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どうして言っていることとやっていることが違うのだろう?

 学校における道徳の授業が,逆効果になってしまっている一番の原因は何でしょうか。

 それは,教えている教師の側が,それを実践していないからです。

 教師の不道徳極まりない行為(犯罪ももちろん含めて)の報道がすべてではありません。

 日常的な教師の姿が,道徳教育を信頼性のないものに,つまらないものに,染めてしまっているのです。

 教育ブログにも,「わかっているはずなのに,自分がそれを実践できていない」典型のような人がいることがわかります。

 傍目から見れば,「自分のだめさ加減を自ら論理的に説明しているのに,そのだめな存在が自分そのものであることに気づいていない・・・自分が見ているものが,鏡であることに気づいていない」という哀れな存在です。

 これまでの道徳教育は,こういう「わかっているのにできない」ことの原因は未熟な「心」にあるとして,それを変えよう,強くしよう,改めさせよう,とやっきになる,そんな傾向があります。

 実は,これこそが道徳教育の最大の問題であり,道徳を教えることでむしろ状況が悪化している,ということに気づいた人は,さかのぼれば古代ギリシアにたどりつきます。

 ここで「わかる」「知る」「理解する」という知性と,「心」と,「行動」の関係に言及することはできませんが,教師が使っている「わからせることができた」「理解させた」という言葉がいかに軽いものであるかを想像してもらえれば十分でしょう。

 わかっていて,それが実践できる人と,わかっているのにそれが実践できない人の違いは,

 「人に教える」ということの意味のとらえ方でわかってしまいます。

 わかっているのにそれが実践できない人というのは,「知識をさずけた」=「理解させた」のに,それが実行できないのは,「心が未熟だからだ」などと,相手の「心」のせいにする。自分についても,「怠け心」「集中力の欠如」「魔がさして」「意志が弱くて」などと,やっぱり「心」のせいにする。

 こういう人が語っている「心」とは,自分の「知性の欠如」=「理解不足」をカモフラージュするための「道具」にすぎません

 だからこういう人が道徳教育を行うと,逆効果なのです。

 「知る」という作用は,つねに「知る対象」との関係の中で生じます

 「知る対象」がもっている固有の性質は,絶えず変化します。その変化する関係の中で行わなければならない行為が「知る」ということであり,「理解する」というということなのです。

 辞書を引いて,それで「理解した」つもりになっているような人間は,「知る対象」との関係が築けていないので,結局は「理解していない」ことと同じになってしまう。

 だから,「できない」のです。

 「知る対象」との関係を自ら断ち切る言葉が,「頭がおかしい」などの表現であり,永遠に「理解」にはたどり着けないのです。

 「知る対象」の変化に自ら対応できる能力を育てるのが本来あるべき道徳教育であり,「心」よりも「知性」をより重んじるべきだというのが,私の最近の考えです。

 「知性」は,机の上で本を読めば身に付くわけではなくて,絶えず変化する状況のなかで「実践し続けること」で豊かになっていきます。

 「知行不一致」などではない。「知性」の欠如である。これが,「言っていることとやっていることが違う理由」です。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より