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授業を大事にしない子どもがいる原因

 ●指導力不足につながる事例 3/33 「授業を大事にしない」

 「授業を大事にしない」教師なんて,いるのだろうか?

 これは,実際に「授業を大事にしない」教師に出会ったことがなければ,思いもつかないようなテーマなのですが,学習指導要領には法的拘束力がない,という立場に立って,「授業は教師の自由に行える」という主義のもと,本当に好き勝手やっている・・・・特に好き勝手にやりやすいのは,小学校・・・・・教師を目の当たりにすると,今の学校教育で「本当に大きな問題」であることに気づくのです。

 以前,dolceさんとの間で「授業を自習にして出張する教師」の問題をやりとりしましたが,dolceさんの主張は

 「出張命令には従わなければならない

 私の主張は,

 「授業を自習にさせて出張命令を出すのは,本末転倒のゆゆしき事態

 というものでした。

 実際にそのような課題を,「課題として認識し,改善に向けて努力している」自治体があることを以前に紹介しました。

 教育委員会が,授業時間に,代わりの教師がいないことを知っているのにもかかわらず出張させる依頼を出していたとしたら,「授業を大事にしない」のは学校だけでなく自治体ぐるみの問題であるということになります。

 さて,ここでの話題というのは,「授業を大事にしない」教師や子どもの問題です。

 田沼雄一著『若い先生に贈る失敗から学ぶ教師学』学事出版では,以下のような事例が紹介されています。

 ・・・・教師不在の自習となんら変わることのない学習時間となってしまいます。
  子どもたちも,それに慣れ,うるさいことを言われず,指導もされず放任されている時間が長いのでなんとも思わなくなります。学校のほとんどの時間が授業にもかかわらず,教師が授業を大事にしないから,子どもも授業中,真剣にやろうとしなくなります。

 おそらく,これは小学校教師を対象にした文章になっているのでしょう。中学校では,時間ごとに教師が変わるので。まさか「全滅」ということは考えにくい。

 そのあと,紹介されていることとも関連しますが,普段,とても人に見せられるような授業をしていない小学校教師が,いざ,授業参観となると,「授業の準備をしなければいけなくなる」・・・・・でも,「授業の仕方がわからない」・・・・だから,「授業参観のための授業づくり」なんていう本が出版されることになるのですね。

 親としては,特別な授業が見たいのではなくて,できれば,全く普段通りの授業と,普段の授業での子どもの姿が見たくて,わざわざ(人にとっては仕事を休んででも)学校まで出かけていくのです。

 たくさんの小学校から子どもが集まってくる中学校にいると,いろいろわかってくることがあります。

 あるクラスは,授業そのものが成立していなかった

 ゲームや漫画は持ち込み可で,授業がわからない子どもは,授業の邪魔をしないように,個々にゲームなどに熱中させて,それらで時間を過ごして,授業が終わるのを「待っているように」言われていた

 そして小学校の休み時間というのは,「遊びの時間」であって,学校にはトランプやカードなどを持ち込み可で,そういうので少人数でグループをつくって遊んでいた。

 小学校の「遊び」は,もっと大人数で,体を動かして,伸び伸びとやってほしい,というのは,保護者の立場だけでなく,中学校の教師と言う立場からの要望でもあります

 学力はついていない

 体力もついていない

 ある程度の人数で一緒に活動することに慣れていない

 こういう子どもたちに,「学校における生活の仕方」「学校における授業の意味」を改めて中学校で説明しなければならないのは,本当につらいことです。

 小学校には,「週案」というものがあって,管理職がすべて把握することになっています。

 教育課程の管理のうち,「日常的に行う管理」がこの「週案」の確認です。

 校長によっては,副校長や教頭に任せっきりになっている人がいるかもしれませんが,ここで管理職が課題に気づけるケースと言うのも,実際にはあるのです。

 気温が異常に高い炎天下の校庭でマラソンの練習をするなどのケース。

 「予定通りに進めないと気が済まない」というタイプの「指導力不足教員」には,特に注意が必要です。

 授業を大事にするのは,当たり前ですが,子どもを大事にするということです。

 計画の方を,子どもの健康よりも優先させる教師が,実際にいることを忘れてはなりません。

 授業だけでなく,子どもを教師が大事にしてくれていたら,

 子どもは授業の時間を大事にしてくれます。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より