ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« コンピテンシーモデルに対する誤解をどうか解いてください。 | トップページ | ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる »

無遠慮なカルロスさんの態度は,嫌いではありません

 私には,しょうさんとも,カルロスさんが「情熱の先生」と呼んでいる人とも,「教員養成の先生」とも,コメント欄を通じての長いやり取りがあった末に,「言いたいことを言い合っている」「お互いに書きたいことを書いている」という経緯があります。

 「情熱の先生」の場合はコメントの書き込みができないために,ブログの記事上でこちらの伝えたいことを伝えざるを得ないという事情もあります。それも,相手が読んでいただいている,ということが前提になっています。

 「公開書簡」ですね。
 
 ただ,カルロスさんの場合は,ちょっと違いますね。

 自らの個人的な事情を前提にした上で,記事を公開し,割と一方的な「公開書簡」を出されていらっしゃる。

 人によっては「教員の行動は社会の非常識」と見られるかもしれませんね。

 しかし,私の場合は,だからといって「排除」することはありません。真理を追究しようとする情熱は,ときに「非常識」な行動をともないます。「非常識」な行動によって,たいていは「おかしな常識」が崩されていくものです。

 ただ,他人のブログの記事に,ふれられていないことがあって怒ってしまうというのは,あまりに行きすぎでは?

 たとえば,私が自分の子どもを水難事故で亡くして,そのことを思い出してしまうので,記事を書かない,という事情があったとしたら,それでもカルロスさんは,

 同じ境遇の人間の立場になって,情報を発信すべきだ!

 と主張されるでしょうか。

 私は,「心」の問題にはあえてふれようとはしていません。

 それは,それにふれることで,正しい判断を誤る人というのが必ずいると思われているからであり,「心の問題」として片付けようとしてしまう人がでてくるからであり,何よりも,それが「人の心を操作する手段」として現実的に使われていることを知っているからです。

 「本当に心がやさしい人」「思い悩んでいる人」と周囲から思われている人には,「なかなか言いたいことも言えなくなる」のが普通の人の心理でしょう。

 それまでの職場環境などはある程度明かしているとは言え,匿名と言う立場で,そして,「教育問題」について語る,という場合には,リアルな人間関係のような「情緒的な言葉のやりとり」は,極力省いていくべきだと私は考えています。

 お世辞もけっこう。話を聞いた感想・・・感動しました,共感しました・・・というメッセージも大切だと思いますが,それを聞くことを目的に「教育論」を書いているような人はいないでしょう。

 「やさしい言葉をかけてくれなければ,気に入らない」という子どもはカルロスさんの近くにはいませんか。

 中学校入学当初,こういうタイプの子どもをけっこう目にします。

 小学校時代は,担任教師から,そして,家庭では親から,「褒められ続けて」生きてきたのでしょう。

 何かしたあと,私の前にやってきて,「褒められるのを待っている」子どもに毎年のように遭遇します。

 「どうかしたの?」と聞くと,意外な表情,ちょっとがっかりしたような表情を見せるので,

 直接的に言うわけではありませんが,

 「ここは,当たり前のことを当たり前にやって,いちいち褒められる,そういう場ではない

 ことを一斉に指導することになります。

 もちろん,落としたプリントを拾ってくれた子どもに「ありがとう」という言葉をかけるのは,当たり前のこと。

 悪いことをしたとき,「謝り方だけは一人前」という子どもはいませんか。
 
 誠意を込めて謝れば,何をしても,大人は許してくれる,そんなふうに育ってきたのであろう子どもをみると,本当にがっかりします。

 話がそれました。

 情の管理と知の管理は,なかなか両立しないと言われます。

 小学校には知の管理は不適切だ,というご意見もわかります。しかし,情の管理というのは,結局は本人の心次第というわけで,現実的には「甘えの助長」につながるおそれがあるのです。

 「荒れたクラスもあったなあ」なんてとぼけたことが堂々と文字にできる,元管理職には,管理能力がなかったことがありありとしている。

 知の管理がイコール「非情の管理」という印象を広めたい人たちには,「甘えられる源泉」を保持しておきたいという「甘え」がありませんか。

 制度も含めた,教育の問題,教師の問題・・・・現実を直視すれば,過去のことをもとにした感動や共感にとらわれることなく,未来の話をしなければなりません。

 何をどうしていくべきなのか。

 心と心の交流は,リアルな世界でのやりとりを重視してください。

 出会い系サイトのようなものでだまされた子どもの指導をしたときによく言うことです。

 書かれた言葉だけで相手をどういう人間か,判断してはならない。その目で実際の人物を見るまで,

 「カオナシ」だと思ってやりとりすること。

 まとまらない話になりました。

 情の管理を重視するにせよ,知の管理を重視するにせよ,最終的には,人間一人一人,教師一人一人の自覚が芽生えないと,何も変わりません。

 自覚がない人に,「自覚をもて」というのは,

 勉強ができない子どもに,「勉強しろ」というのと同じ。

 小学校の教師と中学校の教師の違いについても,考察していただくきっかけになれば,幸いです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« コンピテンシーモデルに対する誤解をどうか解いてください。 | トップページ | ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

「ゆとり教育」」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 無遠慮なカルロスさんの態度は,嫌いではありません:

« コンピテンシーモデルに対する誤解をどうか解いてください。 | トップページ | ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より