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2012年5月

作るは容易・壊すは困難 ~人間の固定観念~

 日本一の堤防があるのだから,津波が来ても安全だ・・・・・・地震が来ても逃げない理由を,こう説明した小学生がいたそうです。

 人間のものの考え方の中には,比較的容易に形作られるものがあります。

 そして,その課題に気づくことなく,日々の生活を送っていく。

 何事もなく生活を送ることができる,その積み重ねによって,自分の考えが正しい,という「誤解」が,強固なものになっていく。

 そういうものを「壊す」のは困難です。

 ですから,そういうものを「壊す」ための「思考」はどうあるべきかを,授業を通して教えていきます。

 関東地方の人々にとって,「戦国時代」とは,いつのどのような時代のことか。

 「美しい生き方」とは,どのような生き方のことか。それが歴史上,どのような理由でどう移り変わってきたか。

 中学校1年生の学習課題です。

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頭が固まっている人の哀しい特徴

 大人の「固まった頭」をほぐすことが相当難しいことを,dolceさんが自ら示してくれています。

 なぜdolceさんは,

「頭が固まってしまった人」にはなりたくない

 とは書かないで,

>「頭が固まってしまった人」と言われたくない

 と書いてしまったのでしょうか。

 それは,

>他人がそう感じるような人間にはなりたくない

 からだそうですが,そうするためには,「頭が固まった人」であることを書くことが「逆効果」になることが,どうしてお分かりにならないのでしょう。
 
 dolceさんの矛盾は,中学生に読ませてもわかりますよ。

>誤解のないように断っておきたいのは、他人からそう言われること自体を気にするのではなく、他人がそう感じるような人間になりたくないということです。
>つまり、自分の評判を気にして生きていくということではないということです。

 他人から言われること自体を気にするのでないならば,

 私は「頭が固まってしまった人」にはなりたくない。

 他人が,私のことを「頭が固まった人」と言おうと言わなくても,関係ない。

 となるのが,「ふつう」では?


 「誤解のないように断る」内容が,誤解ではなく,本当のことを理解する助けになっている

 今まで何度となく繰り返されてきたことです。


 反論不可能な記事が続くと,教育の話とは全く関係のない話になる。

 今回は「花」でした。

 しかも,その記事が登場する理由は,ご自身が書かれているわけです。

>花やその他の作物などを育てたり、動物のめんどうをみて育てる人は、心の優しい人のような気がします。

 自分が育てている花の説明をするときに,こういうことを書く人が,

 「人からこういう人間だと思われたい」

 という欲求が,「羞恥心」を打ち消すほどに強いんだな,ということが痛いほどよくわかるのです。

 だから,その直後に,

>自分の評判を気にして生きていくということではない

 なんて書かれても,「え~」という反応になってしまう。

 こういう先生が,昔は本当にたくさんいました。

 言っていることと,本当の姿に子どもでも気づくほどのギャップがある。

 どうして,先生は,恥ずかしくないのだろう?

 ・・・・話をもとに戻しましょう。

*****************

 さて,頭が固まっている人の特徴は,
 
 たとえば,「誤解のメカニズムを理解しようとしない」ことにあります。

 繰り返しdolceさんが例に出しているものが,非常にわかりやすい。

>「25Wのスピーカーと80W」のスピーカーでは、そもそも「どちらの音が大きい」という発想がおかしい

 というのは,最大出力と音量の関係をよく知っている人の考え方です。

 そうでない人(ふつうの人)は,どのように発想するかというと,

 25Wのスピーカーと80Wのスピーカーのうち,大きい音が出せるのは,80Wのスピーカーだ。

 となるのです。

 こういう発想が「おかしい」と決めつけるだけでなく,dolceさんは,

>「25gと80g」ではどちらの音が大きいですか?という問

 と同じだと言う。

 ふつうの人が聞いたら,怒りますよ。

 これはアナロジーではなく,論理の飛躍です。

 こういう人間こそが,dolceさん自身が書いている「頑固な人」なのです。

>頭が固まってしまったというのは、頑固というイメージも抱かせます。
>よい意味で使われる場合は、職人が妥協を許さないでいい仕事をするような場合ですが、悪い意味で使われる場合は、間違いを修正しないとか、他人の言うことを聞き入れないなどの場合です。

 良心を抱いて読めば,dolceさんは自分のことを職人だと言っているにすぎない,それが言いすぎなら,スピーカーについて,私は詳しいですよ,と言っているにすぎないわけです。 

>「マイナス効果」というのも変です。
>「効果」というのは良い結果にしか使わないからです。

 辞書の上の意味だけが「正しい」として,「良い結果にしか使わない」というのも,

 「頑固さ」の象徴です。

 世の中のものごとで,そもそも,「良い結果しかない」ものが本当にあるのだろうか?

 という「思考」がはたらかないと,

 見えるものも見えなくなり,

 見たいものだけを見るようになり,
 
 見たくないものを見なくなるようになります。

 dolceさんが相手のことを「頭がおかしい」などと罵倒したりするのは,

 「マイナス効果」を狙っているわけです。

 相手に「マイナスの感情を引き起こさせる」ことが「望ましい結果」なのでしょうからね。

 このように,「マイナス効果」という用法自体にこめられた「意味」に対する思考をはたらかせず,辞書の意味だけを頼りにして「正しい」「正しくない」と判断する人間が,「頭の固まってしまった人」なのです。

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どうして言っていることとやっていることが違うのだろう?

 学校における道徳の授業が,逆効果になってしまっている一番の原因は何でしょうか。

 それは,教えている教師の側が,それを実践していないからです。

 教師の不道徳極まりない行為(犯罪ももちろん含めて)の報道がすべてではありません。

 日常的な教師の姿が,道徳教育を信頼性のないものに,つまらないものに,染めてしまっているのです。

 教育ブログにも,「わかっているはずなのに,自分がそれを実践できていない」典型のような人がいることがわかります。

 傍目から見れば,「自分のだめさ加減を自ら論理的に説明しているのに,そのだめな存在が自分そのものであることに気づいていない・・・自分が見ているものが,鏡であることに気づいていない」という哀れな存在です。

 これまでの道徳教育は,こういう「わかっているのにできない」ことの原因は未熟な「心」にあるとして,それを変えよう,強くしよう,改めさせよう,とやっきになる,そんな傾向があります。

 実は,これこそが道徳教育の最大の問題であり,道徳を教えることでむしろ状況が悪化している,ということに気づいた人は,さかのぼれば古代ギリシアにたどりつきます。

 ここで「わかる」「知る」「理解する」という知性と,「心」と,「行動」の関係に言及することはできませんが,教師が使っている「わからせることができた」「理解させた」という言葉がいかに軽いものであるかを想像してもらえれば十分でしょう。

 わかっていて,それが実践できる人と,わかっているのにそれが実践できない人の違いは,

 「人に教える」ということの意味のとらえ方でわかってしまいます。

 わかっているのにそれが実践できない人というのは,「知識をさずけた」=「理解させた」のに,それが実行できないのは,「心が未熟だからだ」などと,相手の「心」のせいにする。自分についても,「怠け心」「集中力の欠如」「魔がさして」「意志が弱くて」などと,やっぱり「心」のせいにする。

 こういう人が語っている「心」とは,自分の「知性の欠如」=「理解不足」をカモフラージュするための「道具」にすぎません

 だからこういう人が道徳教育を行うと,逆効果なのです。

 「知る」という作用は,つねに「知る対象」との関係の中で生じます

 「知る対象」がもっている固有の性質は,絶えず変化します。その変化する関係の中で行わなければならない行為が「知る」ということであり,「理解する」というということなのです。

