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中学校の教師は,猿に変身する

 小学校の教師は,職場の日常では「群れ」の行動をとらないのですが,

 中学校の教師の場合は,職場で猿と同じような社会をつくっている場合があります。

 むしろ,それが「ふつう」かもしれない。

 dolceさんは,比喩表現を想像力をはたらかせて読み取ることが苦手なようで,

>「中学校の教師は、猿に変身しません」

と言うなら、納得できますが

 ということなのですが,こういう言葉にこそ「反論」できるのが学校という社会を知っている人間なのです。

 もし,「心がせまい」とは何かを説明するとしたら,

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。

 繰り返しになるのですが,

>「中学校の教師は(ふつう)『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』
 などという指示は出しません」
 
>ということが言い切れるかどうかということです。

>「中学校の教師は」と言えば、対象は日本中の中学校の教師です。

>その教師が、過去、現在、未来を通じて、そういうことを言わないと言い切れるかということです。

 以上からわかるのは,「私の言いたいこと」=授業中に,特定の出身小学校の生徒を待たせるような指導はふつう,行われることはないし,もし行われたとしても,それは不適切だ,ということへの反論になっていない,ということです。

 ここも繰り返さないと問題の所在があいまいになるので困るのですが,

 ある小学校の出身者だけ,進度が早くなるから,そういう子どもは待たせておかなければならない状況になる,だから,「待っていて」という指示が出される,という話が私が「おかしい」といったものでした

 「ある小学校の出身者だけ進度が早くなる」のが,「ふつうの授業で見られる」のが「ふつう」ではないことは,これも繰り返しですが,特定の小学校の出身者の中にも,実力の格差があるのが「ふつう」だから,説明するまでもないことでしょう。つまり,「待っていて」はいけない子どもも含まれるのが「ふつう」なのです。そして,何も「待たなくて」よい。同じ説明でも,「いっしょに聞いて」くれればよい。場合によっては,まだ終わっていない子どもを助けるとか,手伝うとか,そういうこともあり得ます。・・・・ということでした。

 dolceさんは,これが反論として成立していないことを,私の言葉の「ふつう」を勝手に(  )を入れてしまうことで,なかば自覚されている

 以前も同じことをされていました。

 「ふつう」ではないことがあるぞ,というのでは,「ふつうはこうだ」という説明の反論にはなりませんね。
 
 「ふつうは2アウト3塁でスクイズは行われない」という言葉に対して,「2アウト3塁でスクイズが行われない」と言い切れるのか,過去もなかったのか,未来もなかったのか,なんて言い出す人はいないでしょう。

 反論のための反論をしているから,窮地に立たされてしまうのです。

 dolceさんがすべき反論は,
 
 中学校の教師は,作業が早く進みすぎる特定の出身小学校の生徒を限定して,待たせておく,という指導がふつうに行われていることを,示さなければならないのです。

 しかし,これを示して上で,「これは不適切な指導ではない」ことも説明しなければならないのです。

>実際、新学期が始まったばかりの中学1年生においては、いくつかの小学校の出身者が集まっている中学校があります。

>そういう時、それぞれの小学校を紹介する時

>「○○小学校の(出身の)人たちは待っていてください」

>ということはあり得ます。

>そして、それぞれの小学校の特徴や自慢を披露することもあります。

 これは,「ふつうの授業で,作業が早く進みすぎるので待たせておく事例」ではありません。

 「~という場合もありえる」と言っている時点で,「ふつうの例」ではないことも,自覚できないのでしょうか。

 そして,書けば書くほど,「おかしな指示」が際立ってくるdolceさん。

 なぜ,出身小学校のよさをPRする場面で,ある小学校出身者に「待っていて」という指示が必要なのでしょうか。この子どもたちは「聞き役」になるのですから,「待つ」のではなく「聞く」のが正しい姿勢ですね。

 実際の指導場面を思い浮かべれば,そういう言葉を発する必要性がないことは明らかです。

 むしろ,「待たせてはいけない」と考える教師にならないと,「授業のねらい」は達成されません。
 
 一方的に「特徴や自慢を披露する」のではなく,それを「聞いてあげる」側が存在しなければ,「授業」として成立しなくなるのです。

 ・・・・・「特徴や自慢」が披露できる小学校と,そうでない小学校の格差が気になる?

 そういうセンスのある人に,できたら教師を志してほしいですね。

 dolceさんのセンスは,次の言葉でよくわかります。

>中学校で、音楽の教科書の他にリコーダーの本の別冊があって、子どもが自主的に練習して行って、他校の子どもたちよりずいぶん進んでしまうというので、音楽の先生が、しばしば待たせるということを話していただいたことです。

>音楽の練習では、吹奏楽部の例なんかよくわかると思うのですが、進度に差が出る時、進度別にグループを分けて練習するなんてことはやります。

>私の指導していた小学校の子どもが、中学校へ行って、校長やPTAを動かして吹奏楽部を作ったという話はしました。

>そういうこともあって、要請されて、私が時々中学校へ行ったりしました。

>祝日や日曜日の練習の時も行きました。

>そういう時に出た話です。

 途中からdolceさんと私のやりとりを読まれた方は,この部分を読まれて

 「ああ,なるほど!」と気がつかれたことでしょう。

 何を自慢したかったのか,そして,それが否定されたことに,カチンときたのだな,というのがありありと伝わってくる部分ですね。これが「読解力」です。

 そして,たったこの部分だけでも,「猿化した教師」が「習熟度別による学習」を行うと,こういう失敗を犯すのだな,ということがわかります。不適切な指導法です。

 それについては,あえて説明するまでもないでしょう。

 教職につこうと考えられている人には,この「どこが不適切なのか」が問われるようなケースの想定問答をぜひお考えください。

 dolceさんがわざわざ自ら核心的な部分にふれていただいたので,この部分さえお読みいただければ,もう十分だとも言えるでしょう。

 自慢話をしていたdolceさんが否定されたのではなく,中学校の音楽教師の指導が不適切であったと指摘された経緯にあらめて気がつけば,ご機嫌もなおるでしょうか。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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