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これだから教員の常識は社会の非常識だと言われるのですね

 「逮捕」された小学校教諭のように,実名で報道されると,「教え子」たちの心の痛みを想像してやりきれない気持ちになります。

 どうして行動面での,「常識的」なブレーキがきかないのでしょうか。

 教員の犯罪は,常識から考えて,「まさか」というレベルのものがよく起こっています。

 もう,そういう教員がいる,というのが「常識」になっている,ということなのかもしれません。

***************

 教員や元教員だった人の中には,自分の権利の保障を第一に考え,その実現のために,自分の職場としての学校を,より働きやすいものにしたいと訴える人がいるんですね。

 憲法を擁護する義務を負う立場であることよりも,憲法によって擁護される立場であることを強調する。

 このことが,教員の,公務員としての質の低さを露呈していることに気づけない。

>教育行政の先頭に立っている人が、国の代弁者なわけです。
>だから、現に働いている人、特に何らかの肩書きのある人、日本国憲法をどのくらい知っていますか?
>日本国憲法第25条1項
>すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
>いつも、上から目線のあなたは、当然知っていますよね?
>先生は零戦に乗った、特攻隊ではありません。

 何が言いたいのかよくわからない方も多いと思いますが,

 簡単に言えば,「教員の権利を保障しろ」です。

 しかし,公務員が「率先して」こういう発言をするのは,どうかなと思うのですね。

 というのは,第25条も含め,日本国憲法は,

 第99条[憲法尊重擁護の義務]

 天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 というものなのです。

 簡単に言えば,憲法には,国民が,公務員などに守らせたいことが書いてあるのです。

 それまでの反省に立って。

 たとえば,犯罪を起こす教員たちには,国民が投げかけている,色あせることのない「声」だと受け止めてほしいのです。

 公務員としては,自分のことは,国民に「奉仕」したあとの話にしてほしいのです。

>国には憲法というものがあります。
>憲法は国自身が決めたものです。
>だから、国が憲法違反をするのはもっての外です。
>国という生き物はいません。
>国といいますが、実際に活動しているのはひとりひとりの人間です。

 ここもやや不明瞭です。

 憲法の前文を読んで下さい。

 憲法は「国自身が決めたもの」です?

 この「国」は「政府」という意味でしょうか。
 「政府」が憲法違反をするのはもってのほか,というのは分かります。

 しかし,憲法は,「政府」が定めたものではなくて,日本国民が確定したものです。

************** 

 dolceさんという方は,「先生が子どもの犠牲になるのはおかしい」という持論を,

 組合の教員の一部が非常に熱心な「教え子を二度と戦場に送らない」という信念を少しもじって,「私は二度と戦場に行きたくない。命を捨てるのはまっぴらだ」という発想に立ち,

>先生は零戦に乗った、特攻隊ではありません。

 というたとえを使われています。

 この人は,「犠牲」と聞くと,イコール「国のために死ぬこと」と理解する。

 そして,「学校に通ってきている子どものために死ぬなんてまっぴらだ」という趣旨の発言をしてしまう。

 「死ぬこと」と理解してもらったとしても,

 子どもをかばって命を落とすような人の「使命感」や「責任感」は,理解の範囲外ということなのでしょう。

 これは蛇足ですが,憲法第25条については,国の社会的使命として,

 「国は,すべての生活部面において,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ことが示されています。

 dolceさんの場合はふれてはいけない部分もあるのでしょうが,教員のような公務員は,給与面だけでなく,福利厚生の方まで本当に「甘やかされている」存在なんですね。それで,墓穴を掘る。

 「健康で文化的な・・・・」について求めていることの次元が違います。

 どこまでもズレを強調したいdolceさんには脱帽です。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より