 辞書を引いて,それで「理解した」つもりになっているような人間は,「知る対象」との関係が築けていないので,結局は「理解していない」ことと同じになってしまう。

 だから,「できない」のです。

 「知る対象」との関係を自ら断ち切る言葉が,「頭がおかしい」などの表現であり,永遠に「理解」にはたどり着けないのです。

 「知る対象」の変化に自ら対応できる能力を育てるのが本来あるべき道徳教育であり,「心」よりも「知性」をより重んじるべきだというのが,私の最近の考えです。

 「知性」は,机の上で本を読めば身に付くわけではなくて,絶えず変化する状況のなかで「実践し続けること」で豊かになっていきます。

 「知行不一致」などではない。「知性」の欠如である。これが,「言っていることとやっていることが違う理由」です。

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1分でも早く終わってほしい授業

 教師が,「気分がいい先生」「印象のいい先生」になろうとするために,「下手な授業を早く終わりにする」よう努力しなければならないのは,悲しいことですね。

>いつも時間に遅れてくる先生、それでいて延長するというのは最悪であることは、先生なら誰でもよく知っていることだと思います。
>これを時間通りに始めて、少し前に終る。あるいは、チャイムが鳴ったらいかなる場合も即、終わりにするという習慣にするだけで「気分のいい先生」「印象のいい先生」になると思っています。

 時間通りに始めるのは当然としても,「少し前に終わる」というのは,中学校ではやってはいけないことです。「いかなる場合も即,終わり」というのも。

 小学校と違い,中学校の50分の授業の密度はとても濃く,しかも最後の5分間は重要な「まとめ」の時間で,万が一,最も集中力を要するこのときに,隣のクラスで授業が終わってざわざわし始めるのは,とても迷惑なことだというのが一つの理由。

 小学校によっては,45分という時間すら,守られることがないところがあるようですね。

 それも,子どもに「気に入られるため」「ストレスを与えないため」に。

 チャイムが鳴ったらいかなる場合も即,終わりにする,というのは,子どもにとってマイナスの場合もあります。

 これが,二つ目の理由。

 特に,子どもの発言・発表中は。

 目で「途中で打ち切るよ」というサインを出し,とりあえず最後まで発言させて,簡単なまとめをして,終わります。「いかなる場合も」はダメです。

 結論があいまいになると,1週間に1回しかない授業では,学習の定着度に大きなばらつきが出てしまいますので,おそらく多くの教師の認識は,1分程度は伸びても仕方がないだろう,というものでしょう。

 授業間の「10分間」が,「休み時間」ではなく,「授業の準備時間」ときちんと意識づけられている学校では,次の授業に支障が出ない限り,「いかなる場合も打ち切る」ということはしないはずです。

 「打ち切れば」,生徒にとっては「気分がいい」,「印象がいい」というのは,集中できない,おもしろくない,ろくな授業ができていない,1分でも早く終わってほしいと生徒が願っている,そういう授業をしている教師の場合はその通り,あてはまることでしょう。

 「時間を守ることだけ」が大事な教師に,授業の質を追究するような姿勢が見られないのは,なるほどと思わされます。

 生徒が学びに熱中し,チャイムが鳴って,学習を打ち切るのに苦労するような授業をいつも展開したいものです。

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学級王国よりたちが悪い「音楽指導者」たち

 あいさつができていない学校が,「あいさつ運動」を展開したり,「気持ちのいいあいさつをしよう」という「目標」を掲げたりするのと同じように,

 適切な指導ができない人に向けて,「このように指導しよう」という目標なり指針なりが示される。

 目標と逆のことを想定すれば,それが「実態」になる,わかりやすいものです。

 その記事内容でストレスや寒気を感じさせることが得意のdolceさんから,「醜い指揮者像」の具体例を教えていただきました。

 オーケストラで悪しき「絶対的存在」となる顧問(指揮者)には,どのような共通点があるか,ご紹介いただいている「べからず集」から推測することができます。

 これは,学級王国の「悪しき国王らしさをもつ担任」とも重ね合わせることができる,かっこうの「モデル」です。

 そのまま使えるものもあるし,「裏返し」にすれば,「実態通り」になる,分りやすい「モデル」。

>(1)常に自分の方へ注意を集中させておく

 よそ見をしたら,叱られる,という意識を植え付け,指揮者(担任)からは決して目をそらさないように,指導する。

>(2)理由もなく授業を中止する

 子どもがなぜここで授業を止めるの?と不安になるようなことを繰り返し,プレッシャーをかけ,集中力を持続させる。

>(3)ことばを明快にすること

 明快な言葉で,子どもを叱る。だれの,どこが,どのような点で悪いのかを具体的に指摘する。

>(4)学習者を飽きさせない

 学習は,できるようにならなくてもよい。やったことにして,次に進み,飽きさせないようにする。

>(5)学習中に指導の仕方を変えない

 指導の方針は変えない。できなくても気にしない。できない子どもに配慮することはしない。

>(6)注意・叱り方は,国王らしく

 ①最初にミスしたら、その方を見る
 ②2度同じ所でミスしたら注意し
 ③3度ミスしたら叱る

>(7)思いやりを捨てる

 個人個人の人格は配慮しない。

 ・・・・・音楽の指導者(指揮者)と学級王国の担任は,とても似通ったものであることがわかります。

 学級王国の担任より指揮者のたちが悪いのは,演奏が始まると指揮者の存在は絶対的になってしまうことですね。演奏とはそういうものだから,仕方がないのですが。

 同調性圧力が強い学級集団と,同じ状況が生まれているわけです。

 もちろん,それは「悪い指導者」のもとでは,ということですが。

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小学校の女子がセクト主義に陥る理由

 中学校のすべての教師が同じようなイメージで使える言葉ではないかもしれませんが,私にはこれがぴったりくるので,「セクト主義」という言葉を使っていきます。

 「セクショナリズム」の方が,適切でしょうか。

 「縄張り意識,派閥意識が強い

 「排他的傾向が強い

 そういう集団づくりをする女子は,よく見かけられます。

 小学校から,女子は特定のグループでそのまま持ち上がってくることがあります。

 敵対するグループの女子を目の敵にして,悪口を仲間と共有し合って心の安定を図る。

 他の小学校から上がってくる生徒については,気に入った女子は早めに自分の陣営に取り込もうとする。

 セクト主義を目の当たりにしたことがあり,孤立に耐えられない女子は,少しでも「強い」方に入ろうと考え,結びつきを強くしていく。

 セクト内の結びつきはどうやって高まるのかというと,

 「敵対するセクトの悪口を言う

 「教員の悪口を言う

 この2種類が主流です。

 「そんなことを言うべきではない」なんていう空気を一瞬でも感じられたら「排除」されることを知っていますから,とにかくだれの悪口にも基本的には同調しなければならない。

 あの組織と同様,セクト内の「いじめ」ほど激烈なものはありません

 セクトの外の人間に対するいじめは,まだ,半分は「セクトの結束を固める」ことが目的だったりしますから,それほど強烈ではない

 セクト内部の同調性圧力の強烈さは,近くで見ていると本当に異常なほどです。

 これを粉砕するのが中学校における生徒指導です。

 多くの生徒は,部活動に熱中したりすることで,自然にセクトが崩れていき,空中分解するものですが,まだ中学校1年生くらいだと,責任感もないので「敵の攻撃準備」に余念がない生徒が見かけられます。

 この場合は宿泊行事でしっぽをつかむのが最善の策で,いかに自分の視野が狭かったか,独善的な人間がどれほど醜いかに直面させることができます。

 強きリーダーは,セクトの残骸にまみれた生徒たちを救済していきます。

 中学校としては,周囲の生徒も,教師も,けっこうエネルギーを要する作業です。

 これがもし,小学校時代にある程度,火を噴いていてくれたらと願わないでもないですが,やはり小学校は「一人親大家族」で,逆にセクトがあった方が全体のバランスがとれて,一見すると平和だったりするので,わざわざ自分が悪役になってセクト崩しをする勇気のある担任教師はまれなようです。

 問題なのは,どちらかのセクトに属してしまうような担任教師で,片方は完全な教師不信,大人不信の塊となって中学校に入学してきますから,この場合はやむを得ず,その小学校教師への苦情を聞いてあげることになります。

 小学校の教師は,たいへんですね。

 今日もたまたま,怒りながら言っていることが二転三転する担任に対して,勇気を出して「さっきと今と,先生が言っていることは違います」と言ってしまったら,また火に油を注ぐことになって,授業がつぶれた,という話を聞きました。

 クラス全員は,その小学校教師がおかしいことはわかっていても,それを指摘するともっとおかしくなるのが目に見えているので,みんな黙って聞いていたが,さすがに「言うのを堪えきれなかった」というその生徒(当時は小学校6年生)。

 教師がそういう態度に出るのだから,私たちに何を注意する権利があるの?

