれば,公立学校にも光が見えてくることでしょう。

 これから,公立学校の教師として重要な資質は,

 鈍感な教師をまずは受け止められること。

 次に,そういう教師に自ら「気づかせる」機会をつくれること。

 鈍感な教師がますます増え,

 敏感な教師の多くがますます病休に入るままだと,公立学校の教育に未来はありません。

 
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教職を志望する学生に見せたいもの

 授業見学は,カリキュラムの中に組み込まれていますから,

 「よい授業」や「ダメな授業」のイメージはできあがります。

 ただ,教育実習ではなかなか知ることができないのは,教師の汗水流して働く姿そのものです。

 なにしろ,自分が代わりに授業をしてしまうのですから。

 授業が終わると,生徒のノートを読んだり,次の授業のための準備をしたり・・・・

 3週間,毎日18時間くらい,授業のことを考えたり実践したりしていると,教師の仕事の本当の姿がわかるかというと,決してそんなことはありません。

 「先生って,こんなに大変な仕事なんだ」

 の「こんなに」の認識の程度が低いまま,現場に出ていき,

 そしてその何十倍もの困難を経験して,辞めることを決心したりする。

 こういうタイプの学生たちに見せたいのは,

 「てきぱき仕事を進める姿」だけでなく,

 「ほとんど前に進んでいないかに見える,地道な生活指導」の姿です。

 教育実習生のレベルでは,いかに「教える」かが3週間のすべてになってしまい,

 なかなか「生徒から引き出す」という教育の醍醐味が味わえません。

 授業で「生徒から引き出す」ことの意味がわかった人は,初任者からそれなりに立派な教師になれるでしょう。

 しかし,「生徒から引き出す」ことの意味がわからない人は,子どもにとって「迷惑な存在」になります。

 「迷惑な存在」でも,人によっては「迷惑な存在だからこそ」,仕事として成り立ってしまうのが教育現場というところで,自分の「迷惑さ」に気づけない人は,何をどう説明しようと気づくことはできません。

 教師という仕事の99%は,すぐに成果があらわれません。

 企業の中には,「利益を追求するな」という変わったスローガンをもっているところがあります。

 すぐに成果を出したいから,仕事をする,そういうやり方は教育にはなじみません。

 おそろしいことに,仕事をほとんどさぼっていても,かなりの割合で「成果」らしきものがでてしまうのも教育という仕事です。

 長くなりましたが,以下のような場面を経験して,「本当にしたい仕事」を選べるような,そんな資質のある人に,教師になってほしいと切に願います。

 間違っても,「1分でも早く学校から帰れる」スキルを本を買ってでも学ぼうとするような人間に,教師にはならないでほしい。

****************

 発注元とはいえ大学出てすぐの若僧が,酒臭い息で,仕事をしているところに顔を出したのはまずかったかもしれません。でも,彼らはそれをさほど気にするわけでもなく,ランニング姿で一所懸命作業を進めているのです。扇風機しかない狭い仕事場で,団扇を片手に,手の汗を拭きながら・・・・。

 そうか,自分が行きたいのはこっちの世界だったのだ。彼らの姿を見てそう痛感しました。自分の手を使い,物を作り,徹夜も辞さない。彼らの熱が私にも移ってきたようでした。

 弘兼憲史『気にするな』新潮新書より

****************

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

人の「心」で遊ぶ教育

 子どもを「感動させる話」をするのは好きですか?

 私は嫌いですね。

 私が「道徳の時間」に忌避反応を示すのは,

 「人の心を揺さぶって楽しむ」教師の姿を見るのが嫌いだからです。

 だからでしょうか。

 「国語の時間」…特に,「胸を打つ話」を読むのが苦手でした。
 
 感動しやすい人,そうでない人がいるのかどうかわかりません・・・・というのは,感動しているのにそれを表に出さない人や,感動しているわけでもないのにわかったようなことを表現できる人がいるからです・・・・が,私は「人前で感動すること」が嫌いです。

 講演会などで,「人の心を打つ」ネタをもっている人は大勢いるでしょう。

 そういう方の講演で,「心が洗われる」ような経験をして,会場を去る人も多いことでしょう。

 ただ私は,こういう話をすると,人はこうなる,というような「先が見えている話」の怖さを知っています。

 人の「心」を動かせる,ということは,「行動を左右できる」ことでもあるのです。

 もちろん,悪い方向へと行動させるために人を集めている人はいないでしょう。

 しかし,人を動かせる力を知っている人が,頼りにされる社会というのは,とても危険な社会です。

 私のそういう意味での教育観は,

 直接的に「感動的な話をする」よりも,
 
 偶然を装う,という,これも操作的な動きなのですが,

 子どもが自分から獲得する「感動」というものを重視しています。

 いつも子どもに接てしている人(教師)は,子どもの「心」を簡単には揺さぶらないでほしい・・・・そういうことを願うことの意味を理解してくださる方はどのくらいいらっしゃるでしょうか・・・・。

 「いじめ」を助長しているのが,「道徳教育」であることがもし実証されたら,教師たちはどのような責任のとり方をしたらよいのでしょう。

 「いじめ」は,心理戦です。

 その心理戦を日常的にしかけてきているのが「教師」であったとしたら・・・・。

 子どもは,大人から心理戦の効果的な戦法を学んで行っているのかもしれません。


 これは,あくまでも私の教育観であり,

 「心」の世界で稼いでいる人の仕事を妨害する意図はありません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「学習指導要領実施状況調査」でやっとわかってもらえるかも

 dolceさんは「文部科学省のポチにならないために」という今年1月2日の記事で

 「学力テスト」や「学力」に対する無知ぶりを披露してくれましたが,

 教育課程部会(第82回)の資料として示された

 「小学校学習指導要領実施状況調査」の目的や内容をご覧いただければ,

 「ペーパーテスト」で調べることができる「学力」の広がりが,ご理解いただけることでしょう。 

 そもそも,PISAの調査で日本の高校生が「不得意」だった問題が,dolceさんの「テスト観」からは「ずれたもの」であり,そういう「テスト観」を子どもも持っていたからこそ,日本が「出遅れた」わけです。

****************************

1.調査の目的

  小学校学習指導要領の改訂に資するため、学習指導要領に基づく各教科の目標や内容に照らした児童の学習の実現状況について、調査研究を行う。

2.調査の名称

 「学習指導要領実施状況調査」の名称により実施する。

3.調査対象教科及び内容等

(1)調査を行う教科

  小学校…国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育

(2)調査実施予定時期

 平成25年2月(体育は平成25年度)
  平成25年度内に分析、結果公表
 ※中学校については平成26年1~2月(平成25年度)に実施予定。

(3)調査対象学年

  国語…4、6年
 社会…4、5、6年
  算数…4、5、6年
 理科…4、5、6年
  音楽、図画工作、家庭、体育…6年

(4)調査内容

 各教科において下記の【1】~【3】の視点に基づき検証すべき事項を踏まえた調査問題を出題する。
【1】今回の改訂の基本方針に掲げられている事項の実現状況、課題等
  (例)思考力・判断力・表現力の育成、言語活動の充実等

