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無遠慮なカルロスさんの態度は,嫌いではありません

 私には,しょうさんとも,カルロスさんが「情熱の先生」と呼んでいる人とも,「教員養成の先生」とも,コメント欄を通じての長いやり取りがあった末に,「言いたいことを言い合っている」「お互いに書きたいことを書いている」という経緯があります。

 「情熱の先生」の場合はコメントの書き込みができないために,ブログの記事上でこちらの伝えたいことを伝えざるを得ないという事情もあります。それも,相手が読んでいただいている,ということが前提になっています。

 「公開書簡」ですね。
 
 ただ,カルロスさんの場合は,ちょっと違いますね。

 自らの個人的な事情を前提にした上で,記事を公開し,割と一方的な「公開書簡」を出されていらっしゃる。

 人によっては「教員の行動は社会の非常識」と見られるかもしれませんね。

 しかし,私の場合は,だからといって「排除」することはありません。真理を追究しようとする情熱は,ときに「非常識」な行動をともないます。「非常識」な行動によって,たいていは「おかしな常識」が崩されていくものです。

 ただ,他人のブログの記事に,ふれられていないことがあって怒ってしまうというのは,あまりに行きすぎでは?

 たとえば,私が自分の子どもを水難事故で亡くして,そのことを思い出してしまうので,記事を書かない,という事情があったとしたら,それでもカルロスさんは,

 同じ境遇の人間の立場になって,情報を発信すべきだ!

 と主張されるでしょうか。

 私は,「心」の問題にはあえてふれようとはしていません。

 それは,それにふれることで,正しい判断を誤る人というのが必ずいると思われているからであり,「心の問題」として片付けようとしてしまう人がでてくるからであり,何よりも,それが「人の心を操作する手段」として現実的に使われていることを知っているからです。

 「本当に心がやさしい人」「思い悩んでいる人」と周囲から思われている人には,「なかなか言いたいことも言えなくなる」のが普通の人の心理でしょう。

 それまでの職場環境などはある程度明かしているとは言え,匿名と言う立場で,そして,「教育問題」について語る,という場合には,リアルな人間関係のような「情緒的な言葉のやりとり」は,極力省いていくべきだと私は考えています。

 お世辞もけっこう。話を聞いた感想・・・感動しました,共感しました・・・というメッセージも大切だと思いますが,それを聞くことを目的に「教育論」を書いているような人はいないでしょう。

 「やさしい言葉をかけてくれなければ,気に入らない」という子どもはカルロスさんの近くにはいませんか。

 中学校入学当初,こういうタイプの子どもをけっこう目にします。

 小学校時代は,担任教師から,そして,家庭では親から,「褒められ続けて」生きてきたのでしょう。

 何かしたあと,私の前にやってきて,「褒められるのを待っている」子どもに毎年のように遭遇します。

 「どうかしたの?」と聞くと,意外な表情,ちょっとがっかりしたような表情を見せるので,

 直接的に言うわけではありませんが,

 「ここは,当たり前のことを当たり前にやって,いちいち褒められる,そういう場ではない

 ことを一斉に指導することになります。

 もちろん,落としたプリントを拾ってくれた子どもに「ありがとう」という言葉をかけるのは,当たり前のこと。

 悪いことをしたとき,「謝り方だけは一人前」という子どもはいませんか。
 
 誠意を込めて謝れば,何をしても,大人は許してくれる,そんなふうに育ってきたのであろう子どもをみると,本当にがっかりします。

 話がそれました。

 情の管理と知の管理は,なかなか両立しないと言われます。

 小学校には知の管理は不適切だ,というご意見もわかります。しかし,情の管理というのは,結局は本人の心次第というわけで,現実的には「甘えの助長」につながるおそれがあるのです。

 「荒れたクラスもあったなあ」なんてとぼけたことが堂々と文字にできる,元管理職には,管理能力がなかったことがありありとしている。

 知の管理がイコール「非情の管理」という印象を広めたい人たちには,「甘えられる源泉」を保持しておきたいという「甘え」がありませんか。

 制度も含めた,教育の問題,教師の問題・・・・現実を直視すれば,過去のことをもとにした感動や共感にとらわれることなく,未来の話をしなければなりません。

 何をどうしていくべきなのか。

 心と心の交流は,リアルな世界でのやりとりを重視してください。

 出会い系サイトのようなものでだまされた子どもの指導をしたときによく言うことです。

 書かれた言葉だけで相手をどういう人間か,判断してはならない。その目で実際の人物を見るまで,

 「カオナシ」だと思ってやりとりすること。

 まとまらない話になりました。

 情の管理を重視するにせよ,知の管理を重視するにせよ,最終的には,人間一人一人,教師一人一人の自覚が芽生えないと,何も変わりません。

 自覚がない人に,「自覚をもて」というのは,

 勉強ができない子どもに,「勉強しろ」というのと同じ。

 小学校の教師と中学校の教師の違いについても,考察していただくきっかけになれば,幸いです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より