 という考え方のまま,中学校に上がってきてしまうのだけは,困りものです。

 セクトを利用しているような小学校教師がいたら,ちょっと考え直していただきたいと思います。

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私は心の優しい人です?

 そうですか。

 中学生たちが,農家の方から学んだことです。

 植物は,「花」や「果実」をみるだけではダメで,「下」をみることが重要である。

 「下」とは,「根っこ」のこと。

 人間も同じ。

 花とかつぼみとか,そういうものばかりに目を奪われているようでは,「人を育てる」ことは難しい。

 人に過剰なストレスを与えておいて,

 自分だけはストレスを感じないよう,植物に逃避する。

 動物や植物は,そういう都合のいい人間の姿を見て,あきれ果てているかも。


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dolceさんに質問があります ~そのリスク観について~

 dolceさんが最新の記事

 「人間は難しい」であつかっている「世界」の範囲に入っているのは,

 人間と,機械と,あとは何でしょう?

集合の概念図を書くと,どういうことになるのでしょうか?

 というのは,

>信頼性とは、予測したような動きをするということですが、唯一、予想したように動くとは限らないのが人間です。
>また、そこが人間の良さでもあり悪さでもあり、人間がまさに人間と言われる所以なのかも知れません。
>優れた経済学者が投資に長けているとも言えません。
>それは、投資の難しさを表しているとも言えますが、予測不可能なのは、人の心理が要素にあるからです。
>誰かの一言で、株も上がったり下がったりします。
>結局、投資のプロもアマチュアもトータルでの勝率は同じぐらいだそうです。
>どんなに経済学を学んだとしても、人間が介在する限り、計算しきれない部分があるのです。

>唯一、計算に入らない人間をどうするか?というのが、私にとっては課題でした。


 「予想したように動くとは限らない」「計算に入らない」ものが,「人間」だけだ,というのが,これらの文の意味ですか?

 どうして疑問に思ったのかと言うと,

 たとえば投資の場合,「想定外」「予測不可能」な部分は,一般的には「リスク」とよばれる範疇のもので,

 だれでも「想定」はできますが「予測」に限界があるものに「自然リスク」があるのは言うまでもないことでしょう。

 ある程度の予測が立つのは,火山の噴火,落雷,豪雪,津波等ですが,その規模までは難しい。

 日本で最も「こわい」のは地震で,それは突然やってくる,つまり,予測が立ちにくいこととも原因の一つでしょう。

 突然の停電で,今までつくりあげてきたコンピュータのデータがすべて無になる,そういうリスクもある。

 ですから,コンピュータという機械を使う場合も,さまざまなリスクを想定して,バックアップを定期的にとるなど,対策を講じておく必要があるわけですね。

 人為的なミスから油田で爆発事故が起こり,原油価格が高騰することもあれば,ストライキで生産がストップし,売り上げが落ちることもあるかもしれない。トップの犯罪で企業イメージが悪化して業績に影響が出る場合もある。

 社会リスクやモラルリスクを想定すれば,

 たとえば,犯罪を犯そうとする人間が機械を動かす場合,機械がその人間の想定通りに動いてしまえば,非常に効率よく,犯罪を遂行することができる。

 機械は,それを動かす人間次第だということです。

 オーケストラの演奏で,おそらく演奏会ごとに「弦が切れる」ような信頼性の低い楽器をもっている人はいないでしょうが,「弦が切れる」可能性はゼロではない。

 仮に「想定」はしていても,実際にそれが本当に起こると,予備があってもパニックになる子どもがいますね。

>唯一、計算に入らない人間をどうするか?

 という考え方の人は,「人間以外は何でも計算通りに動く」 「人間以外は何でも思い通りになる」

 なんて誤解をするおそれがあるので気をつけたいものです。

 さて,ここからは教育の話ですが,

>唯一、計算に入らない人間をどうするか?というのが、私にとっては課題でした。

>それで、私が出した答えは、ひとことで言えば人を束縛しないということでした。

 という点ですが,ここで大事なのは,

 「計算」とは何であったのか,ということです。

 もう少し,具体的な言葉で表現できれば,「指導力がない」状況が明らかになると思われます。

 dolceさんには,

 「人間を思い通りに動かしたい」というゆるぎない欲求があって,

 せっかく「自主性を重んじる」という教育的な配慮を見せたのに,

 最後には「忠誠心を高める」ことがねらいになってしまうという点が,根本的な課題であることに気づいていただきたいと思います。

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教育における「想定」のマイナス効果

 地震の想定,景気の変動の想定,集客の想定・・・・・

 それらが,単なる「想像」ではなく,一定の科学的根拠に基づいて行われてきたものであっても,「想定外」が起こることがある。

 東日本大震災は,その典型的な例でした。

 このような「想定」に対し,非常に「甘い」と言わざるを得ないのが,

 教育,指導における「想定」です。
 
 中学校における「旧」指導要領の場合,

 たとえば社会科の地理的分野について言えば,

 これは教員が指導できるという「想定」が誤っていたと考えられます。

 指導要領の趣旨通りに指導することができない教員がいたことは確かですが,

 この人たちの言い分は,

 「生徒には学習指導要領の趣旨通りの学習はできない」

 というものでした。

 趣旨通りに,学習の目標を実現するための指導を行って,それで

 全員が低い評価になるのであれば,それは正しい指摘だったかもしれませんが,

 「できないからやらない」というのが教師の側の言い訳でした。

 近くに中学校がある方は,中学1年生か2年生の子どもたちが,学区域程度の地域を調査している様子をご覧になったことがあるでしょうか。

 新学習指導要領では,中学校2年生の2月か3月に実施するのが一般的になります。
 
 来年以降,ご注目ください。もし生徒が調査を行っていないようであれば,

 教師が責任を果たしていないことになります。

 生徒に責任を転嫁する教師たちの態度は,

 いわゆる「ゆとり世代」を「無責任世代」「当事者意識の希薄な世代」に育て上げた可能性が指摘できます。

 教師の力量に対する「想定」が,とても甘いのが日本の教育の課題です。

 一方で,こういう言い訳をする教師たちも多いでしょう。

 「入試のための指導が必要だ」

 ・・・・つまり,「入試で点数をとれる子ども」を想定にした指導をいつも行っている,ということです。

 学習指導の「想定」は,将来のためではなく,高校受験に合格するという超目先の目標のためになされているのが現状でありましょう。

 そうすれば,当然,いつも「目先のことを優先して行動する」人間が増えてもおかしくはないでしょうね。

 環境問題を考える,という場合でも,昨日,こういうニュースがあった,などと着目させることは大事ですが,これは50年先,100年先,いえ,はるか後世の地球のことを考えなければならないわけですから,さまざまなスパンで自分の行動指針を考えさせる習慣がないと,

 「節電で今年の夏を乗り切る」

 などといったことで一杯いっぱいになってしまうのです。

 教育における「想定」のマイナス効果は,

 生活指導の面でもあげられます。

 「こういう指導をすれば,今までの子どもたちはこうなった,だから,同じことを繰り返す」

 ような指導は,「ぶれのない教師の姿勢をみせる」という効果もありますが,

 生徒一人一人に焦点をあてた場合には,そうもいかないことを「想定」する必要があります。

 そして,その「想定」を上回るほどの「拒絶反応」をする子どもが現れたとき,初めて教師は自らの指導の課題に気づいたりするのです。生徒は「我慢」しますから,「拒絶反応」までは出ないのがふつうです。
 
