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公立小学校と同じレベルになった国立大学法人

 朝日新聞で,東大の「有名教授」が次々に他の大学に「流出」しているという記事が少し前に掲載されました。

 記事の詳細は読んでいないのですが,

 想像するところ,簡単に言えば,

 東大も「公立学校」並みになってしまった,ということでしょう。

 公立学校の場合は,「市民」「県民」,あるいは,「国民」に向けて,さまざまな情報を提供するために,多くの調査が行われます。

 教育委員会が,調査を依頼し,集約し,文科省に提出します。

 それを「雑用」として嫌がる教師に公務員としての資質が欠けているのは明らかですが,もし公務員でなかったら,「そんなことに協力する筋合いはない」として,たとえば私立学校が簡単すぎる学力調査に参加しないように,NOと言うこともできるでしょう。

 これが,教育よりも,研究を第一の仕事にしている大学の先生を対象とした場合,「どうしてそこまで」という調査が次々にくれば,「研究活動への支障」となり,「もう東大では研究ができない」ということになって,「研究費や給料は少なくなっても,研究に没頭できる職場がいい」という主義の人は,私立の大学などへ移ってしまうのは,仕方のないことでしょう。

 国立大学法人が,給料も安い,研究に集中できない,などの「悪条件の整備」を押し付けられている・・・・・こんな実態がもしあったとしたら,「諸悪の根源」は,どこでしょうか。

 なぜ,独立行政法人になったのでしょうか。

 独立行政法人になったメリットは,何でしょう。
 
 事務官の悪口を言っても始まらないのですが,文科省から国立大学法人に人が次々にやってきて,あれやれ,これやれ,と言い出す・・・・・それは,文科省にいるよりは,仕事のやりがいがあるでしょうね。ただ,私が教育委員会で経験した,教育の素人が,アドバルーンだけをあげたがる,とても困った状況に,そっくりな光景を想像してしまいます。

 昔,「生きる力」というフレーズは,おれが言い出したのだ,と誇っている人を間近で見ました。

 最近では,「言語活動の充実」という「モットー」を掲げて仕事をして,地方から文科省にうつってきた人の話を聞きました。

 両方とも,「当たり前」のことしか言っていない,それだけのこと。

 というより,「何も言っていない」に等しいか,「変な誤解を招くもとになる」,そんなフレーズです。

 私がこのブログで書き続けていることは,

 とにかく教育の現状は,「当たり前のことが当たり前にできない」ことの苦しみなのです。

 昨日,ある会議で,

 「新採の社会科の先生は,『流域面積』の意味を知らなかった」

 ことが話題になりました。

 平均の川幅×川の長さが流域面積だと勘違いしていたようです。

 こんなことは,『ふつう』の問題です。

 アドバルーンも役に立つ場合もありますが,

 1日,1日の授業の準備だけで精一杯(になるべき状況)の人がたくさんいるのが教育現場。

 それなのに,

 教育の現場に立つ資格(教員免許をもっていたら,別ですが)のない,お金の計算や法律の専門家が,教育や研究の邪魔をしている。

 もしも,万が一,こんなことが国立大学法人でおこっているとしたら,

 国立大学だった時代の方が,はるかに「まし」でしたね。

 今は,ただの文科省附属大学になってしまったから,優秀な人材はそのうちいなくなってしまうでしょう。

 それを防ぐために,今度は私立大学を「附属化」することになるかもしれませんが。

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コメント

大学での問題は切実です。進学ゼミの講師の人の説明んいよれば、さらに大学教授の話を聞いてみても、難関大学以外は名前を書けば合格という時代になり始めているのだそうです。
私学では白紙で名前だけの受験生を受け入れなければ成り立たなくなっていると言う傾向があり、中堅校でもだんだんおかしくなってきています。
文部科学省からの大学への通達で、落第生を多く輩出した教授にはペナルティを科すというおかしな戒厳令のようなおふれがあって、足し算が出来なくても単位を与えなくては成らないというデタラメ制度が何年も前から確立しています。足し算が出来ないのは初等教育の著しい欠陥であることは間違いないのですが、そのしわ寄せは全部大学に押しつけているのです。

資格面では教員免許は必須です、しかし単位修得すれば、申請するだけで免許は与えられます。単位修得は前述の落第を多く排出すると教授にペナルティを科せられるため、まともに勉強して無くても免許を修得できるというシステムが成立しています。
 まじめに勉強して単位修得する人もいますが、かなりの少数派であることが現実として成り立ち、社会科の免許を持っていても流域面積が何なのか理解していない教員が大量生産されてしまうのです。

大半の大学で、学部生は小学校の最履修、やり直しのレベルにとどまり大学教育といえるレベルの教育は受けられなくなり始めています。

生きる力、というフレーズは誠に素晴らしいですがカリキュラムと初等教育の目標は生きる力どころか、自殺に導くためのひどい内容です。

実際、就職できないことを苦にして自殺する学卒が増えています。

初等教育に携わる教師に、教養、良識が欠如している人が7割方採用されていると考えて間違いないと思います。加えて言うならば、常識的なコミュニケーション能力や当たり前の事務が待ったく出来ない人もかなりいます。

学生時代遊び呆けても単位が修得でき、カリキュラムは大甘、それでまともな人材が育つわけがありません。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より