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ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる

 海軍大臣山本権兵衛が,東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したとき,明治天皇に

 「運のいい男だから

 と説明したそうです。

 この一言だけからも,いろいろなことを考えることができます。

 日露戦争というものへの当時の軍人の考え方

 優れた指揮官の資質

 内田樹は,武人の優れた資質に,

 「ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる

 ことができる力を『安宅』の弁慶もひきながら,紹介しています。

 (内田樹著『街場の読書論』太田出版)


 起こるはずのことが起こらなかった場合,

 それがなぜ起こらなかったのかを後から説明するのはとても難しい,というか,説明したとしても,具体的な根拠があげにくい。

 これが,起こるべくして起こった場合は,後からいくらでも根拠をあげることができる。

 教育の世界にも,説明できないたくさんのことがあります。

 ベテランのAさんの学級が崩壊し,新採のBさんの学級が,とてもよい状態を維持している。

 これを聞いた瞬間に,Aさんは人柄に課題があり,Bさんには情熱があったのだろう,などと想像するのが,「精神主義」「情緒主義」の人間。こういう人は,「感動する」のが好きだから,よい方向に向かっているときは周囲も迷惑しませんが,いったん負のスパイラルに入ると,破滅するまで抜け出すことができない

 歴史を学ぶと,日露戦争と勝利と,アジアと太平洋地域における戦争の敗北には,共通する背景があることに中学生でも気づくことができる。

 Aさんのどのような行為が,崩壊を招いたのか,と同じくらいに,Aさんがどのようなことをしなかったことが,崩壊を招いたのかも考えなければなりません。

 Bさんがどのような行為をしたから,よい状態が維持できているか,と同じくらいに,Bさんがどのようなことをしなかったために,よい状態を維持できているかを考えなければ。

 やがて,Aさんの学級は秩序を取り戻し,今まで経験したことのないような成長を子どもが見せることになるかもしれませんし,Bさんの学級が崩壊し,今まで経験したことのないような荒れを子どもが見せることになるかもしれない。

 ベテランのベテランらしくあってほしい点は,「このままではまずいな」という「アラーム」が聞こえること。

 残念ながら,その「アラーム」が聞こえてないな,と思われる人が教育現場にいる。

 案の定,ということもあるし,「結果オーライ」的な,「よく何も起こらなかったな」と安堵できることもある。

 本当に指導力のある人というのは,「なぜこの人のもとで子どもがちゃんと成長しているのか,理由がわからない」人のことなのかもしれません。

 自己教育力という便利な言葉が教育界にはあるんですね。

 こんなことを東郷さんに言うのは失礼なのでしょうけれど。

 ************

 最後に一言。書き忘れていました。

 今の学校教育の問題。

 あるはずのものをなからしめることによって,ないはずのことをあらしめる

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コメント

長崎県で教員による不祥事が多発して「非常事態宣言」が出されたとき,重大な犯罪行為が,「ふだんはまじめで勤務態度のよい教員」によって起こされるために,「打つ手がない」という「弱音」も合わせて語られていました。

教員間の「つながり」は,昔ほど強くなっていないのは私の経験上からもわかりますが,それは「忙しい」からではなく,「つながり」の大切さが認識されていないからだと思われてきます。

また,人と人をつなげる,そういう役割の「人」も大切です。

「仲人さん」も今は減ってきているのでしょうか。

管理職にはせめて,そういう役割を担ってほしいと思います。

記憶に新しい事件ですが
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120228-OYT8T00407.htm
同様にほったらかし?という事故は発生しています。

他校の災難であっても学ばなければならないことを学ばない、当然当事者の学校も学ばないのです。

アラームが鳴って逃げ出している例が以下のリンクにあります。

http://www.youtube.com/watch?v=sNCo09W-i30&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=frICSD-52BE&feature=related

同様の事故、事件は無くなることは決してあり得ないでしょう。
子供が、物として扱われているかのようなそういう先生が実際にいる訳ですから。

当然事故に対しての対応について何も反省しないし、被害者がどうなったのかも知ろうとさえもしないという現実。

いつもチェリー・ピッキングばかりやっているといざ、事故発生というときに全くほったらかしという事では無いかと推測できてしまいます。

学校でのチェリーピッキングはやめなければならない当然のことですが、それをいつまでたってもやめられない、腐敗した政治家とほとんど変わらず、子供をいつも上から目線だけで見て、都合の良いときチェリー・ピッキングという体質。演技性人格障害の人によく見かけられる行動パターンです。

採用試験でこの人格障害の人は落とすという配慮が必要かもしれません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より