 「想定」は,あくまでも「想定」であること。

 この当たり前のことを自覚して,指導にあたれば,「想定外」の場面であわてて判断を誤ってしまうようなことが避けられるようになるでしょう。

 教育における「よい想定」は,それを上回ることを目標に,指導すべきです。

 また,「悪い想定」は,それが起こらないように努力することは当然ですが,いつ起こってもおかしくない,もっと大変なことが起こるかもしれない,というのが「正しい想定」でしょう。

 教育失敗学は,教師の力量不足や使命感の欠如によって起こる可能性がある「悪い想定」の情報を提供し,教育創造学は,教師の力量不足や使命感の欠如を補う機能を学校現場につくりだし,「よい想定」(基本的には,学習指導要領に示された目標を達成した状況)を上回る児童生徒を増やしていく方法を追究していく使命があると自覚できます。もちろん,「補う機能」とは,塾等の教育産業のことではなく,子どもたちが本来もっている「成長力」を引き出すことです。

 「教えるプロ」ではなく,「引き出すプロ」「育てるプロ」が,教育のプロである,といったイメージに近づくことが,教師としての成長の第二段階にあるというのが,私の「想定」です。

 「教える技術の向上」を追い求める教師たちが,「教育のプロ」になりきれていない現状も,考慮に入れた「想定」です。

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わずかな希望の光が見えてきた

 忠誠心をもたせるために,自主性を重んじる。

 何だか矛盾しているように思えますが,

 やる気のない生徒へのカンフル剤としては,効果があるでしょう。

 よほどがんじがらめの指導をしてきた人間が,

 それまでの過ちを認め,活動の主体が生徒であることを宣言する。

 一時的な効果はあると考えられます。

 しかし,これは「忠誠心を高める」ための指導ではなくて,

 あくまでも「活動意欲を高める」ための指導である方が「教育的」でしょう。

 忘れてはならないことは,

 「自由に休みをとる生徒」をよしと思わない生徒がいることですね。

 「忠誠心があるのなら,休むなんてもってのほかだろう」という意見があってもおかしくないので。

 ・・・・結局,そういうふうに思わせることがねらいだった???

 ************

 第二関門は突破できなかったのですが,先に第三関門がくずせそうな雰囲気になってきました。
 
 指導は難しいのです。

 もしdolceさんのこのような言葉を目にしたら,子どもたちは唖然とするでしょうね。

 そういう「難しさ」の自覚がなければ,教育の仕事なんてできません。

 「機械とは違う」なんて当たり前のことですが,そのことすら気づけない人が教育関係者にいる中で,やや明るい光が見えてきました。

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dolceさんの「情報教育」観はいつのもの?

 教育現場への誤解

 教育に情熱をかける教師への誤解

 学校教育への誤解

 教育観への誤解

 を招くおそれのある,dolceさんの記事を指摘するためにあるブログのようになってしまっていますが,次々にあふれ出てくるので仕方がないでしょう。

 情報教育については,文科省が最初の「手引き」を出してから20年以上が経過しています。

 その見直しが行われたのが,10年前です。

 この間,私も実践をしながら,その効果や課題についていろいろ考えてきました。

 ただ,

>大人にこの質問をすると、子どもはパソコンに強いと言う人が多い。
>どうして、そう思うのだろう。
>私はそう思ったこと(子どもはパソコンに強い)と思ったことはない。
>むしろ、大切な仕事に使うパソコンは子どもに触らせないようにほしいと言う。
>もちろん、パソコンの持ち主が、パソコンをどのように使うかは自由だが、サボートを依頼される立場としては、滅茶苦茶にいじられたパソコンは非常に面倒だ。

 のような記事があると,

 「学校ではどのような教育をしているのか?

 と疑問に思われる方もいるでしょう。

 まずは仕事用のコンピュータを子どもに触らせない,というのは当たり前のことで,「滅茶苦茶にいじる」というのは指導力がない教師が教えるからそうなるだけのことです。

 まず,「子ども」が何歳から何歳までを想定しているのか,わかりにくいですが,

>平気でいきなり電源スイッチを切ったりする

 というと,小学生低学年のような気もしますし,

>子どもがパソコンに強いと言っても、EXCELの簡単な計算ぐらいは直感でわかるようになるかも知れないが

 というと,中学生の話をしているような気もする。

 しかし,中学校では技術で学びますから,「平気でいきなり・・・・」はない。教師に指導力があれば。

 dolceさんが使っている「パソコンに強い」という言葉の意味は,以下の部分から読み取れます。

>会計に使おうということになれば、財務知識も必要であり、一般の小中生では無理だろう。
>もちろん、そういうことにも太刀打ちできる小中生が出てほしいと思うが、もし、そのような小中生が登場するようになったらも真の意味でパソコンに強い子どもの登場ということになるだろう。

 要は,財務会計ソフトが使えたり,マクロを作れたりする子どもが,「パソコンに強い子ども」ということ。

 教員経験者には,一般社会の常識的な言葉が通用しない人がいる,その典型例です。

 dolceさんには,その自覚もおありになる。

>子どもはパソコンに強いと言う人が多い。
>どうして、そう思うのだろう。
>私はそう思ったこと(子どもはパソコンに強い)と思ったことはない。

 それは,dolceさんの独自の「パソコンに強い人間」観であり,少なくとも「常識的」な見解ではありません。

 ここには,dolceさんも「当然のことだ」と同意されるでしょう。

 課題は何かというと,dolceさんは,「平気で電源を切る」レベルと,「マクロを作る」レベルの間のレベルを見ようとしない。

 小中学生の場合,コンピュータはアプリケーションを動かす「道具」であって,「それ自体を学ぶ対象」ではないのです。

 もし,「設定を変える」などの操作をして,「基本ソフト」の仕組みや「パソコン」そのものの仕組みを真剣に知ろうとする子どもがいれば,復旧が難しいことになったとしても,エジソンさんたちが天国で微笑んでくれるでしょう。

 一般社会の人が「子どもはパソコンに強い」と思うのは,

 dolceさんが言うような,

>なぜ、子どもがパソコンに強いと思うのだろう?
>それは、子どもはパソコンを大胆にいじりまわすことにあると思う。

 ではなくて,

 習熟が早いこと

 新しい学習に抵抗なく入れること

 実際に学習で活用できていること

 などを指して言っているわけです。

>道具として使うということであれば、それでもよいと言えるが、少しは理屈も知らないと、パソコンにとってよくない操作をしていることに気がつかないということにもなりかねない。

 子どもがコンピュータを使っていく上で,ネットならその中身に問題があることはあっても,コンピュータそのもの自体によくない操作をする,というのは,教師に指導力があれば避けられることです。

 今,私が学校で使っているコンピュータは,授業が終わった後,一度,授業が始まる前の状況に戻る仕組みになっています。そうすれば,万が一,生徒が勝手にソフトをインストールなどをした場合,電源を落とせば自動的に削除されることになり,安心して使えます。

 コンピュータというのは,道具として使えれば,一般社会に出ても,大きな問題はないでしょう。

 エクセルのマクロをくんでくれる人は,学校に一人いればいい,それくらいのものです。

 この「少しの理屈」を学ぶのが技術の時間などですが,こわいのは,dolceさんが想定しているその範囲です。

 dolceさんのような「パソコン」大好き人間を育てるためには,コンピュータを滅茶苦茶にいじる子どもを認めるべきだと私は考えています。

 音楽教育にしろ,情報教育にしろ,

 「敷居を高くする」

 のが,dolceさん流の教育方針なのですね・・・・いえ,もう現場にはいないわけですから,

 「自分はすごいぞ」と誇示しているに過ぎないと,考える方が自然でしょう。


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犠牲が大嫌いなdolceさんが忠誠を説く不可解

 「経営のポイントは忠誠心

 というタイトルだけ読むと,いつの時代の話か?と心配になります。

 以下の解説をお読みください。


>世界大百科事典 第2版の解説(引用させていただきます)

