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わずかな希望の光が見えてきた

 忠誠心をもたせるために,自主性を重んじる。

 何だか矛盾しているように思えますが,

 やる気のない生徒へのカンフル剤としては,効果があるでしょう。

 よほどがんじがらめの指導をしてきた人間が,

 それまでの過ちを認め,活動の主体が生徒であることを宣言する。

 一時的な効果はあると考えられます。

 しかし,これは「忠誠心を高める」ための指導ではなくて,

 あくまでも「活動意欲を高める」ための指導である方が「教育的」でしょう。

 忘れてはならないことは,

 「自由に休みをとる生徒」をよしと思わない生徒がいることですね。

 「忠誠心があるのなら,休むなんてもってのほかだろう」という意見があってもおかしくないので。

 ・・・・結局,そういうふうに思わせることがねらいだった???

 ************

 第二関門は突破できなかったのですが,先に第三関門がくずせそうな雰囲気になってきました。
 
 指導は難しいのです。

 もしdolceさんのこのような言葉を目にしたら,子どもたちは唖然とするでしょうね。

 そういう「難しさ」の自覚がなければ,教育の仕事なんてできません。

 「機械とは違う」なんて当たり前のことですが,そのことすら気づけない人が教育関係者にいる中で,やや明るい光が見えてきました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より