【2】今回の改訂で新設、学年及び学校を越えて移行した事項の実現状況、課題等

【3】従来より課題と指摘される事項、以前の調査で通過率の低い事項、経年比較の観点や授業時数増による相対的な習得状況の変化等の観点から把握・分析が必要な事項の実現状況、課題等

4.調査の形式(省略)

***********************

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

人に「謙虚であれ」という人の謙虚さ

 学校の教師が道徳教育をしにくいのは,

 第一に,ほとんど考える必要のなさそうな子どもが熱心に学び,

 次に,本当に必要のある子どもに響きにくい

 そして学校によっては,教師の多くが

 「そんな建前を教えて何になる

 という姿勢でいることです。

 普段,人に対して「謙虚ではない」人から,

 「謙虚に生きることが大切」と言われても,「はいそうですか」で終わりだし,

 人に対して「やさしくない」人から,

 「人にやさしくしよう」と言われても,「あなたはよくそんなことが言えますね」と反発されるし・・・・

 といった調子で,

 学校のあらゆる授業の中で,最も「充実感が乏しい」と子どもたちが評価している道徳の時間はどうあるべきか・・・・,

 「話し合おう」「何とかしよう」と始めた途端,

 方向はより悪い方へとしか向かいそうもない,そんなジレンマの中にいる教師たちに,

 「救世主」は現れるのでしょうか。

 実は,答えは非常に簡単なのですね。

 「救世主」は,生徒なのです

 生徒が「活動」するからこそ,そこに「道徳的価値」を考えるきっかけが生まれるわけです。

 「実践的活動」の中から,「考える」必然性が生まれてくる。

 そして,ときには,生徒が「教師に望むこと」という切実な「思い」が表現されてくる。

 受け入れるかどうかは別として,「聞く」か「聞かないか」が,

 人間としての「謙虚さ」があるかないかの違いなのでしょう。

 部活動に遅刻してきた子どものせいで,「話し合い」を強制され,かつ,「だれも遅れてこない開始時刻を決定せよ」という命令を受けた子どもたち(決まった時間に来て,活動を始めたかった子どもたち)の身になって考えてみましょう。

 そんなことを強制されたり命令されたりする前に,

 「どうして私たちの声を聴いてくれなかったのか」という声なき声に耳を傾けようとしないような教師に,

 「謙虚さ」を語る資格はないのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

校内研修を受けさせてもらっていない初任者たちのご不幸

 センターなどでの「校外研修は息抜き」などという本音を語ってときどき叱られる初任者。

 みなさんが「校内で研修を受けなければならない時間」は,

週に何時間か,ご存じですか?

 週10時間以上

 年間300時間以上です。

 実施されていますか?

 毎日2時間以上,ということですよ・・・・・。

 あなたの学校は,

 「やったことにしている」タイプの学校ですか


 ばれたら処分されるのは,校長ですが,「知らなかった」

 という言い訳も苦しいので,ご自分なりにいろいろと研究して下さい。


 次に紹介するのは,文科省が行っている初任者研究実施状況調査から,

 平成22年度の小学校で,90%以上の学校が

 「やった」か「やったことにしている」研修の項目です。


 ○教科指導

 ○道徳教育

 ○生徒指導・教育相談

 ○進路指導・キャリア教育

 ○特別支援教育

 ○教育の情報化

 ○学級経営


 この他,50%以上の学校で実施しているのが,

 ○教育課程の編成

 ○特別活動

 ○総合的な学習の時間

 ○カウンセリング

 ○進路指導・キャリア教育

 ○人権教育

 ○社会奉仕に係る教育

 ○地域理解に係る教育

 ○食育

 ○学校保健
 
 ○対人関係能力

 ○地域との連携

 ○学校間連携

 ○教科経営

 ○メンタルヘルス

 ○保護者との関係づくり

 とあり,この他にも,

 ○帰国・外国人児童生徒教育,○環境教育,○国語力向上に関する教育,○国際教育,○福祉教育,○学校評価,○学年経営,○AED操作,○部活動,○野外活動,○図書館教育,○教職員の服務,○危機管理,○伝統文化体験などがあります。

 ぜひ,○環境教育,○国際教育,○危機管理

 については,時間をしっかりとっていただきたいと思います。

 「子どもへの言葉のかけかた」なんていう「研修」を受ける必要がある人もいるかもしれませんが・・・・。


 初任者研修って何をしているの?

 とお思いになった方向けに,ご紹介させていただきました。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

児童生徒を「犬」扱いしているわけではないのでしょうが・・・・

 しばらく教育から遠ざかっていたのに,ちょっと戻ると,またすぐ「ばれてしまうこと」が出てきてしまう・・・・。

 どんどん哀しさが増幅してきます。

 以前,「上から目線だ」と言い出す人の中に,自分自身がいつでも「上から目線」であることに気づかない人がいる・・・・だから,逆の立場になることが絶対に許せない,批判が許せない・・・・そんな話を読んでここにも記したことがありました。