>ちゅうせい【忠誠 loyalty】

>自分より上位にある人物,集団,理念等に対する尊敬の念を伴った献身と服従の態度。場合によっては,対価をまったく期待せずに,全人格をあげて一方的になされる奉仕と自己犠牲という形をとることがあり,日本の武士道の説く忠誠はこれに近い。個人に対する忠誠は,封建時代における国王や諸侯への服従に典型的にみられ,社会的結合の根幹をなしていた。近代では軍隊をはじめとする官僚制組織内の部下の上級者に対する態度にみられる場合がある。


 次に,「経営のポイントは忠誠心」という記事を読みましたが,この記事に書かれた内容の「本質」が,

>仕事をしていても、ただ仕事をしていればよいのではなく、仕事の密度が大切なのだ、ただ長時間仕事をしていればよいのでもないし、身が入っていなければ良い仕事はできない

 というものだと解釈するのは,記事からは不可能だと思われます。

 仕事に身を入れされるために,忠誠心を高めさせる,という発想自体がおかしいことは,上の解説から明らかなことです。

 上下関係の良しあしですぐに仕事の密度,時間,真剣度が変わってしまうような会社は,すぐにつぶれてしまうでしょうね。

>社長の人がらにひかれて、この社長のもとで働きたいと思っていたわけです。

>正社員を多くして業績の上がった会社もあります。
>それは、正社員になれたことで、人は会社のために働こうとか、人を大切にしてくれる経営者のもとで一生懸命働こうという忠誠心が高くなったことが原因です。

>他界されたが、私が名校長と思った人も人の心がよくわかった人だと思いました。
>先生たちを大切にしたので、先生たちはかえって熱心に仕事をしたのです。

 待遇が良くなること,管理者に思いやりがあること,これで,忠誠心が高まる。

 そういう話と解釈するのは誤りなのでしょうか?
 
>しかし、ここでも勝手に、校長への忠誠心と解釈を決めつけたり、人間関係がどうのこうのとまるで見当違いのトンチンカンを論じている人がいました。

 「忠誠心」の話なのですから,dolceさんが例を挙げているように,「人間関係」が重要であると解釈するのがふつうなのでは?
 
 それは,「見当違い」なのでしょうか?

******************

 待遇をよくするとか,やさしい管理者であるとか,そういうことではなく,

 「自ら学ぶ力」を引き出すのが,指導者としては大事なのでは?

 学校教育では,「集中力を高める」ために,様々な工夫をするわけですが,一番よいのは,「優れた教材」を用意することです。
 
 「教える」ことばかりに目を向けるのではなく,子どもが「学ぶ」ことに目を向けるようにしなければなりません。

 教育実習生は,3週間で,少なくともそのことに気づいてほしいと思います。

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部員の忠誠心を高めるために「休む権利」を与えるすばらしい?顧問

 dolceさんの興味深い指導理念を拝読させていただきました。

>だから、経営のポイントは、いかに忠誠心を高めるかということだと、私は思うのです。
>私は会社経営をしたことがないので、会社において経営の実践をしたことがありません。
>でも、部活動でこういう考えを少しでも取り入れて運営をしてみました。

 
 誤っていたら,おそらくdolceさんが添削してくださるので,

 私は私の解釈を記してみます。

 部活動の顧問として,「経営」していくためのポイントは,

 部員の「忠誠心」をいかに高めるか,である。

 会社経営で忠誠心を高めるための実践をしたことはないが,部活動でやってみようと思った。

>1.月一回は、生徒たち自身の手でリクレーションをすることができる

>2.行事に差し支えない限り、ある回数は自由に休みが取れる

>3.決められた休みの権利の他に、休みたいと思った時は、申し出て、部員の半数以上が承認してくれたら休むことができる

 など、生徒自身の権利を拡大しました。

 結果は、練習に熱心に取り組むようになり、練習の密度、能率が高まりました。

 私がこの「忠誠心向上プロジェクト」から感じる最初の印象は,

 「それ以前はろくな指導をしていなかった(されていなかった)のだな

 ということです。

 「遊ぶ機会を与えたり,休む機会を増やせば,やる気になる

 というのは,まさに,小学校の教師の発想そのものですね。

 小学校の4年生くらいまでは,これが通用するのでしょう(荒れた中学校なら,3年生まで通用します)が,これで「やる気」がでる,というのは,よっぽどのことです。

 「遊ぶ機会」や「休みの回数」を増やさないと,やる気にならないというのは,

 部活動に生徒が熱心に打ち込んでいる学校では,あり得ないことです。

 むしろ,熱心に活動したい生徒にとっては,「とんだ迷惑」です。

 こういう「ルール」が,「守らなくてよいルール」なのです。

 一定の回数まで自由に休める上に,さらにそれ以上の休みをわざわざ「部員全員」を集めて「投票」を行い,「過半数」がとれたことを確認する,なんて面倒くさいことをするような部活動が,「やる気を高める」工夫だというのは聞いたことがありません。


 部活動の練習は自由に休めるのに,それ以上の休みを求める部員の休みを認める・認めないを決定するための会議?には,全員が召集される,というしくみは,おかしいとしか言いようがありません。

 引用した部分の話の脈絡からすると,

 「休みをくれる管理職がすばらしい」「そういう管理職のもとではやる気がでる」

 「体調が悪いときに快く休みをくれない管理職はとんでもない管理職だ」

 ということを言いたいために,

 「自分はすばらしい管理職」と同じような「忠誠心を高める」指導が実践でき,

 そのおかげで

>練習に熱心に取り組むようになり、練習の密度、能率が高まりました

 と自慢したい,ただそれだけの話だと思われるのですが・・・・・

 なぜ,それまで,練習に熱心に取り組めなかったのか,その理由を考えてほしかったところです。

 ちなみに,こういう発想で教育をする人の実践によって,崩壊していった学級・学校の具体的な例は,多くの公立学校の教師はご存じのことでしょう。

 「超」短期的には成功したように見えても,「中長期的」には,「権利の要求」がエスカレートしてきて,どうにもならなくなる・・・・・国の政治にも同じようなことが言えるかもしれません。

 余計なことですが,仕事の能率を高めるために,20分程度の「昼寝」を許可している会社があるそうです。

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人にモノを教えるのには、3倍知っていればいいというわけではない

 知っていれば,教えられる,というのは,教育実習の大学生が陥りがちな誤りです。

 授業をしてみれば,人の10倍,いえ,100倍知っていようが,

 「教える」ことができない人はいるのです。
 
 でも,現役の教師にも,そんなことすらわかっていない人がいる。

 dolceさんは不適切な言葉を罵倒のために駆使する一方,すばらしい言葉を残しているという一面もあります。

>教える立場にあるものとしては、教えることは自分の趣味ではない、権威のためでもない、子どもの将来に影響を与えることの責任がある
>ということを常に感じ、人にモノを教えることの恐れを常に忘れないようにしなければならないと自戒しています。

