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小学校の女子がセクト主義に陥る理由

 中学校のすべての教師が同じようなイメージで使える言葉ではないかもしれませんが,私にはこれがぴったりくるので,「セクト主義」という言葉を使っていきます。

 「セクショナリズム」の方が,適切でしょうか。

 「縄張り意識,派閥意識が強い

 「排他的傾向が強い

 そういう集団づくりをする女子は,よく見かけられます。

 小学校から,女子は特定のグループでそのまま持ち上がってくることがあります。

 敵対するグループの女子を目の敵にして,悪口を仲間と共有し合って心の安定を図る。

 他の小学校から上がってくる生徒については,気に入った女子は早めに自分の陣営に取り込もうとする。

 セクト主義を目の当たりにしたことがあり,孤立に耐えられない女子は,少しでも「強い」方に入ろうと考え,結びつきを強くしていく。

 セクト内の結びつきはどうやって高まるのかというと,

 「敵対するセクトの悪口を言う

 「教員の悪口を言う

 この2種類が主流です。

 「そんなことを言うべきではない」なんていう空気を一瞬でも感じられたら「排除」されることを知っていますから,とにかくだれの悪口にも基本的には同調しなければならない。

 あの組織と同様,セクト内の「いじめ」ほど激烈なものはありません

 セクトの外の人間に対するいじめは,まだ,半分は「セクトの結束を固める」ことが目的だったりしますから,それほど強烈ではない

 セクト内部の同調性圧力の強烈さは,近くで見ていると本当に異常なほどです。

 これを粉砕するのが中学校における生徒指導です。

 多くの生徒は,部活動に熱中したりすることで,自然にセクトが崩れていき,空中分解するものですが,まだ中学校1年生くらいだと,責任感もないので「敵の攻撃準備」に余念がない生徒が見かけられます。

 この場合は宿泊行事でしっぽをつかむのが最善の策で,いかに自分の視野が狭かったか,独善的な人間がどれほど醜いかに直面させることができます。

 強きリーダーは,セクトの残骸にまみれた生徒たちを救済していきます。

 中学校としては,周囲の生徒も,教師も,けっこうエネルギーを要する作業です。

 これがもし,小学校時代にある程度,火を噴いていてくれたらと願わないでもないですが,やはり小学校は「一人親大家族」で,逆にセクトがあった方が全体のバランスがとれて,一見すると平和だったりするので,わざわざ自分が悪役になってセクト崩しをする勇気のある担任教師はまれなようです。

 問題なのは,どちらかのセクトに属してしまうような担任教師で,片方は完全な教師不信,大人不信の塊となって中学校に入学してきますから,この場合はやむを得ず,その小学校教師への苦情を聞いてあげることになります。

 小学校の教師は,たいへんですね。

 今日もたまたま,怒りながら言っていることが二転三転する担任に対して,勇気を出して「さっきと今と,先生が言っていることは違います」と言ってしまったら,また火に油を注ぐことになって,授業がつぶれた,という話を聞きました。

 クラス全員は,その小学校教師がおかしいことはわかっていても,それを指摘するともっとおかしくなるのが目に見えているので,みんな黙って聞いていたが,さすがに「言うのを堪えきれなかった」というその生徒(当時は小学校6年生)。

 教師がそういう態度に出るのだから,私たちに何を注意する権利があるの?

 という考え方のまま,中学校に上がってきてしまうのだけは,困りものです。

 セクトを利用しているような小学校教師がいたら,ちょっと考え直していただきたいと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より