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教育における「想定」のマイナス効果

 地震の想定,景気の変動の想定,集客の想定・・・・・

 それらが,単なる「想像」ではなく,一定の科学的根拠に基づいて行われてきたものであっても,「想定外」が起こることがある。

 東日本大震災は,その典型的な例でした。

 このような「想定」に対し,非常に「甘い」と言わざるを得ないのが,

 教育,指導における「想定」です。
 
 中学校における「旧」指導要領の場合,

 たとえば社会科の地理的分野について言えば,

 これは教員が指導できるという「想定」が誤っていたと考えられます。

 指導要領の趣旨通りに指導することができない教員がいたことは確かですが,

 この人たちの言い分は,

 「生徒には学習指導要領の趣旨通りの学習はできない」

 というものでした。

 趣旨通りに,学習の目標を実現するための指導を行って,それで

 全員が低い評価になるのであれば,それは正しい指摘だったかもしれませんが,

 「できないからやらない」というのが教師の側の言い訳でした。

 近くに中学校がある方は,中学1年生か2年生の子どもたちが,学区域程度の地域を調査している様子をご覧になったことがあるでしょうか。

 新学習指導要領では,中学校2年生の2月か3月に実施するのが一般的になります。
 
 来年以降,ご注目ください。もし生徒が調査を行っていないようであれば,

 教師が責任を果たしていないことになります。

 生徒に責任を転嫁する教師たちの態度は,

 いわゆる「ゆとり世代」を「無責任世代」「当事者意識の希薄な世代」に育て上げた可能性が指摘できます。

 教師の力量に対する「想定」が,とても甘いのが日本の教育の課題です。

 一方で,こういう言い訳をする教師たちも多いでしょう。

 「入試のための指導が必要だ」

 ・・・・つまり,「入試で点数をとれる子ども」を想定にした指導をいつも行っている,ということです。

 学習指導の「想定」は,将来のためではなく,高校受験に合格するという超目先の目標のためになされているのが現状でありましょう。

 そうすれば,当然,いつも「目先のことを優先して行動する」人間が増えてもおかしくはないでしょうね。

 環境問題を考える,という場合でも,昨日,こういうニュースがあった,などと着目させることは大事ですが,これは50年先,100年先,いえ,はるか後世の地球のことを考えなければならないわけですから,さまざまなスパンで自分の行動指針を考えさせる習慣がないと,

 「節電で今年の夏を乗り切る」

 などといったことで一杯いっぱいになってしまうのです。

 教育における「想定」のマイナス効果は,

 生活指導の面でもあげられます。

 「こういう指導をすれば,今までの子どもたちはこうなった,だから,同じことを繰り返す」

 ような指導は,「ぶれのない教師の姿勢をみせる」という効果もありますが,

 生徒一人一人に焦点をあてた場合には,そうもいかないことを「想定」する必要があります。

 そして,その「想定」を上回るほどの「拒絶反応」をする子どもが現れたとき,初めて教師は自らの指導の課題に気づいたりするのです。生徒は「我慢」しますから,「拒絶反応」までは出ないのがふつうです。
 
 「想定」は,あくまでも「想定」であること。

 この当たり前のことを自覚して,指導にあたれば,「想定外」の場面であわてて判断を誤ってしまうようなことが避けられるようになるでしょう。

 教育における「よい想定」は,それを上回ることを目標に,指導すべきです。

 また,「悪い想定」は,それが起こらないように努力することは当然ですが,いつ起こってもおかしくない,もっと大変なことが起こるかもしれない,というのが「正しい想定」でしょう。

 教育失敗学は,教師の力量不足や使命感の欠如によって起こる可能性がある「悪い想定」の情報を提供し,教育創造学は,教師の力量不足や使命感の欠如を補う機能を学校現場につくりだし,「よい想定」(基本的には,学習指導要領に示された目標を達成した状況)を上回る児童生徒を増やしていく方法を追究していく使命があると自覚できます。もちろん,「補う機能」とは,塾等の教育産業のことではなく,子どもたちが本来もっている「成長力」を引き出すことです。

 「教えるプロ」ではなく,「引き出すプロ」「育てるプロ」が,教育のプロである,といったイメージに近づくことが,教師としての成長の第二段階にあるというのが,私の「想定」です。

 「教える技術の向上」を追い求める教師たちが,「教育のプロ」になりきれていない現状も,考慮に入れた「想定」です。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より