 その通りです。

 加えて,本当は,どういう人間に「教える」資格がないかも,よくわかっていなければならないはず。

 私としては,「教える」ということの意味をわかっていない人には,

 「教える」仕事についてもらいたくない。

 「モノを教える」という程度の発想なら,3倍知っていればできるかもしれない。
 
 しかし,教育は「モノ」だけを教える仕事ではないのですね。

 いえ,教育は「モノを教える」仕事ではないのです。

 では,何を教えるか。

 知識が乏しくても,「教える」ことはできるのです。

 人間が機械とは異なっていることがわかっていないで,

 何かの知識があるから,「教えることができる」わけではないのです。

 おそらく,そういうことがわかる教育を受けてこないと,

 「人の3倍知っていないと教えられないぞ」という恫喝をするような人間になってしまうのですね。

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「教育失敗学」博物館の殿堂入り

 子どもが許せない,「醜い大人」の典型的行動。

 誤りを指摘され,その場限りの「謝罪」を行う。

 しかし,大人は「ここだけはふれられない」という部分については,

 「だんまり」を決め込む。

 どうでもいいことについては,素直に謝る。

 しかし,「これにふれると自分のメンツに傷がつく」という部分については,

 子どもの目から見ると信じられないほど頑なに

 「言及することすら拒む」。

 私がその姿に,「大人の醜さ」の典型を見る人が言っているのは,
 
 「どうでもいい『間違い』はいくらでも訂正する」が,
 
 「自分が全否定する相手への言及は,どんなことがあっても訂正することはない」

 こういう姿が大人への不信感を増幅させ,それを言っている人以外の大人も毛嫌いする子どもをつくりだす,

 学校現場ではありがちな失敗のことです。

 謙虚さを演出したそのときに,

 繰り返し指摘されている「問題」に「いっさいふれない」態度。

 無視できる,その堂々たる,「醜い大人」らしい姿勢。

 教科書に載せてもいいくらいの,「サンプル」です。

************************

 事実

 Who・・・・誰が       dolceというペンネームの元教師が
 Where・・・何処で(に)   自分のブログの
                 「何か子どもを相手にしているような」という記事の中で
 When・・・・いつ       2012年5月12日20時2分に公開した
 What・・・・何を       
     「他にも、おかしいと思える発言はたくさんあります。 
      頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。」
     と記した。

 予想

 Why・・・・なぜ       人権感覚がないから
                     相手を罵倒したいから
                     どこが問題かが理解できないから
                     日常的に使っている言葉だから

 事実

 How・・・・どのように   

     その発言は不適切だから削除してほしいというお願いを
    無視する態度をとり続けている。


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教師は,校長への忠誠心ではなく,子どもへの教育愛で動く

 本文に何も言葉を必要としないようなタイトルになってしまいました。

 dolceさんのような教師がいると,校長は本当に気の毒です。

 「私はあなたに忠誠心を覚えない。だから,・・・・・

 「仕事をしない教員が悪いんじゃない。教員に,忠誠心を抱かせない校長が悪い。」

 「子どものために,働きたい」というのが教師としての「やりがい」ではなく,

 「校長のために,働きたい」という忠誠心が,教師の力の源になっているとしたら,指導力不足教員の責任はすべて校長が負うことになりますね。

 体調を崩してしまった先生は,とても気の毒です。

 子どもの前に立てなくなってしまうのですから。

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dolceさんらしさにあふれた教員の職場の人間との関係

 dolceさんが「頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。」のような,不適切な言葉遣いについて反省することなく,無視を決め込んでいる人間だとわかっていても,こういう人が教育現場にいることで,子どもも周囲も大迷惑していることを自覚症状のない人に知ってほしいので,記事にしております。

 今回は,私のブログに寄せられたコメントを無断で全文引用して,また,「教育に情熱をかける教師」とは全く関係のないズレた揚げ足取りをされているので,どこが問題なのかを明らかにしておこうと思います。

 
>この人は先生で、しかも理科を教えている人だった。
>もちろん、言っていることは間違っている。
>理科の先生が、これではまずいと思うのだが、恐らくこの人は、よほどのことがない限りずっとこのままで行くんだろうなという気がした。
>学校というところは、いろいろな教科の先生が集まっている。そして、ようだ。
>特に、プライドの高い人にはモノが言いにくい。
>だから、例に挙げた理科の先生の場合は、教師としての経験は20年以上あって、自他ともに認めるベテランという地位にあるので、自分の知識に疑問を持つこともないし、他人も口出しをしない。
>いや、実は、私は口を出してしまったので、以後すっかり嫌われるようになったという苦い経験がある。
>もっとも、その人に嫌われたからといってどうと言うことはない。
>むしろ、ああいう人にはなりたくないと思うようになった。


 批判されたくない人間と,批判したくない人間が教育現場にそろっていると,学校は決してよくなりません

 これが,最悪の組み合わせです。

 「何でもあり」の職場になってしまうのです。


>教科が違うと互いにその領域を犯さないようにという暗黙の了解のようなものがある

 のを払拭するのが,校内研究です。

 授業実践等の課題を指摘できない校内研究は,やるだけ時間の無駄です。

 こういう学校では,「学校評価」もほとんど信頼性のないものと「評価」されるでしょう。


 dolceさんの,教師としてのレベルは,

>嫌われるようになった=苦い経験

 であり,

>ああいう人にはなりたくない

 で終わってしまうところに象徴されています。

 もし,「教育に情熱をかける教師」であるなら,少なくとも相手のプライドを傷つけないように配慮しながら,伝えたいことを伝えるべきなのです。

 「嫌われる」ことを避けるために意見を言わない・・・・また,

>コミュニケーションなんかとっていませんよ。コミュニケーションをとるつとめなんてありません。
>世の中で、だれかが間違っていたら、いちいちそれを正す(教える)つとめなんて、ありませんよ。

 のような,同僚の話を「世の中のだれか」にすり替え,責任の度合いを濁す,こうしたパターンを繰り返すdolceさんについて正しく言えることは,

>自分が間違っていても,それを正すつとめはない

 という絶対的な信条をお持ちであることです。

>「頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。」

 という表現は,間違っていない,だから,削除しない。

 そういう信念もお持ちなのでしょうね。

 今回もわかりやすい,教員の典型的な「逃げ」の具体例を示していただいて,ありがとうございました。

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【特別公開】 中学生の発表から,小学生が学んだこと(お手紙より)

 以前に,私の学校の中学生を引率して,小学校を訪問し,3~6年生に調査内容を発表させたことを書きました。

 そのときの感想文を小学生が寄せてくれたので,少しだけ,ご紹介します。

 小学生が,「発表活動で心がけたいと心から思ったこと」が記されています。

**************

 私は,Dグループの説明を聞きました。

 Dグループは,かんたんにいうと分かりやすく,楽しい説明でした。

 どこがよかったというと,私は3年生のとき「お茶」のことを調べましたが,歴史などではなく,「お茶をつかったスイーツ」でした。

 その一方で,中学生の発表は,自分の疑問から,それず,今話題のことやインタビューしてただのせるだけでなく,3年生でも分かるようなかんたんな説明にしてありました。

 きちんと,相手につたわっているかたしかめたり(『ここまでは,分かったかな?』とか),

 私たちの考え,聞いて思ったことも,話す場所・時間をくれたりして,

 私たちも自分から発表に入れてもらってる感じがした。

 そこが,中学生らしい発表のしかただったと思います。

 そして,その発表を聞いた私は,あらためてお茶のおいしさ・よさ・色・入れ方・においを知り,私はもっともっとお茶を好きになれました。

 ほかの県からいらっしゃったのに,

 ○○町に住んでいる私でさえ,

 また好きになれるくらいの発表でした。

 みんな明るくて,知らない子にも,

 「あっ,そうだね」「あっそうなんだ」と返してくれました。

 その会話で,私たちも中学生の方々もあらたな「発見」をしたんじゃないかと思いました。

 私は,このようなすばらしい発表を聞き,学校の先生方,お話をしてくれた中学生の方々にお礼をしたいと思います。

 ありがとうございました。

***************

 私は,掲示とタブレットの発表を見て,掲示の方では,紙しばい風にして,わかりやすく説明してくれました。

 私は紙に書いたことを言っているけど,中学生はアドリブで言っていて,その人その人に合った説明をしていてまねしたいです。

 資料は,一つなんだけど,いろいろ(書いていないこと)言っていてすごいと思いました。

***************

 たくさんの資料があり,アドリブで,話に合った資料を出してくれてわかりやすかったです。

 時間を考えて,みじかくしたり,みんなに(4,5,6年生に)分かるように説明していて,まねしたいです。

 おどおどしている私たちに,やさしく話しかけてくれたり,はずかしがらず笑顔で発表していてすごい,ぜったいまねしたいです。

***************

 (前半略)