 私の「国語力」の感覚から申し上げると,

 「児童生徒と先生の関係」について記すときに,「犬や猫」の話をたとえに使っていくことは,申し訳ありませんがダメですね。

 だからか・・・・と私なんかが納得してしまう,そんな「わかりやすい」たとえでもあるのですが。

 引用させていただきます。

******************

>児童生徒を変数S、先生をTとして考えたが、このSとTは孤立した変数ではない。

>SとTが相互に関係しあって変化するのである。

>本ブログのタイトルは「子どもが先生の話を聞くとき」であるが、児童生徒がどの程度先生の話を聞くのかは、相互の人間的関係が影響する。

>ただ形式的に聞いているだけなのか、心に響いて聞いているのかは、人としての相互の関係で違ってくる。

>犬は人間に一番近い友だちであると言われるが、猫も同様に人の生活圏に入り込んでいる。

>飼い主と他人では、猫や犬も対面した時の反応が違う。

>犬は、おもしろいことに、家族に順位をつけると言われている。

>順位の上の者には従順だが、自分より下の者には言うことを聞かない場合がある。

>また、初対面の他人であっても親しげに寄ってくる犬もいる。

>しかし、ある人には吠えるということもある。

****************

 日本人が使う日本語は,あいまいだと批判されることがあります。

 それは,あいまいなままにしておいた方が,波風が立たない,

 婉曲に表現することで,直接的に批判するよりも,相手が気づき,自ら変わろうとする力を促すことにつながる・・・そんな意図が隠されているわけです。

 でも,上のような日本語表現の場合は,指摘しないとまずいでしょう。

 たとえ「犬」が「人間に一番近い友だち」であったとしても,

 「児童生徒」は「犬」ではありませんから,

>児童生徒がどの程度先生の話を聞くのかは、相互の人間的関係が影響する

 ということと,犬が

>順位の上の者には従順だが、自分より下の者には言うことを聞かない場合がある

 ということとは,全く話が違います。

 日本語(国語)は,単なる「言語」ではありません。

 それを使うことで,「どのような人間か」がわかるのです。 

 日本語(国語)の能力と,こういう場合にこういうたとえを使うのは適切ではないな,と感じる能力は,「別物」ではありません。

 コンピュータには,区別がつかないことかもしれません。

 おそらくコンピュータは,「頭がおかしい人が通う病院」という言葉を「不適切だ」とは教えてくれないのでしょう。

 児童生徒がどうこう,国語力がどうこう書く前に,もっと根本的なことをふり返る必要があるのです。

 声を大にして言いたいのですね。

 国語能力,以前の問題なのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

全国ニュースで中学校名が知られるとき

 酔っぱらって,個人情報がたくさん入ったバックを紛失しました・・・・

 教員によるこのような「重大な過ち」は,報道されているものがすべてではないでしょう。

 私の勤務していた学校では,「解散式」は地元の最寄駅ではなく,東京駅で行って

 教員は中学校に帰り,「班長」からの帰宅を告げる「電話連絡を待つ」ことにしていました。

 しかし,宿泊行事などでの出張は,「打ち切り」といって,勤務校に戻る前に,「仕事から解放する」ことにしている学校が多いのですね。

 ただ,出張時に個人情報を持ち出したりした場合は,

 やはり学校の鍵のかかる場所に戻して,初めて「任務終了」とするのがベストでしょう。

 足立区立第十二中学校では,

 こういう「リスク管理」を行っていなかったために,

 個人情報が入ったバックを自宅に持ち帰る→酔っぱらってバッグごと紛失する→個人情報流出の危険をもたらす

 という「重大な過ち」を回避することができませんでした。

 これで教育委員会としては,

 「修学旅行の引率は,学校に戻るまでが仕事」という原則を決定することになるでしょう。

 「個人情報」は,「紛失した」ことで処分するのではなく,

 「自宅に持ち帰った」ことで処分するのが当然の時代になってしまうかもしれません。

 競艇場で通知表をつけていた先生は退職したようですが,

 教員の「なんでもあり」をくいとめるのが,

 「厳しいルールと処分」でしかなしえないところに,

 「道徳教育」の無意味さ,逆効果を激しく痛感する一日でした。

 情けない。

 こんなニュースで全国に名前が知られるようになる学校の子どもたちが気の毒です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「訃報ドットコム」で知る原田正純さんとの絆

 一般の方々が原田さんの訃報にふれて,どのような思いをつづっているのか。

 このことを知ることができるサイトを見つけました。

 訃報ドットコムです。

 5月6日の水俣病フォーラムの記念講演会は,「闘病」のため,欠席されていたことを知りました。

 「お別れの会」は近親の方のみでなさるそうですが,こうしたネット上で「死を悼む」人々とつながりがもてるサイトもなかなかすばらしいと思います。

 原田さんから「生き方」を学んだ方は,とてもたくさんいらっしゃるようです。

 私はまだ20年ほどしか水俣病とはかかわっていませんが,これからも教育現場から何が子どもに伝えられるか,どのように伝えることがよいのか,考えていこうと思います。

 原田さんのご冥福をお祈り申し上げます。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

原田正純さんと水俣病患者の方々

 水俣病患者の救済に,医師として,学者として,・・・・・人間として,真摯に取り組まれた原田正純さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 現時点までの,新聞等の報道のタイトルを比較してみました。

 毎日新聞:<原田正純さん死去>胎児性水俣病を確認…患者から学ぶ貫き

        訃報:原田正純さん死去77歳…水俣病研究の第一人者

 読売新聞:水俣病研究の第一人者、原田正純氏が死去

 時事通信:原田正純さん死去=水俣病研究の第一人者

 NHK:水俣病研究 原田正純医師が死去

 原田さんのことを語る,現時点での最も優れた記事は,毎日のものです。

 原田さんは,どのような言葉でご自分の存在が語られることを望んでいらっしゃるでしょうか。
 
 水俣病患者の方々は,どんな言葉で原田さんの存在を語ることを望んでいらっしゃるでしょうか。

 「水俣病研究の第一人者」であることは確かでしょうが,原田さんは単なる「研究者」ではありませんでした。

 とても温和な表情で,いつもやさしく患者に接してこられた原田さんは,その医師としてのあり方,人間としての生き方が,医師になることを志している人だけでなく,教職を志すすべての人の目標であってほしいと思います。

 本当の意味での「解決」など存在しないかもしれない「水俣病」。

 しかし,一人でも多くの方を「救済」しようと尽くされた原田さん。

 原田さんの志は,決して忘れません。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

十字架の「架け替え」は許されない

 タイトルから,「ご想像におまかせします」なんて書いたら叱られてしまうかもしれませんね。

 「橋下さん,あなたもですか」というタイトルにしようとも思ったのですが,テーマは教育にしぼっておきます。


 人はだれでも「背に重い荷を負って」生きています。

 小中学生でも,大人から見れば「あまりにも重い」荷を背負わされていることがわかる子どもがいますが,本人はまだ,その「重さ」に気づくことはできない。

 逆に,大人から見れば「軽い」荷が,子どもにはとてつもなく「重く」感じられることもある。

 たった一言でも,その「重み」は「話す側」と「聞く側」とでは,全く異なることがある・・・・・そういう自覚もなしに,「教育」のブログを書く資格はないだろう,と,カルロスさんは,おっしゃっているようです。

 教育とは,新しい十字架を子どもに与え続ける営みと言えるのかもしれません。

 だからこそ,教師は自分が背負ってきた十字架だけでなく,営みの中で生まれた十字架を背負う覚悟が必要なのです。

 自分の十字架をひけらかすのもおかしなことだし,自分が背負っていかなければならない十字架を勝手に下ろすのも,やってはいけないことです。

 しかし,個人ではなく,「行政」などに目を向けると,

 人が変われば,「廃棄された十字架」が積み重ねられていく

 これを拾う覚悟がある人が,新しい時代のリーダーなのか。

 あるいは,十字架を次々に抹消していくのが,よいリーダーなのか。

 現場から「足抜け」した「評論家」のように,無責任でいられない教師たちにとって,次の時代のリーダー像は欠かせないものだと思われます。

 私としては,前者のリーダーを育てるべく,日々を過ごしております。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「ゆとり世代」が背負うあまりにも重い十字架

