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指導力不足教員を変えるための突破口

一連の記事に関しては、お読みいただきたいのは、あくまでもdolceさんの「反論パターン」です。
しばらく、ランキングのためのバナーはつけません。
注目してほしいのは、dolceさんのblogです。

さて、改めてお断りしますが、dolceさんが指導力不足教員であるとは言っておりません。

指導力不足教員と同じような指導をしており、反論も同じような仕方であるために、事例を活用させていただいて、教師の指導力を向上させるために必要な条件を探っております。

今回のテーマは、

「指導力不足教員教員と教育を受けている子ども」との関係性を考えなければいけないのに、

指導力不足教員というのは、「自分と、自分の指導の課題を指摘した人間」との関係性のことで頭がいっぱいになってしまうという特徴がある、ということです。

これは、実際の指導上では、「指導に反感をもつであろう子ども」のことは全く視野に入らず、「指導を受け入れるであろう子ども」のことで頭がいっぱいになってしまう、という問題として表面化します。

子どもの側からすると、これは「不公平感を高め」「えこひいき」「特定の子どもへの特別待遇」をする教師という姿にうつります。

dolceさんの過去の紹介事例でわかりやすかったのが、

部活動に遅刻してきた生徒を注意したら逆ギレされ、「何時なら来れるのか」などという、社会人なら絶対に経験することはない言葉をかけられ、何と、「全員が集まれる時間を話し合いで決めろ」と指示を出し、結局、開始時間が遅くなったという、「時間を守ってきたほとんどの子どもたち」への思いが完全に欠如した指導です。

dolceさんはまだ、

ふつう、授業で●●小学校出身の生徒は待っていなさいなどという指示を中学校の教師はしない(すべきではない)ということへの「正しい反論」はできていません。

ふつうの授業の事例が紹介されていませんし、とにかく「なぜそれが不適切なのか」を考えようとしない。

茶摘み労働という特異なケースをもってきて、「ほら、こういう事例もあるんだぞ」という姿勢自体が、「ただ逃げているだけ」であることに気づくことができない。

なぜ、授業中に●●小学校出身の生徒を「待たせる」指導をするのが不適切なのかはすでに書きましたから、繰り返しませんが、指導力不足教員は、「こういう言葉をかけたら、私は気に入られそうだな」と一度思ってしまうと、「こういう言葉を聞いたら、反感を覚える生徒がいるかもしれない」ことは、全く考えられなくなってしまう。

「あなたと、子どもとの関係の問題ですよ」という指摘に対して、

「お前にそれを言われる筋合いはない」と反発して、

結局、「子どもとの関係」に入りこんでいけない。

指導力不足教員が、現場に復帰するための研究授業をすると、(ある意味、仕方のないことかもしれませんが)参観している教師の方ばかりが気になってしまって、「一部の子どもにしか目がいかず、子ども全体の動きを視野に入れた指導ができない」ことを実証してしまうことになる。

突破口は「子どもの生の声」だと思われるかもしれませんが、こういうとき、「筋金入りの指導力不足教員」は、子どもも攻撃対象にする。裁判を起こした指導力不足教員が、このタイプでした。

では、だれが「突破口」となるのか。

やはり、現場の教員しかいない。

同僚しかいないのです。

dolceさんの場合の希望は、管理職からの言葉なら、無条件で「はいはい」と聞きそうなところ。

ただ、一般の場合は、「判断を下す」管理職は「被告」となりうる立場ですから、難しい。

学級担任制の小学校教師の場合は、具体的な指導場面をみることができる「同僚」がいないことが、残念なところ。ですから「校内研究」で、年間1人3回は研究授業をする、などの方法で、「突破」していくしかありません。

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教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

指導力不足教員を,どうにか校内で何とかしようという試みは,実態としてはほとんど行われず,「次の異動まで静かに待つ」というのが「最善の策」になってしまっています。

とにかく,「あのような」反応が返ってくるのでは,指摘する方にはよほどの辛抱強さが必要になってくる。

でも,私としては,やはり子どもを犠牲にしたくないのです。

現場の先生方には,「最善の努力」をとっていただきたいのです。

その具体的な方法を提示できているわけではないのですが。

辛抱強く,子どもと向き合うことを,訴えていかなければならないのです。

先ほどの投稿の参考書です。

悪の遺伝子―ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか [単行本] --①
バーバラ・オークレイ (著) 酒井 武志 (翻訳)

「悪」の進化論 ―「邪悪の蕾」は密やかにふくらむ [単行本] --②
(著), 西口司郎 (イラスト), 酒井武志 (翻訳)

この本の中では、扁桃体、網様体の異常が指摘されています。

また、②の172ページには分かれ道は「みんなの意見」を聞けるかどうかということが指摘されています。

まあ、問題を武勇伝にしてしまう人が問題を認識しているかというと、うすうす解ってはいるけれど、取り組む勇気が無い、取り組む方法が解らない、等の理由で自分自身に劣等感を抱き、それを脳の中で分離した記憶として、全てを覆い隠す、アクセス不能な領域に放り込んで、何事も問題なかった、素晴らしい授業をやったと、そういう認識に書き換える特技を持った、人だといえるでしょう。

それ故、ここが非常識、ここはもう少しこういう風に改善できるはず、、、などの指摘を受けた場合、必ず、アクセス不能にした領域にその認識した事実を放り込んでしまいます。
その結果、予定外の認識された事実は、ストレスとしか、意識の上では認識されないと言うことです。根底には育った環境が影響しているといえるでしょう。

この手の人は採用しないのが原則ですが、見破ることは、その演技力から非常に困難で、結局周りのひとが苦労するのです。サイコパスという、ある種の人格であり、発生は男性の方が多く、5人に1人ぐらいの割合で存在します。

fMRIやSQUID磁束計などを使って特定の質問をしたときの脳の活性化領域を調べればある程度判別可能かもしれませんが、実用には至っていません。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
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  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より