 (お茶の)入れ方は,ぼくも知っていましたが,もう一度発表してくれたおかげで,忘れてしまっていたことを思い出して今日この入れ方でお茶を入れてあげました。そしたらみんなが「このお茶いつもとちがうね」と言ってくれました。まだぼくがお茶を入れたのは,家族のみんなには,まだ秘密です。

 次は,お茶の歴史です。ぼくは,今日はじめてお茶の歴史を知りました。ぼくは,このいい話を聞いて,今でもお茶の歴史は,わすれていません。ぼくはこれを家族に話してあげました。

 そしたら・・・おじいちゃんは,「おー」,おばあちゃんは「へ~」,おかあさんは「へ~そうだったんだ,このお茶にもそんな歴史があったんだね~」と,みんなこたえてくれました。これもわざわざこの○○町にきてくれて,しかもこんなにくわしくお茶の話しをもってきてくれました。大きな画用紙だけじゃなく,タブレットとかパソコンでもしっかり伝えられるんだなあと思いました。

 そしておわかれの時,ぼくたちが心をこめて作ったパンフレットをわたし,少しさみしくなりました。でもまた会える時がくると信じて,また会えるときがきたら○○の人たちよりもっと話し方,伝え方をみがいて,発表したいと思います。

*******************

 たった2時間の訪問でお別れとなりましたが,小学生にとっても,中学生にとっても,私たち教師にとっても,決して忘れることのない,貴重な時間となりました。

 こうしたことは基本的に本ブログではご紹介しませんが,今回は特別です。

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子どもの立場を尊重しない人間の言葉

 dolceさんという方は,教育に関して,私とことごとく価値観が異なっているので,こういう方が一般的なのかどうか,とても心配になることがあり,この場をお借りして発信しています。

 取り越し苦労であることを強く願っています。

>学校というところが、他の世界(社会)と違っているところは、互いに立場を尊重する大人以外は、みんな子どもである。
>これは、お山の大将にもなりやすいと言えないだろうか?

 こういう言葉が書ける人というのは,

 私の感覚では,

 子どもの立場を尊重することができない人ということなのでしょう。
 
 だから,子どものために教員が犠牲になるなど,許されない,などとも書けてしまう。

 しかし,学校というところは,本当にそんな場所なのでしょうか。

 私なりに表現すれば,

 学校というところが,他の職場と違っているところは,大人と子どもが,互いの立場を尊重しながら,生活している場所である

 ということです。

 家庭という場は,あまり「立場の尊重」ということは問題になりにくい。肉親というものは,そういうものでしょう。

 学校という場は,「肉親」でもないのに,「立場」として,「肉親」が言うべきであるようなことを言う。

 そういう「立場」を子どもから尊重してもらわないと,「おまえ,他人のくせに,偉そうなこと言うな!」で先に進めなくなってしまう。

 逆に,子どもの「立場」を尊重してあげないと,たとえば家庭で苦しい目にあっている子どもなどに,さらに追い打ちをかけるような言葉を発してしまう恐れがある。

 dolceさんの言うような,「大人が互いの立場を尊重する」職場というのは,

 「他人の学級経営に口出ししない

 というような小学校特有の悪癖を私は想像してしまうのですね。

 だから,本当に周囲の人は,苦労したと思います。

 「超能力」は必要ないと思いますよ。ふつうの「想像力」があれば。

>どういうわけか、人間もそこそこ年を取ってくると、権威のようなものを欲しがる人もいるようだが、私は断じてこのようにはなりたくない。

 dolceさんは,中身にふれようともしない本の表紙を,なぜブログの記事に貼り付けるのでしょうかね。

 それは,単純な話。

 「権威のようなもの」を欲しがっているから。

 「相手を,こきおろしたい」・・・・その欲求が,すべてを台無しにしてしまっていることに,気づかせてあげる親切な人が,今までいなかった。

 本当にお気の毒なことです。

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これだから教員の常識は社会の非常識だと言われるのですね

 「逮捕」された小学校教諭のように,実名で報道されると,「教え子」たちの心の痛みを想像してやりきれない気持ちになります。

 どうして行動面での,「常識的」なブレーキがきかないのでしょうか。

 教員の犯罪は,常識から考えて,「まさか」というレベルのものがよく起こっています。

 もう,そういう教員がいる,というのが「常識」になっている,ということなのかもしれません。

***************

 教員や元教員だった人の中には,自分の権利の保障を第一に考え,その実現のために,自分の職場としての学校を,より働きやすいものにしたいと訴える人がいるんですね。

 憲法を擁護する義務を負う立場であることよりも,憲法によって擁護される立場であることを強調する。

 このことが,教員の,公務員としての質の低さを露呈していることに気づけない。

>教育行政の先頭に立っている人が、国の代弁者なわけです。
>だから、現に働いている人、特に何らかの肩書きのある人、日本国憲法をどのくらい知っていますか?
>日本国憲法第25条1項
>すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
>いつも、上から目線のあなたは、当然知っていますよね?
>先生は零戦に乗った、特攻隊ではありません。

 何が言いたいのかよくわからない方も多いと思いますが,

 簡単に言えば,「教員の権利を保障しろ」です。

 しかし,公務員が「率先して」こういう発言をするのは,どうかなと思うのですね。

 というのは,第25条も含め,日本国憲法は,

 第99条[憲法尊重擁護の義務]

 天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 というものなのです。

 簡単に言えば,憲法には,国民が,公務員などに守らせたいことが書いてあるのです。

 それまでの反省に立って。

 たとえば,犯罪を起こす教員たちには,国民が投げかけている,色あせることのない「声」だと受け止めてほしいのです。

 公務員としては,自分のことは,国民に「奉仕」したあとの話にしてほしいのです。

>国には憲法というものがあります。
>憲法は国自身が決めたものです。
>だから、国が憲法違反をするのはもっての外です。
>国という生き物はいません。
>国といいますが、実際に活動しているのはひとりひとりの人間です。

 ここもやや不明瞭です。

 憲法の前文を読んで下さい。

 憲法は「国自身が決めたもの」です?

 この「国」は「政府」という意味でしょうか。
 「政府」が憲法違反をするのはもってのほか,というのは分かります。

 しかし,憲法は,「政府」が定めたものではなくて,日本国民が確定したものです。

************** 

 dolceさんという方は,「先生が子どもの犠牲になるのはおかしい」という持論を,

 組合の教員の一部が非常に熱心な「教え子を二度と戦場に送らない」という信念を少しもじって,「私は二度と戦場に行きたくない。命を捨てるのはまっぴらだ」という発想に立ち,

>先生は零戦に乗った、特攻隊ではありません。

 というたとえを使われています。

 この人は,「犠牲」と聞くと,イコール「国のために死ぬこと」と理解する。

 そして,「学校に通ってきている子どものために死ぬなんてまっぴらだ」という趣旨の発言をしてしまう。

 「死ぬこと」と理解してもらったとしても,

 子どもをかばって命を落とすような人の「使命感」や「責任感」は,理解の範囲外ということなのでしょう。

 これは蛇足ですが,憲法第25条については,国の社会的使命として,

 「国は,すべての生活部面において,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ことが示されています。

 dolceさんの場合はふれてはいけない部分もあるのでしょうが,教員のような公務員は,給与面だけでなく,福利厚生の方まで本当に「甘やかされている」存在なんですね。それで,墓穴を掘る。

 「健康で文化的な・・・・」について求めていることの次元が違います。

 どこまでもズレを強調したいdolceさんには脱帽です。

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教師は子どものために自らを犠牲にするもの

 公務員が「全体の奉仕者」になっていないのは,何も日本だけではないかもしれません。

 「経済的に安定しているから」「健康で文化的な生活が送れそうだから」「転勤がないから」

 などという,「自分の都合」だけで公務員になるような人間を,採用の段階でシャットアウトできる仕組みをだれか開発してくれないでしょうか。

 でも,採用された後にがらっと変わってしまうような人もいるので,悩ましいことです。

 私が書いた

 魅力のある学校とは,どんな学校か?