 新入社員が上司から

 「ゆとり世代」と呼ばれて

 注意される,叱責される,馬鹿にされる,軽視される・・・・・

 そういうケースが今後,増えていくかもしれません。

 人に自分よりも低い「階級」「集団」「階層」のレッテルを貼り付けて呼ぶことに,

 抵抗感がない人と,ある人の違いは,

 自分がそういうことが普通に行われる環境で育ったかどうかで決まるのでしょう。

 たいした意味も込めずに軽い気持ちで呼んでしまう人が,

 そう呼ばれた側の気持ちをしっかりくみ取っていかないと,

 組織や人材育成が立ち行かなくなる・・・・・・

 そういう「世代」が社会に入るようになってきた・・・・と言われるようになれば,

 「ゆとり世代」の「特徴」がまた一つ増えることになってしまう。


 「ゆとり世代」という「レッテル」は,無限の「発展性」を帯びたものになるでしょう。

 同世代の方々には,あまりにも重たい「十字架」になっていく。

 こんな他人ごとのような言い方で申し訳なく思います。

 しかし,これは間違いなく,一生背負っていかなければならない「十字架」でしょう。

 その対策とは何か。

 私は社会科の教師として,「ゆとりの中で生きる力をつけること」に勢力を傾けた世代の人には,

 たとえば,「調査する力」(学校では「調べる力」というのが一般的です)を社会人になっても磨き続けていってほしいと思っています。

 「調べる」というと,すぐに「インターネット」を連想してはいけません。

 「インターネット」はあくまで「入口探し」で,「調査」は自分の目と耳と足を使って行うのです。

 「事実を確認する力」を基礎として,「事実の背景や関連を説明する力」などの「活用力」「応用力」をさらに磨いていくのです。

 「自分の力で集めた情報をもとに,自分の頭で考えたことを,自分の言葉で話せる世代

 の先駆者として,「ゆとり世代」が輝いて見えるような活躍をしてほしいと思います。

 若い時は,年上からは何かと「説教」を受けるものです。

 入社20年くらいたっても,「ゆとり世代」と呼ばれることはないでしょう。

 「ゆとり世代」の前は,「詰め込み世代」でした。

 次は,「言語活動の充実」に力を入れられた,

 「口だけ世代」になるかもしれません。

 時代を先取りして,次に求められそうなものに取り組んでいく,という方法もあるでしょう。

 「言語活動の充実」の次は,

 「体験活動の充実」でしょうか。

 教育行政には「広い視野」はないので,

 ぐるぐるぐるぐる同じ場所をまわっているだけの話です。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

 

「先生」はどんな場所にでも,何人いてもよい

 学校評価は,学校という枠の中にいる人間をあくまでも中心として,そのはたらきを評価するものです。

 子どもを中心に「教育」という制度なり機能なりを考えると,

 評価は「学校評価」に限らず,「家庭の教育評価」「地域の教育評価」など,何通りもあってよいはず。

 しかし,その「評価主体」がいない。

 もし,「教育」に関する「評価」を,子どもに一手に担わせたら,どのようなことになるでしょうか。

 「評価」には,「規準」・「基準」が必要です。それはだれがつくるのでしょうか。

 もし仮に,「学校」や「家庭」に対する「評価」が低くなった場合,それを高めるための責任はだれが負ってくれるのでしょうか。

 こういうことで悩まないためには,

 「子どもに評価させるなど,もってのほかだ」

 という態度をとるのが一番,ラクな方法です。

 「評価なんか必要ない」

 という立場なら,どんなに教育の手を抜き,質が落ちようが,反省をせまられることはなくなります。

 私は,やはり

 子どもには「基準」「規準」をもたせるべきだと考えています。

 おそらく,どんな子どもでも,

 「教え方の上手な先生」

 「話を聞いてくれる先生」

 「尊敬できる先生」

 に出会えれば,「そうでない先生」との違いも分かるようになります。

 「家庭」は比較の対象がないので難しいかもしれませんが,

 「ホームステイ」などの体験をすると,気づくことがあるかもしれません。

 子どもの立場から見た

 「本当の教育改革」とは,

 「すべての人を先生に見立てる」ことで「始まる」のかもしれません。

 何かが学び取れれば,その人はその子どもの「先生」になるのです。

 よりよき「先生」を求めるのが得意な子どもが,めきめきと成長し,

 それが苦手である子どもとの格差が広がっていく。

 今は,親が「よりよき先生」を与える,という時代ですが,

 「与えられるまま」の子どもの「成長力」がどこまで期待できるか,疑問なところです。

 「先生」は,どんな場所にでも,何人いても,よいのです。

 「社会科」の役割が,また拡大していきそうな気もしますが,

 全教科の中心に位置付けられる日が,遠くない将来,来るかもしれません。

 教育の目標,道徳の目標や内容,社会科の目標と内容,総合的な学習の時間の目標と内容例を比べてみてください。

 すでに,あるべき教科の姿は描かれているのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

dolceさんの「知能」観の欠陥

 一言で表現すれば,dolceさんは「リスク」の想定を許容しない人,ということなのでしょうか。

 人間の知能は,自分がどんなに注意を払っても,自分の力では回避できない不慮の事故が起こりうることを想定して,保険に加入するなどの決断を下すのです。

 dolceさんの考え方に従ってしまうと,「普通の知能を持った人間」ばかりだと保険会社は経営が成り立たないですね。 

>「交通事故を起こさないように」

>と言われるのを、普通の知能を持った人間は、その高度な知能によって「絶対に事故を起こさないという決意を持って、最大限の注意を払って運転する」という意味だと解釈します。

>「そんなこと言われても、絶対に事故を起こさないと、未来を約束するのは不可能です」

>と言う人がいたとしたら、知能に問題があると言わざるを得ません。


 私の考えでは,

 絶対に事故を起こさないと,未来を約束するのは不可能ですが,

 絶対に事故を起こさないという決意を持って,最大限の注意を払って運転します。

 というのが,「普通の知能を持った人間」ではないでしょうか。


 docleさんの「知能」観には,重大な欠陥があるようです。

 tsuguo-koderaさんには,それがお分かりにならないでしょうか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

新作!dolceさんの「私語撃退法」と「事実誤認」

 またまた,大事な指導事例をご披露していただきました。

 子どもの「心」との乖離が分かっていない,dolceさんの指導法。
 
 dolceさんは,人間を「ロボット扱い」するのが好きな方のようです。

>ロボットは知能を授けられ、どんどん進化して人間に近づくのに、人間の方は逆にただの機械のようになっていないか

 という問いかけの後に,紹介されている「指導言」がすごい。

>中学校で授業をしていた時、私語の多い生徒がいたので注意しました。
>すると、その生徒は、小さな声で「喋って悪いのか」とボソッと言いました。

>彼は聞こえないように言ったつもりかも知れませんが、私には聞こえました。
>それで、私は

>「君、そりゃあ、喋るなという命令はできないよ。しかしね、人間は知能というものを持っているから、この場では喋っていいのか悪いのか判断できるんだよ。それが人間なんだ」

>と言いました。

>その生徒は、不機嫌な顔をしながらも静かになりました。
>他の生徒たちも納得したような様子でした。

 生徒たちが「納得」したのは,dolceさんが「ひどいことを言う人」だからではないのですか???

