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ミラーニューロンの活躍で不登校は減らせるか?

 日経ヘルス&プルミエの記事に,「ミラーニューロン」=「物まね神経細胞」のはたらきと意義が紹介されていました。

 目で見た人の動きを,体が勝手にまねするようにはたらく神経細胞

 無意識のうちに「自分も同じように動け」と命令を出し,「同じような動きをする」ことで,

 「行為の意味を理解する」というしくみ。
 
 ミラーニューロンの起源は,「自分を自分と感じるシステム」であったとも。

 自分の体を動かすとき,脳内の命令と,目で見た体の動き が一致すると,

 「これは自分の体だ」という一体感が生まれる。

 こういう話を聞くと,今までかなり否定的だった

 「ダンスの必修化」も,「ミラーニューロン」の活動機会拡大につながり,ひいては「不登校の減少」につながるのではないか,という期待感まで抱いてしまいました。

 鉛筆をくわえた状態だと,相手の微妙な表情の変化が読み取れなくなる,とも言われています。

 これはかつてどこかで読んだ記憶がある。

 それは,顔の筋肉の「使用制限」がはたらいているからで,それが「心で理解することの可能性を制限」することに結びついているとのこと。

 顔の筋肉も含めて,体の動きをもっと解放してあげることが,「心の感度」をアップさせる効果がある。

 小学校では教師たちは,とにかくオーバーアクションで,大げさな表情や動きをするものですが,そこには「それをまねさせて,心の反応をよくする」というねらいがあったのかも。無意識的にも。

 中学校段階の教師になると,「大人げない」こととして,派手なことは避けるのがふつう。

 しかし,以前に書いたことですが,「指導力のある教師」の資質の一面として,

 大した話ではなくても,大げさに喜んだり,大げさに驚いたりする傾向が見られる。

 ・・・・これが,相手の「心をつかむ」コツなのか?

 そういう機会にめぐまれないことが,「中1ギャップ」の原因のひとつか?

 可能性の一端を留保して,中学校の教師は,一度は,上がってくる小学校の児童たちの担任の授業を参観すべきでしょう。

 高学年になってもオーバーアクションの教師の児童たちには,まだそれなりの「動き」をみせてあげるのが大事なのかも。

 小さい時に,様々な感情を示す家族たちを間近で見て,それを無意識にまねする自分がいて,相手の感情を理解しつつ,自分が自分であることを理解することができた中学生と,そういう子ども時代を過ごすことができなかったことを教えてもらっている中学生では,「表情の豊かさ」に大きな格差があることは,多くの方が経験上知っていることでしょう。

 中学校段階で,そういう「経験の不足」が補えるかどうか。

 縁起でもない話ですが,いよいよ連休明け。

 明日から「登校しぶり」「体調不良による欠席」が増え始めます。

 最初のアプローチが大切です。

 ダンスセラピーは学校教育に応用可能?転移可能でしょうか?

 専門家の方で,すでに論文等を発表されている人はいるのでしょうね。

 検索上では,『ダンス・セラピーの理論と方法 舞踊心理療法へむけての序説』(八木ありさ著,彩流社)という本があるようです。

 中学校体育の導入段階からダンスを取り入れれば,不登校は減らせる?

 もちろん仮説にすぎませんが。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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