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« 中学校1年生の5月危機に備えて | トップページ | カルロスさんに「内申書」の意味をお示しします »

遠交近攻の小学校教師たち

 小学校では,個性的な担任の「跡継ぎ」になるとき,けっこう摩擦があるようですね。

 しきたり,というか,学級のルールというか,経営方針というか。

 別の国になってしまう。
 
 あの人のクラスは引き継ぎたくない・・・・そういう気持ちになる教師がいても,おかしくはないでしょうね。

 人によって一番やりにくいかもしれないのは,

 毎日学級通信を出していた担任から引き継いだ人。

 こういう人は,前の年の学級通信にはすべて目を通さなければならないし,自分もある程度は発行しないと,保護者から,また子どもが楽しみにしていた場合は,「さぼっている」なんてレッテルをつけられてしまうおそれがある。

 学級通信も大事ですが,小学校くらいなら,家で学校の話をどれだけできる子どもに育てるかが担任の力量の一部なのに,子どもとの会話の時間を削ってでも,職員室での教員との情報交換の時間を削ってでも,学級通信づくりに精を出す教師がいる。

 小学校なら1人くらい,そういう「声がかけにくい人」がいるでしょうね。

 もっと小学校の教師は,

 校内で「心を寄せ合う」方がいいですね。

 でも,その「機会」がなかなかないのかも。

 授業を自習にして,せっせと全国の研究会に通う教師たち。

 それを学校に帰ってすべての教師の共有財産にしようと努力している人は,どのくらいいるでしょう

 私はかつての職業柄,管理職だけでなく,生活指導主任,教務主任などから,公的にも,そうでない場でも,ありとあらゆる愚痴を聞く機会がありましたが,一番気になるのは,

 すぐ近くの人とは距離をすごくとって,

 研究会などの仲間とは,本当に情報交換し合って,よい関係を築いている人の存在です。
 
 もっと校内で主導的な役割を果たせるはずなのに,

 「もったいない

 というのが,私の印象でした。

 
 カルロスさんは教職経験何年目の方かわかりませんが,記事を読ませていただく限りでは,とっくにリーダーになっていなければならない人でしょうね。

 しっかり育てたい子どもの範囲が,「王国」内か,「学校」内かの違いが,大事なところです。

*****************

 近くを攻めている状態ではなくても,守りは堅い,という特徴もあります。

 一番いいのは,「いい人」であろうとすること。

 これが一番,「批判を受けにくくするこつ」です。

 「人柄がいいから,許してあげよう。

 対子どもでも,対教師でも,対保護者でも。

 これで得をしている教師は,数知れず。

 「褒め合う」「讃え合う」文化は,すばらしいです。

 でも,いったん牙をむくと,怖い。

 子どもが一番おそれているのは,それなのです。

 一番信じていた人が豹変する姿を目の当たりにした子どものショックは,はかりしれない。

 子どもも無意識にそれを知っているから,・・・・。

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コメント

度々、教育の話題に出てくる尾木ママですが
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120428/dms1204281428001-n1.htm
↑この記事の中で1%に満たないとありますが、一般的にこの手の犯罪や不祥事は被害届が出る率が1%以下という事実を忘れて分析しています。
要するに、見積もりが甘すぎるのです。

教師以外の職業でこれほど不祥事が多発している例はありません。
http://www.youtube.com/watch?v=oB3aGlHnedM
↑何度も引用しますが教育が目的を忘れて(子供の幸福を考えること)自分たちに都合の良い(不倫や離婚の勧め)事情だけを正当化してしまっている点です。

特に小学校教育において、こういうチェリー・ピッキングばかりが目立つのです。
チェリー・ピッキングを武勇伝にしてしまうその妄想力は人並み外れていると思います。歪んだ教育を正当化するためのチェリー・ピッキングではありますが、そればかり考えて肝心の教育はどこに消えたのか?

あることを制度化した場合、良い点と悪い点が必ずあります。その良い点だけを誇張し悪い点には一切何も無いかのような振る舞いを行うという恐ろしい考え方。
そういう教育にしてしまった背景に労組の存在、デモシカ先生の正当化など、様々な歪んだ考えかたがあり、排他的で閉鎖的な空間になってしまっていると思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より