 何しろ,

 授業中の「私語」が「知能の欠陥」によるものであると指摘されてしまったわけですからね。

 もしこの後,再び私語をしたら

 「知能を持っていない,つまり,この場で喋っていいのか悪いのか判断できない」生き物だと呼ばれ,

 下手をしたら「人間ではない」などと呼ばれかねないことを子どもたちは知ってしまったのですね。

 子どもは,「頭のおかしい人が通う病院」という言葉を平気で使えるような人間かどうか,簡単に察知できてしまうのですよ。

 私語が多くなるような授業をしている教師に,「おまえは知能に問題がある」なんていう注意をされたくないから,「私語を我慢した」だけで,何の問題の解決にもなっていないことに,気づけない教師はいるでしょうか?

 そうそう,そういう教師がいるから,このブログを書いて注意を喚起しているのでした。

 dolceさんには残念ながら,指導に必要な感性が欠けているのですね。

 私から見れば,自分のまずい授業を棚上げして,「こういう注意の仕方はないだろう」と受け止める生徒を想像することができないのは,重要なものが「足りない」からとしか考えられません。

 「うそ」はいけないのですが,「これが正しい注意だ」と誤解して,

 私語をする生徒に対して「知能に課題がある」と指摘したように聞こえる指導ができてしまうような教師は,いさめなければなりません。

 音楽の教師のやり方がこうだというなら,音楽の教師を相手に話をしなければなりません。

 実は今まで,dolceさんによる中学校での授業実践の話は読んだことがありませんでした。

 最初の話が,「私語が多い生徒への指導法」だったのですね。

 そして,「やっぱりね」というのが第一印象でした。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教師をしていると身に付く特殊能力

 教育実習生の授業を見ていると,

 「せっかくあの生徒が大事なことをつぶやいたのに・・・」

 「あの生徒は何度も先生によびかけていたのに・・・・」

 といらいらすることがあります。

 目の前の指導案に心を奪われ,子どもが見えてない,声が聞こえていないのです。
 
 物理的には聞こえているはずなのに・・・・


 いやいや,ここでふと思いました。

 自分もそうですが,教師と言うのは「地獄耳」だな・・・・・と。

 ワイワイガヤガヤやっている生徒から,宝石のごとき一言を「聞き取り」,授業で取り上げる。

 そういう「特殊能力」が,自然と育っていきます。

 
 もうちょっと高度になると,「目」で何を考えているか,わかるようになる。

 これも,「特殊能力」に見えてしまうかもしれません。

 
 手を挙げていないのに,当てる。

 当てられた子どもは,今,まさに伝えようとして考えていたことを話し出す。

 
 電車に乗っていても,この「特殊能力」はときどき目を覚まし,

 「先生の悪口」

 「先生による親の悪口・同僚や管理職への悪口」

 が聞こえてきます。

  
 昔,私の祖母が「耳が遠くなったけど,嫌な話が聞こえなくて気が楽だ」

 と言っていたのを思い出しましたが,きっと「嫌な話」に限って聞こえていたのに,

 聞こえないふりをしていたのでは?と思ったりもしました。


 教師の場合はその性分から,

 おもしろい発言が聞こえると,

 生徒はただ自分でつぶやいただけなのに,さっと,取り上げてしまうことがあります。

 ときどき,先生に言ったんじゃないのに・・・・などと苦情を受けることもありますが・・・・・。


 「聞き逃せない話」は,廊下を通り過ぎただけで,本当にたくさん聞こえてきてしまう。

 子どもは,まさか先生にその話が届いているとは露知らず・・・・。


 役に立つような,立たないような,そんな能力です。


 ところで,自分にとって都合の悪い話は平気でスルーできる人が,いるようですね。

 こういうのがダメ教師の典型なのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

「ウソ」と「無知」「誤認」「過失」を混同しているdolceさんへ

 ようやく,dolceさんに誤りを認めてもらうチャンスが訪れました。

 dolceさんは,ここのところ連発している「スピーカー」の話で,

 「」と「無知」を混同されてしまっていますね。

 こういう方が,まじめな教師に,

 「子どもにウソを教えないこと

 なんて忠告したら,そういう教師は

 教室で子どもに「何も言えなくなってしまう」状況に陥りますよ。

 最新の学説を知り尽くして授業をしているわけではない教師たちにとっては,自分がしゃべっていることが「常に正しい」とは言い切れないわけですから。

 「ウソ」というのは,

 事実に反することを故意に(わざと)表明すること

 ではないですか?

 dolceさんが使用している「ウソ」の用法は,

 「私が昨日,教科書で説明したことは,ウソだった」と同じような「誤用」ではないですか?

>昔蓄えた、古い知識だけで、以後はふと湧いてくる自説が何でも法律、基準のように錯覚すると、子どもにウソを教えかねません。

 「錯覚していたこと」は,「事実に反すること」ではあっても,

 それが「事実に反することを知っていて,それを故意に伝えた」というものではないことは明らかですね。

 もしdolceさんが,

 「権威になりたい人」でなければ,

 こういう「誤り」を指摘されても,「プライドを傷つけられた」とは思わないですよね。

 ウィキペディアに掲載されている

 「嘘」の解説は,

 なかなか「奥行」があってよいですよ。

 これをお読みいただければ,

 頭が固まっていない人は,

 「子どもにウソを教えないこと

 なんて忠告を聞いたら,思わず笑みをこぼしてしまうでしょうね。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

75歳以上の方を対象にした「義務教育」制度の創設を!

 後期高齢者を対象にした,「義務教育」?

 「義務」にも「教育」にも違和感というか抵抗感がありますね。当然ながら。

 今後,小学校をはじめとして公立学校の統廃合が進みますが,その跡地をどう利用しよう,と考えたときに,一番,対象となる人が多い年代で,かつ,その施設を利用できる時間がある人といったら,後期高齢者しかいない,という時代が来るでしょう。

 集まって,何をするのでしょう。

 場所は「学校」ですから,いろんな「施設」「道具」があります。

 「保健室」が混雑すると予想できるかもしれませんが,本当に具合が悪い人は,「登校」されなくてよいのです。

 「校庭」ではゲートボール?

 「体育館」では体操?

 「図書室」では・・・・「被服室」では・・・・「コンピュータ室」では・・・・・「工作室」では・・・・・・「音楽室」では・・・・・

  
 日本という国が,「ただの長寿国」ではなく,「天国に行くまで」「仏様がお迎えに来るまで」学び続けることができる「教育大国」となったとき,世界史上,初めて「先進国」とよばれる価値が生まれるのではないか,と勝手に空想をめぐらしています。

 75歳になった私の母はまだ現役の商売人で,もちろん「学校に通う」ゆとりはありませんが,

 この母にも「学ぶことの楽しさ」「学び続けられることのうれしさ」を味わってもらいたいという希望をもっています。

 愛想のない,原稿棒読みのナントカ大学のように,テレビで「がくもん」をするのではなく,

 「教室」で,同年代の人たちといっしょに机を並べて,話をきいたり,議論をしてみたり・・・・。

 小学校のときは,

 「あなたは授業中の発言が少ないですね」

 なんて担任教師にケチをつけられて,低い評価しかもらえなかった人でも,

 「後期高齢者学校」の学生レベルになると,「評価がなんだ」といっておしまいです。

 
 大勢で集まって「笑う」こと。

 大勢でいっしょに「動く」こと。

 大勢でお互いに「教え合う」こと。

 
 クラスメイトの横のつながり。

 70代,80代,90代の縦のつながり。


 「学校」というところでしか,味わうことのできない「楽しみ」が,あるはずです。

 
 日本という国には,「卒業」という言葉はなく,あっても「他界」と同じ意味になるような日が,・・・・来ることはないでしょうか・・・?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

