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小学校7年生の教育方針

 中学校1年生,何とか4月を無事に乗り切ることができたでしょうか。

 この時期から問題続出という学校は多くはないと思いますが,もし「もう始まっている」学校があったとしたら,それをチャンスと受け止めて,学校全体でバックアップしてもらえるとよいですね。

 中学校1年生の最初の危機は,連休後に訪れます

 緊張感が一気に緩んだ後の,

 「小学生がえり」を一時的なものにできるかどうかが,中学校での3年間を決定づけるといっても過言ではないでしょう。

 小学校がえり,とか,小学校7年生

 という表現は,小学校の教師からはあまり快く思えない表現かもしれませんが,

 小学校がそうだ,という意味ではなく,

 中学校入学後,1か月くらいはできていたのに,緊張が緩んでしまってできなくなってしまう・・・・そういう「現象」のことを表している言葉だとお考えになってください。

 中学校では教室移動も多いですから,体育の次の特別教室の授業といったら,子どもは大慌てです。

 ちょっとでも体育の授業が延びてしまったら,「休み時間」どころではありません。

 体育の授業中よりも速く走っている子も見られます。

 中学校に入ったら,「時間厳守」はすべての生活に求められることですから,「授業遅刻」などあってはならないのです。

 小学校では,「20分休み」の終わりのチャイム=次の時間の始まりのチャイムが鳴っているのに,まだ遊んでいる,担任教師は,ただ集まるのを待っている,なんて姿が見られることがありますが,中学校ではあってはならないことです。

 「小学校がえり」には,次のようなものもあります。

 「すぐに担任教師をたよる」傾向。

 小学校は一人親が常に自分の家=ホームルームにいた環境であったのに対し,中学校ではそれにあたる人物はいつも出かせぎばかりしています。

 教師への依存心が強い子どもは,後述の状況に陥ったとき,不安で学校に行けなくなる場合もあります。

 入学したばかりの子どもたちは,10人くらいが同時に質問してきたりします。

 順番が待てる子どもと,常に自分と教師との関係が1対1であり,教師は自分のことを優先的に扱うのは親と同じで当たり前だと考えている子どもの違いがはっきりわかります。

 また,小学校時代,担任の期待に応え続けていた「よい児童」が,中学校では生徒の役割の多様化・多角化から,自分自身の存在意義を見失って,不安定な状況に陥ることもあります。

 学年主任の立場なら,「どういう目で担任を見ているか」で,中学生になれたか,小学生のままかの区別をつけることもできるでしょう。

 「中学生らしくなれたね」と言えるタイミングは,たとえば,

 ○教師がいないときでも,だれ一人遊んだりさぼったりすることなく,清掃活動ができたとき。

 ○教師に言われなくても,今,何をするべきかをきちんと判断することができて,進んで動けるようになったとき。

 ○集合や解散時に余計な口をきかなくなったとき。

 これができないと,中学校の教師はよく,

 「小学生に逆戻り」「小学校7年生」などと言って,別に小学校が悪いと思って言っているわけではなく,中学生としての自覚をもたせるという意味で「刺激」を与えます。

 連休後の危機には,こういうタイプのものもあります。

 ●自分が担当している仕事で,ミスをして,そのまま「つぶれてしまう」生徒。

 ●小さな失敗でも,その「挫折感」があまりに大きくて,なかなか自信を取り戻せなくなる生徒。

 ・・・・中学生になると,1人1人の役割が多くなって,学校内をかなり広い範囲で動き回るようになります。

 広がるのは行動範囲だけでなく,交友範囲も,学習範囲も,上級生との関係も,教科担当の教師との関係も,学年の教師との関係も,生徒指導部などの教師との関係も。

 小学校とは比較にならないほど多くの「関係性」が生じますから,それぞれの場での「ふるまい方」で神経を使う子どもは,それだけで疲れ果ててしまいます。

 疲れるだけならいいのですが,問題は,「ミス」で責められてしまったとき。
  
 こういうとき,自己否定が極端に強く始まり,明るかったはずの中学校生活の展望が一気に闇に閉ざされるようになってしまう子どももいます。

 授業の持ち物を聞きに行ったり,提出物を回収して担当の教師に渡しに行ったり,未提出者に催促したり,・・・・教科の係になった子どもたちは,最初,よくある「ミス」をやらかしてしまう。

 ●授業の連絡をするとき,持ってこなければならない物の指示を忘れてしまったという場合。

 ●授業連絡を先生に聞きに行くのを忘れたという場合。

 こういう場合は,5月の段階では,

 「貴重な(失敗の)経験」「他の人もミスする可能性が高いこと」などという評価の仕方をして,

 「失敗しても,同じミスを繰り返さなければよい」「失敗は,しっかり反省できていれば許される」などということをわからせるような指導方針の徹底を,学年及び教科担当の教師にお願いしておくべきでしょう。

 教師によって言っていることややっていることの違いに,戸惑う子どもが多いのも,中学校1年生の特徴です。

 世の中はそういうもの,と気づかせることも大事なのですが,やはり「不統一感」の中でも,「理不尽だ」と思われることについては,中学校ではヨコの情報交換をしっかりして,最初のうちは「ばらつき」をなくした方がよいかもしれません。

 時間が立てば,「同じ」ことよりも「違う」ことに子どもは意味を見いだせるようになっていくでしょうから。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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