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教育者が学ぶ姿勢をなくしてどうする? ~dolceさんの情けない教育観~

 新しい指導要領になって,

 学習する内容が

 増える。

 変わる。

 だから,教師も,学ぶ。

 この「学ぶ」行為を「苦慮」「負担」と表現するのが,dolceさん。

 これを,「もし,自分が教師だったら」というのなら,よく理解できます。

 しかし,朝日新聞の記事では,指導が「不安」だから「奮闘」している教師が描かれている。

 武道の必修化で,道具がそろわないので「苦慮」するのはわかります。

 ただ,ダンスの指導法で「不安」があるので,学びに行く・・・・こういうのを,「対応に苦慮」「負担だ」とは,

 きっと

 「教育に情熱をかける教師」なら言いません。

 「にわか作り」だと思われたくないから,自信はないけど,習いには行かない。

 そういう教師を是としている。

 情けない。

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コメント

いつも疑問に思うこと、それは、ダンス、武道の必修化といえばなにか格好がつくのかもしれないけれど、大学生になって、足し算、引き算、かけ算、割り算がまともに出来ない学生がすごく増えているのはなぜなのか誰も追求しないということ。

平均の意味がわからない大学生が続出しても、根本である初等教育に改善をしようとしない。

大学で小学校レベルのテキストを作成して補修しているというあまりにも馬鹿げた教育体系、どうして政治家や文部科学省が上から目線だけで物事を発案して、欠陥だらけのカリキュラムを押しつけるのか理解に苦しむ。

大学卒業しても四則計算が解っていないで卒業したら就職できないし、それでなくても不況で厳しい、児童のポテンシャルを徹底的に踏み台にするけいこうがあるのには、はっきり言って怒りを覚える。

どうして、そこまで自分の事(教師のために)だけが優先されるのか許せない。

一ついえることは、特定の教師だけの問題では無く、かなり多くの教師にそういう人がいるということ、

その事実を確実にしているのは労働組合だし、採用試験のやり方の著しい欠陥にある。1500mを6分ぐらいで走れるとこと教育者としての資質とは全く関係ない。
演技でごまかせるY-G性格検査もそうだし、クレッペリン検査も教員としての資質とは全く関係ない。

民間にはある試用期間というのが全くない、鬼畜と断言できる猥褻強姦挙止も多数発覚し、異動させるだけで、何事も無かったかのようにしている地方自治体、通常の人よりも選択的に問題のあるひとが優先的に採用され、組合で反社会活動を平然と行う、そういう人が先生として地方公務員の平均年収より100万程度多く給料が支給される。

虐待を指導と勘違いしている教員も多く、手本を示すということが全く出来ないという教師もかなり多く存在する。

ぜんぶではないけれど、まじめに向き合う先生がいたら全部その人に押しつける。
そしてなにか問題でもあれば押しつけておいた人に、全部の責任を押しつける。

特定の人を説得しても良くなることはありません。問題のある人は周囲に全部責任転嫁するだけ、排除されるべきはそういう人格のひとであって、公務員の身分保障でのさばり続けている。

入れ墨職員と大差ない出すよ。職務を果たすととより労働者として地位を得ることを考えるような人は、分限免職するしか無いということですね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より