20Wと100Wの先生の違い

 管理職は,教員の「仕事量」をある程度は把握しています。

 その「限界」も。

 「限界」には大きく分けて2種類あって,

 「能力の限界

 「時間の限界

 のうち,管理職がより重視しているのは「能力」の限界で,

 学校現場ではあまり考慮されないのは,「時間」の限界です。

 多くの学校では,

 「100Wの先生」に仕事が集中し,

 「20Wの先生」は自分のことで精一杯,というのが実情でしょう。

*********************

 管理職は,「100Wの先生」の獲得のためには,教育委員会に「うそをつく」ことが得策であることを知っています。

 「いかにこの職場が厳しいか」をPRすることが,
 
 一人でも多くの「100Wの先生」を獲得する近道である場合が多いからです。

 「20Wの先生」は,「省エネ」のプロである場合も多く,

 そういう人たち向けの本もたくさん出版されているのが,教育という世界の特徴でもある。

 「100Wの先生」はそういう本を読む暇はない。

 「忙しい」「忙しい」と言っている人が,「こうすれば楽ができる!」という本を読むのに費やしている時間を計算したことがある人はいるでしょうか?

*********************

 教師たちは,「子どもを育てる」ことへの関心はある程度もっていても,「教師を育てる」ことへの関心は高くない。つまり,管理者としての視点を欠いているために,自分たちの能力を開発することへの意欲が低い。

 こういう人のまわりにいる子どもでは,「向上心」は芽生えにくいでしょう。

 子どもは,その道何十年という職人さんが,『自分はまだ半人前だ』と言うのを聞いたとき,初めて「向上心」と言うものの意味を知ったりする。

 そういう実感を,学校現場でもたせることはできないか。

 20Wが40Wに,100Wが200Wになる,そういう「教師の成長」を子どもが目の当たりにするときはないのか。

 きっとできるでしょう。

********************

 その方法の一例。

 学校内で,子どもが子どもや教師に生の言葉で「伝える」「伝え合う」時間を増やすことです。

 「学び合い」なんていう高度なことは考える必要はありません。

 クラスの中で完結するような生活が最も「成長」の足をひっぱります。

 クラスや学年を枠を超えた子どもの動きが,教師の側のクラスや学年の枠を壊してくれます。

 20Wの教師が40Wに成長できる条件は,何でしょう。

 これが分かるようになるまで,20年かかりました。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「卒業」概念をなくすことが教育改革の決め手?

 今までの教育改革とよばれるものは,すべて

 「たいした変化ではない」ものでした。

 土曜日が完全に休日になる,と聞いたとき,喜んだ教師たちも多かったでしょうが,部活動で学校に出るので「たいした変化はなかった」。

 評価が相対評価から,絶対評価に変わっても,「順位」というのは自然にできてしまうもので,質的に評価しても,「誰が誰より優れている」という見方には「たいした変化はなかった」。

 おそろしいことに,大阪では入試の対策として,相対評価をずっと維持していた。

 「言語活動の充実」などは,ふつうの教育活動がそれにあたるだけであり,「何も新しいことはない」。

 これが,もし義務教育で

 「留年」制度を本気でとるとなると,「今までなかったこと」として,大騒ぎになる。

 さらに,もし,「卒業」という区切りがなくなったら,もうだれからも「理解不可能」な「改革」になるでしょう。

 「進級」にしろ,「卒業」にしろ,義務教育の場合は実質的に「時間がたつだけで自動的に決定する」こと。

 むしろ,「もう,あなたたちのめんどうはここではみられなくなったから,さようなら。もう来ないでね」というものだった。

 こういうのを,小中高の12年間でなくしてしまったら,どうなるのか。
 
 12年間かけて,一人前になれば,それでいい。これが,15年までは,続けられる。ただし,13年目からの3年間は,授業料を払わなければならない。

 10年間で「自主退学」して,大学に行くことも許される。

 途中の区切りは,すべてなくす。

 学習は,教科・分野別に,進めたいだけ,進める仕組みにする。

 絵の才能を伸ばしたい子どもは,1年間,絵の勉強だけしていてもいい。

 7~8年たった子どもは,1~3年目の子どもを教える義務も負う。

 ここまでのことを実現できるような国があるでしょうか。

 12年間は,無償で,さらに3年間は,「学ぶ」ための機会を与え続ける。

 ただの「案」なら,いくらでもつくれそうですが・・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

外国のものまねが「改革」になる時代は続く

 おそらく大学の秋入学決定に伴う,「空白期間の解消」がねらいでしょう。

 高校3年生の秋に,卒業させてしまう,改革案。

 高校3年生の春を待たずに卒業できる仕組みとも図からは見て取れます。

 高校って,何のために存在するのでしょう。

 文科省も,「実態」に則した高校の「類型化」に走り始めました。

 ある一定の能力を満たせば,卒業できる,という仕組みができるようになる一方で,

 一定の能力に満たない人も,卒業させてしまう仕組み。

 けっこう露骨に,「社会にとって欠かせない優秀な2割の人間」を優先的につくりだす,そういう「人材育成観」が文科省を覆うようになっているようです。

 文科省の存在意義が,問われてくる時代になることは,以前にふれました。

 文科省ではない,別の省庁の人間に,日本の教育を考えさせると,こうなるのだろうな,という「改革案」が出てきたことは,日本全体にとってはプラスなのか,マイナスなのか。

 日本という国の役所に限った話ではないかもしれませんが,お金をもっていない省庁の「重み」はない。

 その「重み」が,「別の省庁の人が考えるとこうなる」式に生まれてきたのは,転機と言ってよいでしょう。

 もしかしたらより現実的になってくるのは,

 「小学校から中学校への飛び級」でしょうか。

 あのスカスカな教科書を軽くクリアした子どもが,どんどん中学校に進学してくる。

 冗談抜きで,5年生の終わりくらいには,入試問題が普通に解けるようになっている子はけっこういるでしょう。

 小学校とは何だろう。

 中学校とは何だろう。

 外国のものまねをしていれば,「改革」になる省庁というのが,平成になってもまだあったようです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

機械を利用する人間によって利用される人間にならないために

 先行してタブレット機を活用している地域の授業事例をみると,残念ながらタブレット機がなければできないというものではありません。

 特に少人数の学校では,子どもが黒板に来て書けばすむことを,機械を通してやっているため,余計に時間がかかり,教師と子どもの「呼吸」が合わなくなってしまっている。

 教科書の図をノートに写せばいい作業を,タブレット機の画面上で行っている。

 機械が人間の生活を本当に幸福にしてきたのか,歴史を考えれば,光だけでなく陰の部分を見ようとしない限り,「機械」を利用する人間ではなく,「機械」を利用する人間に利用される人間になってしまうのです。

 子どもにタブレット機をもたせる前に,

 教師にタブレット機をもたせてみましょう。

 何が変わるでしょうか。

 電源が切れると使えない機械に,あわてる機会が増えるでしょう。

 機械は人間の能力の向上より,退化を推し進めるための道具になってしまうかもしれません。

 いずれ,機械がなくてはならない人間にさせることが,「機械」を利用させる側にとっては都合のよいことですから。

 子どもに携帯電話は必要ですか?

