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学級王国よりたちが悪い「音楽指導者」たち

 あいさつができていない学校が,「あいさつ運動」を展開したり,「気持ちのいいあいさつをしよう」という「目標」を掲げたりするのと同じように,

 適切な指導ができない人に向けて,「このように指導しよう」という目標なり指針なりが示される。

 目標と逆のことを想定すれば,それが「実態」になる,わかりやすいものです。

 その記事内容でストレスや寒気を感じさせることが得意のdolceさんから,「醜い指揮者像」の具体例を教えていただきました。

 オーケストラで悪しき「絶対的存在」となる顧問(指揮者)には,どのような共通点があるか,ご紹介いただいている「べからず集」から推測することができます。

 これは,学級王国の「悪しき国王らしさをもつ担任」とも重ね合わせることができる,かっこうの「モデル」です。

 そのまま使えるものもあるし,「裏返し」にすれば,「実態通り」になる,分りやすい「モデル」。

>(1)常に自分の方へ注意を集中させておく

 よそ見をしたら,叱られる,という意識を植え付け,指揮者(担任)からは決して目をそらさないように,指導する。

>(2)理由もなく授業を中止する

 子どもがなぜここで授業を止めるの?と不安になるようなことを繰り返し,プレッシャーをかけ,集中力を持続させる。

>(3)ことばを明快にすること

 明快な言葉で,子どもを叱る。だれの,どこが,どのような点で悪いのかを具体的に指摘する。

>(4)学習者を飽きさせない

 学習は,できるようにならなくてもよい。やったことにして,次に進み,飽きさせないようにする。

>(5)学習中に指導の仕方を変えない

 指導の方針は変えない。できなくても気にしない。できない子どもに配慮することはしない。

>(6)注意・叱り方は,国王らしく

 ①最初にミスしたら、その方を見る
 ②2度同じ所でミスしたら注意し
 ③3度ミスしたら叱る

>(7)思いやりを捨てる

 個人個人の人格は配慮しない。

 ・・・・・音楽の指導者(指揮者)と学級王国の担任は,とても似通ったものであることがわかります。

 学級王国の担任より指揮者のたちが悪いのは,演奏が始まると指揮者の存在は絶対的になってしまうことですね。演奏とはそういうものだから,仕方がないのですが。

 同調性圧力が強い学級集団と,同じ状況が生まれているわけです。

 もちろん,それは「悪い指導者」のもとでは,ということですが。

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コメント

子どもの表情が七色に変わる。
そんな授業をしていたら,1分でも早くはじめ,1分でも長く続けていたい,そう思える教師になります。
しかし,そういう授業の準備をするには,1時間でも多く,教材研究をすることが必要です。

なんていうか、子供を信頼していないという、重要な心の欠如があるとそんな風になってしまっているように思えます。

 自分の方を見ていないという子は、クラスに1人か2人ぐらいはいます。
だけどそれを全体の進行を遅らせないで、授業を進めて、授業放棄した子は個別に指導するのが原則ではないかと思います。

 授業中しかるという行為が許されるのは他の子へ授業を聞く邪魔をする子がいた場合ぐらいでしょう。大勢の前でしかる訳ですから、正当な物で無いといけません。

 しか~し、授業でしかることが多い先生というのは、その先生は腐敗した政治家とすでに同じ状態になっていますね。むやみにしかって、思い通りにさせる、というやり方どこか教育と違う方向を向いているように見えてしまいます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より