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指導力がある人とない人の大きな隔たり

 指導力のない人は,指導力のある人の指導のまねをすれば,授業ができると勘違いする・・・・というか,指導力のある人と自分との違いが,何であるかが理解できない・・・・という特徴があります。

 だから,指導力のある人の本を買って読めば,自分もきっと指導力のある教師になれるだろう,と勘違いしてしまう。

 もし子どもの教育に対する指導力が高い人が,教師に対しても指導力を高める指導ができれば,そういう人が一人でもいる学校は,とても教育水準が高くなるでしょう。

 「自分の仕事」が終わったらさっさと5時すぎに帰ってしまうような「指導力のある教師」を,周囲はどう見ているのでしょう???

 さて,指導力があるとかないとかが分からず,「指導力のなさ」を実感させてくれる愚問が,

 「指導力があるってどういうことですか」というもの。

 指導力不足教員が,実際にこういう質問をしてくることがあるのです。

 いくつかの学校を異動してきて,何を見て,何を学んできたのだろう?
 
 学校には,「指導力がある」教師と,「指導力がない」教師しか存在しないと勘違いしている。

 まず,教師は,一定の指導力があるのが,ふつうのこと。

 その中で,他の教師から見ても力があることが明らかな教師,子どもがその教師の指導によって,他の教師の指導によるよりも高い成果が出されるようなとき,

 「高度な指導力をもつ」とか「指導力が高い」という意味で,あえて指導力がある」と言うのがふつうなのです。

 ふつうの教師のふつうの指導力に対して,「指導力がある」という言い方はふつうはしないのです。

 自分が教える教科に関する,ある一定の専門的知識や技能は身に付いていることは最低条件ですが,たとえば,その知識や技能はどのようにして身に付けられたのかをふりかえってみます。

 自分が受けてきたような授業を,自分が展開できて,自分が学んできたようなことを,子どもが学んで,自分と同じような状態になっていけば,「指導力」についてあれこれ言われることはない。

 自分より子どもの方ができるようになっても,教師の「指導力」に課題がある,なんてことは言われない。

 教師の「指導力」に課題があると言われるのは,子どもに実力がつかないからです。

 その理由が,「自習が多い」「質問に答えてくれない」などといった「指導力」以前の問題である教師もいますが,今のところ,「子どもとの会話が成立しない」というレベルの教師で,やっと「指導力不足教員」に認定されるようになります。

 本当は,新しい学習指導要領のもとでの教科のねらいや単元の目標を理解せず,大昔のプリントを使って同じような授業を繰り返しているような教師も,私は十分に「指導力不足教員」に認定してよいと考えていますが,こういう場合はいくらでも「言い訳」が成り立ってしまう。

 「子どもとの会話が成立しない」「すぐに体罰に訴える」などのレベルは,だれの目からも「不適格」に見えるので,判定もしやすいし,「言い訳」もできない

 でも「指導力不足教員」がそういう「線引き」では,子どもも浮かばれないだろう,というのが私の考えなので,

 どういう指導が課題なのかを問題にしている,というわけです。

 指導力の「高さ」には本当に様々なレベル,得意分野の多様さがあるので,それを知りたければ,様々な学校の研究発表会にでも出かけていけばよいのです。

 でも,日常的な「指導力の課題」は,そういう「研究発表」「公開授業」では現れにくいでしょう。

 だからこそ,指摘が必要なのです。

 一般企業のビジネスパーソンに求められるスキルは,

 技術スキル

 対人スキル
 
 概念化スキル

 で,一般従業員→管理者→経営者の順に,下の方のスキルが重要になってくる。

 教師の場合は,採用段階から「対人スキル」・・・・しかも,年齢が下の,子どもとのコミュニケーション能力が重要になります。

 そして,そのスキルの背景には,教育への使命感とか,人間尊重の精神などがなければならない。

 放課後の教室で子どもには見せられないような行為をしていた小学校教師のように,感情や行動をコントロールする能力がない人間は,公務員としてそもそも不適格なのです。

 指導力がある教師,とよばれるようになるためには,

 技術だけではダメ(だから,技術をひたすら高めようとする人たちの中からも,指導力不足教員が出てくる)

 対人スキルがあるかないかは,その人が書いたり話したりしている「言葉」から想像できます

 まずは,技術と対人スキル。これがともに高度である教師に出会ったことがない人は,不幸ですね。

 そういう教師に育てられている子どもも不幸です。

 初任者研修における研究授業でも,「指導力があること」をアピールできる人もいます。

 厳しい私の先輩は,そのときの授業・・・・いや,教育実習のときの授業で,だいたいその人の「指導力のレベルはわかる」・・・・と言います。

 大勢を見てきたそういう人の言葉にはなかなか抵抗しにくいですが,それを教育実習生に伝えても仕方がないので,とにかく授業の技術や対人スキルが磨けるような実践,公開・研究授業,研究会での発表等を続けていけるよう,アドバイスしてあげるしかありません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より