 これがなかったときには,当然ですが,「そんなものは必要ない」とみんな思っていたでしょう。

 電話が通じない,電源が切れてしまった,なんて震災のときに慌てていたのは私でした。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

20Wと40Wのスピーカーの違い(正解)

 ジャイアンの歌が聴けるのが,40Wのスピーカーです。

 20Wのスピーカーでは,壊れてしまいます。

 でも,普通の人の歌を家の中で聴くときは,20Wでも40Wでも違いはありません。

 ・・・3歳くらいの子どもなら,この程度の説明で十分でしょうかね。

 中学生くらいでも,まず導入はこんな話からするものでしょう。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

菅元総理のマイクロマネジメントと「迷惑な養護教諭」

 産経ニュースでは,菅元総理の参考人聴取(国会の東電福島原発事故調査委員会が実施)での「大弁明演説会」の内容が紹介されています。

 記者の憤りがここまで強く伝わる記事も珍しい。

 私も学校における諸問題について,自分の責任に対する自覚や責任を果たさなかったことに対する反省をせず,ひたすら責任転嫁をする教師を相手に,いろいろと書き綴ってきたわけですが・・・。わざわざこういう場で書くという行為そのものから,「憤り」を感じていただけると幸いです。

 学校でも,大切なことは知ろうとせずに,「どうでもいいことを知ろうとする」のに熱心な人がいる。

 私が過去にふれていた,「迷惑な養護教諭」がその例です。

 最近はスクールカウンセラーに相談して,ある程度,適切に問題が解決に向かったり,問題の拡大を防ぐことができるようになりましたが,

 「迷惑な養護教諭」の手にかかると,

 問題がこじれ,解決が困難になるばかりでなく,問題をさらに拡大することになる。

 記事で読んだ菅元総理にそっくりな状況が生まれるのです。

 菅元総理の場合は,こんなやりとりがあったそうです。

***************

 菅氏「あなたのリポートには目を通したが、技術的に理解できない。外部冷却装置はどこにつけるのか。私がどこにつけていいのか分からずに決定はできない」

 上原氏「そんなことは首相が考えるべきことではないはずだ。技術的に分からずとも、やるやらないの決断はできるでしょう」

 すると、菅氏は突然「なにいっ!」と激高して、日本語かどうかも聞き取れない言葉で延々とわめき散らした

***************

 事故翌日の3月12日早朝に第1原発を視察した意義についてこう述べ、失笑を買った。

 「現場の考え方や見方を知る上で、顔と名前が一致したことは極めて大きなことだった」

 国家の非常時に、現場の責任者の顔まで自分で見て確かめ、名前と一致させなければ納得できないトップとはどういう存在か。部下の業務を過剰に管理・介入したがる悪しき「マイクロマネジメント」の典型がここにある。

***************
 
 記事は,以下のようにしめくくられています。

***************

 己の限界も足らざるところも知らぬ半可通が全て仕切ろうとし、必然的に多くの失策を犯した。それが官邸の事故対応の本質だったのだろう。

***************

 意思決定のほとんどが一人一人の教師に任されてしまっている教育現場では考えられないことかもしれませんが,「トップが決断することに部下が従う」のが一般的な組織で一番問題なのは,「決断の遅さ」「決断の誤り」なのですね。

 確かに,「早くて正確」なのが理想であることはたしかですが,

 「失敗を恐れて決断しないことが失敗の原因になる」場合,これはもう最悪です。

 出典は明らかにされていませんが,ウィキペディアには,

 マイクロマネジメントについて,
 
 指示・命令を与えることによって、管理者自身が有能さや職務の重要さを示していると感じることもある。このような管理者は、実際には職務に必要な能力や創造性を欠いているにも関わらず、自尊心を満たせる状況を自分で作り上げていると考えられる

 という記述もあります。


 菅元総理と「迷惑な養護教諭」が似ているのは,

 「任せるべきことを任せない

 「必要以上のことを確かめようとする

 「手を出すべきではないことに手を出す」ことにあります。

 「悲劇のヒロイン」としての生徒をたきつけてますます「怒りや悲しみ」を燃え上がらせ,

 「話を聞いてくれるやさしい先生」としての満足感を高めていく「迷惑な養護教諭」。

 お互いに自尊心を高め合い,「裸の王様」になっていく。

 
 この人でなければ,こんな結果にならなかった・・・・と後で振り返られてしまうのは,哀しいことです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

大阪市の小中学校におけるタブレット端末利用

 大阪市教育委員会が2日に発表した内容によると,

 小中学生に授業用のタブレットを配布するということですが,

 私が驚いたのは,これにかかる費用が毎年

 50億円「しか」かからない,ということです。

 数年前に「職員厚遇問題」が読売新聞で取り上げられたとき,

 ヤミ年金・退職金,係長以下の職員に提供していたスーツの費用,管理職でない係長職に支給していた管理職手当,ヤミボーナス,本来,危険や困難を伴う業務に支払われるべき手当のはずなのに,そう思われない業務への手当て,職場の親睦団体への助成,職員互助組合への補助・・・これらを合計すると

 百数十億円になりました。

 ***************

 記事しか読んでいないのでわからないのですが,

 児童・生徒への配布に先行して,教員への配布は済ませることができるのでしょうか。

 私の個人的な意見を申し上げると,

 児童・生徒がもつ意義も大きいですが,通信を可能にすることのリスクが高すぎて,

 「余計な指導」が増えるため,教師たちは苦労するだろうなと思われます。

 児童・生徒がもつ前に,まずは教員がタブレット機を授業で駆使できるようにすることが重要だ,ということです。

 ソフトを買わなくても,ネット上に教材はあふれていますので,

 それを提示して授業を展開することによる効果は大きいと思われます。

 もちろん,子どもがもつ端末との通信により,

 小テストの実施

 体調管理

 提出物の確認

 などなども容易にできるようになり,業務の省力化は進みますが,

 携帯電話=通信機器=ゲーム機=音楽録音再生機をもたせた親が実感しているように,

 端末をもった子どもは自分の「生きる力」を発揮してきます。

 どういう対策を立てているのか,お聞きしてみたいところです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教えないことの大切さ ~気づく機会を与える~

 教育実習生の授業は,よく生徒の「学習発表会と同じレベル」と呼ばれてしまうのですが,

 確かに「教えたい」気持ちは分かります。

 でも,やはり生徒に「気づく」チャンスを与えて,できたら自分の力で「理解する」ための機会も提供したい。

 ・・・・ただそれを現場の教員も,なかなかできないで「流している」のが現状の学校も多いことでしょう。

 指導案で,「~が~であることを~を通して気づかせる」という目標があるのに,

 教師が自ら「~を通して,~が~であること」を話してしまう,という場面をときどき目にします。

 子どもは納得している。

 その様子を見て,参観者も,「子どもはよく理解できた」と感心している。

 しかし,目標は「子どもに気づかせる」ことだったはず。 

 自己教育力は,「自ら学び,考えて,目標を達成することができた」という「成功体験」を積み重ねることで,身についていくものです。

 教育力の低い現場では,この「成功体験」はただ「テストでいい点をとる」だけのことであり,

 「テストがなければどうなるのか」

 を想定した教育になっていないのです。

 「気づき」を提供したいのなら,「教えてはいけない」のです。

 何も語っていないのに,多くを語っている,

 こういう書き方,話し方は,難しい技なのかもしれませんが。

 自治的な活動をするときに,

 「こうすればうまくいくよ」というアドバイスを「我慢できない」教員がいます。

 「それを今,言ってしまったら,その子が気づくチャンスを奪うことになる」という意識がないのです。

 「こうすればうまくいくよ」

 という本に群がる教師たち。

 やはり,のどから手が出るほどほしいものを,我慢するのは難しいのですね。

 逆に,そういう人に,「教えてあげたくてしかたがない」人も,大勢いるのですね。

 教育者と,商売人の違いです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

小学校の独裁体制が育てる子どもの「言語活動の技術」

 「ゆとりの中で・・・」

 「生きる力」

 「言語活動」

 これらのキーワードをてこに,教育を変える真摯な姿勢や取組をPRするのが「研究校」です。

 その発表を聞きに集まる教師たちは,「果実」「花」を見て,ある面は納得し,一方では「うちの学校では無理だな」などと感想をもつ。

 教育には,どうしても「閉塞感」がつきまといやすいものです。

 どうしたら学習に対する意欲を高めることができるか。

 どうしたら思いやりのある心を育てることができるか。

 「だめだ」「無理だ」とあきらめている教師が「悩む」ことはありません。

 「悩む」教師の邪魔を,「悩まない」自分がしているという自覚をもてる教師は少ないでしょう。

 教育現場の「閉塞状況」の特徴は,「育つ側」の問題だけではなく,「育てる側」の問題もあることです。

 「どん詰まり感」「無力感」を強固なものにしてしまう原因は,子どもではなく,教師の側にあるのです。

 ***************

 言語活動の充実がさけばれるなか,教師たちは,授業の中で子どもが自分の考えを自分の言葉で表現する活動の時間を増やすことでしょう。

 しかし,自分の考えをもつための材料(教材・資料)がなければ,決して「自分の言葉」は出せないし,材料があることで逆に,「自分の言葉」ではなく「コピペ」で済ましてしまおうとする態度が定着してしまうおそれもある。

 教育実習生の授業でよくあるパターンですが,現場の教師は「そんなことはしていない」と言い切れるか。

 「試験に出るから覚えろ」式の学習を提供して利益を出す会社の真似をして,ますます「自分の言葉」を失わせる努力をする教師もなかなか減らないでしょう。

 悩みは尽きません。

 ただ,どんな学校にも「言語活動を充実させる」絶好の機会というのはあります。

 ***************

 あまり「研究発表」の対象にならないのが,

 「問題行動に対する指導の理論の実践」です。

 原則的なことはみんな

 「わかっている」

 から,わざわざ本を読んだり講演を聴いても,なるほどとは思っても,「役には立たない」。

 しかし,「役に立てることができない」というのは,「わかっていない」からである,

 ということが「わからない」のが,教師の一番の問題なのです。

 生活指導のセンスがある人なら,「言語活動の充実を図る」と聞いたときに,

 自分の指導のあり方に反省の目を向けることができるでしょう。

 学校の中で,最も「言語活動の充実を図る」必要性が高い生徒はだれか?

 その生徒は,「言語活動を充実させる」機会を保障されているか?

 
 私は,その学校の教育力を「測る」上で重要な指標の一つに入れられるであろうものとして,

 「問題行動の事実」がどれだけ「正確」「公正」に教師の耳に入ってくるか?

 があると考えています。

 
 小学校時代に,

 隠す

 ごまかす

 しらをきる

 うそをつく

 だまる

 で逃げ続けてきたことを放置された子どもたちは,

 教師がチームワークを組んで「話を聞く」ことに慣れていないので,

 自分たちがいかに「いい加減」なことを言っているかが,すぐにばれてしまう,ということを知りません。

 「学級担任」一人が「聞き役」になるという「独裁体制」が,子どもにどのような「言語活動の技術」を育てたか,小学校の教師は想像したことがあるでしょうか。

*****************

 このような話をすると,

 私が「無責任体質が体にしみついた」と呼んでいる教師たちは,

 「それは家庭が悪い

 と開き直るでしょう。

 たしかに,両親がいる家庭で,子どもが問題を起こした時,常に「聞き役」は母親だけで,父親は聞こうともしない,こんなことがあるのは問題でしょうね。

 しかし,小学校は,学級担任という「一人親」の大家族なのです。

 もし,問題行動の聞き取りや指導を,自分一人で完結させてきた小学校教師がいたとしたら,それは自分が批判している家庭と同じことです。

 「一人で解決する方法」を切々とつづっているような「生活指導本」を読むと,

 そういう指導を受けている子どもが何だか気の毒になってきます。

 学校とは,本来,「チーム」で子どもを育てる場所なのです。

 他のクラスの子どもであろうが,他学年の子どもであろうが,

 問題を起こした子どもの話を「聞いてあげる」こと。

 それが常識である小学校から進学してきた子どもの「言語活動の能力」は高いです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

教育の現実問題からの逃避癖をなくそう

 無断で他人のブログのコメント欄の記事を引用して批判しておきながら,反論に対しては何の反応もしない。

 これが,現場でよく目にされる「指導力不足の教師」の実態に近いものです。

 子どもとのコミュニケーションがとれない教師は,自分が批判される側にまわると,

 無視を決め込む

 逆上する

 ・・・・・・・・

 問題行動を起こす子どもと同じ反応をするのです。

 こういう大人を見て,子どもが大切なものを「学んでくれる」という効果もありますが,

 学校や大人に対する不信感を強めてくると,なかなか「言葉が響いていかなくなる」。

 ある方のブログから,

 音楽とコンピュータに詳しい人の「哀しい現実」も知りました。

 どうしてそういうものに惹かれていくのか。

 現実社会から逃避するにはもってこいの「道具」たちです。

 試験前の家庭で,親が本当にやきもきする子どもたち・・・・・

 一日中,音楽にどっぷりつかっている女子(男子)。

 食べる時間もおしんでゲームにはまる男子(女子)。

 「自分の言葉」を失うのにはもってこいのアイテムです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より