 それは,子どもが活き活きとしている学校であり,そのために教師がひたすら尽くしている学校である

 という内容と関係があるのかないのかわかりませんが,こう言っている人がいます。


>教育関係者の中にもバカがいて、教師は子どものために自らを犠牲にせよなどと言う者がいる。


 私のことかもしれないので一言,書かせていただくと,

 教師は子どものために自らを犠牲にするものです。

 そういう場面になれば。

 それは,当然のこと。

 「犠牲」がテーマになっている音楽を演奏したことはないのでしょうか?

>子どもの幸せを守れるのは、大人しかいない。

>学校においては、教師がそれを行なうものだと思う。

 子どもの幸せを奪っている教師がいるのに,そんなことは知ったことじゃない,という人の言葉。

 子どもは,自分で自分を守るしかないときが,学校でも家庭でも,社会でもあり得るのです。

 教育観,人間観,社会観,すべてがズレている人が,かつて教育現場で仕事をしていたのですね。

 まだdolceさんの第二関門を突破することができていません。

 懲りない人です。

>ロジックとは、要するに論理であり、ロジックの狂った者とは、正常な思考のできない人(早い話「頭のオカシイ人」)のことである。

 この人の教育観は,現役の教師に対しては,

>特に、先生をやっている人は、児童生徒が読んでいるかも知れないと思って書くべきだと思う。

 という考えを持ち,退職して教育現場を離れた自分は,

>早い話「頭のオカシイ人」

 などという言葉を使う。

 「やめれば無関係」・・・・?

 いえ,そうではないのですね。

 音楽のことはわかったつもりになっているようですが,人間のことが,おわかりにならないようです。

 言葉に品のない人が,楽譜通りの音を奏でている様子は,やはり「あれ」です。

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公立小学校と同じレベルになった国立大学法人

 朝日新聞で,東大の「有名教授」が次々に他の大学に「流出」しているという記事が少し前に掲載されました。

 記事の詳細は読んでいないのですが,

 想像するところ,簡単に言えば,

 東大も「公立学校」並みになってしまった,ということでしょう。

 公立学校の場合は,「市民」「県民」,あるいは,「国民」に向けて,さまざまな情報を提供するために,多くの調査が行われます。

 教育委員会が,調査を依頼し,集約し,文科省に提出します。

 それを「雑用」として嫌がる教師に公務員としての資質が欠けているのは明らかですが,もし公務員でなかったら,「そんなことに協力する筋合いはない」として,たとえば私立学校が簡単すぎる学力調査に参加しないように,NOと言うこともできるでしょう。

 これが,教育よりも,研究を第一の仕事にしている大学の先生を対象とした場合,「どうしてそこまで」という調査が次々にくれば,「研究活動への支障」となり,「もう東大では研究ができない」ということになって,「研究費や給料は少なくなっても,研究に没頭できる職場がいい」という主義の人は,私立の大学などへ移ってしまうのは,仕方のないことでしょう。

 国立大学法人が,給料も安い,研究に集中できない,などの「悪条件の整備」を押し付けられている・・・・・こんな実態がもしあったとしたら,「諸悪の根源」は,どこでしょうか。

 なぜ,独立行政法人になったのでしょうか。

 独立行政法人になったメリットは,何でしょう。
 
 事務官の悪口を言っても始まらないのですが,文科省から国立大学法人に人が次々にやってきて,あれやれ,これやれ,と言い出す・・・・・それは,文科省にいるよりは,仕事のやりがいがあるでしょうね。ただ,私が教育委員会で経験した,教育の素人が,アドバルーンだけをあげたがる,とても困った状況に,そっくりな光景を想像してしまいます。

 昔,「生きる力」というフレーズは,おれが言い出したのだ,と誇っている人を間近で見ました。

 最近では,「言語活動の充実」という「モットー」を掲げて仕事をして,地方から文科省にうつってきた人の話を聞きました。

 両方とも,「当たり前」のことしか言っていない,それだけのこと。

 というより,「何も言っていない」に等しいか,「変な誤解を招くもとになる」,そんなフレーズです。

 私がこのブログで書き続けていることは,

 とにかく教育の現状は,「当たり前のことが当たり前にできない」ことの苦しみなのです。

 昨日,ある会議で,

 「新採の社会科の先生は,『流域面積』の意味を知らなかった」

 ことが話題になりました。

 平均の川幅×川の長さが流域面積だと勘違いしていたようです。

 こんなことは,『ふつう』の問題です。

 アドバルーンも役に立つ場合もありますが,

 1日,1日の授業の準備だけで精一杯(になるべき状況)の人がたくさんいるのが教育現場。

 それなのに,

 教育の現場に立つ資格(教員免許をもっていたら,別ですが)のない,お金の計算や法律の専門家が,教育や研究の邪魔をしている。

 もしも,万が一,こんなことが国立大学法人でおこっているとしたら,

 国立大学だった時代の方が,はるかに「まし」でしたね。

 今は,ただの文科省附属大学になってしまったから,優秀な人材はそのうちいなくなってしまうでしょう。

 それを防ぐために,今度は私立大学を「附属化」することになるかもしれませんが。

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面接開始後,3秒で落とされる教員志望者

 「子どもを大切に」などという当たり前のことをスローガンを掲げている人たちは,

 実際は,「自分のことが一番大事」だったりします。

>学習指導要領に魅力を感じて、学校の教師になろうとする人がいるとは考えにくい。

 本当にそうでしょうか。

 学習指導要領に示されている目標を,自分の指導力で実現できたら!

 そう考える人に,ぜひとも教師になってほしいと思います。

 教師の自己実現とは,

 子どもの成長に裏付けられるものです。

 子どもに学力がついていないのに,

 教師の側が「自己実現が果たせました」などと言うのはおかしい。

 利他的な意識の強い人が,教師になってほしいし,

 奉仕的な精神をもっている人が,公務員であってほしい

>魅力ある職場とはどんな職場か?

>それは働いている人が活き活きとしている職場であると思う。

 魅力のある学校とは,どんな学校か?

 それは,子どもが活き活きとしている学校であり,そのために教師がひたすら尽くしている学校であると,私は考えています。

>急にやってきた校長との出会いが、いつしか教員を続ける原動力になってしまったと言ってよい。

>運がいいのか、先輩たちにも恵まれていた。

 私は,運がいいのか,子どもたちに恵まれていました

 それは,教師として育つ上で,「運がいい」という意味です。

 私にとって,教員を続ける原動力は,次々に訪れる子どもたちとの出会いです。


>つまらない上司(先輩)が威張っているような職場だったら、嫌気を感じるだろう。
>早くどこかへ転勤したいと思うか、転職したいと思うようになるのではないか?

 教育の場合は,子どもと自分との関係の方が,上司と自分との関係よりも大事

 教師の場合は,一度,任された子どもは,上司や先輩がどうだからといって,途中で投げ出すような姿勢ではダメです。

>あんな人たちのもとで働きたくないではなく、ああいう素晴らしい人たちのもとで働きたいと感じさせることが、教育への人材を集めることになるのではないか?

 そんな人間を学校現場には集めないでほしいです。

 上の人間がだれかによってやる気が出たり出なかったりするような人間は,教育現場にはいりません

 公務員としても,適当ではない

 どうやら,こういう事例で,教師の使命感や望ましい資質を明確に示すことができたように思えます。

 わかりやすい「ダメ教師」「わがまま公務員」ぶりを示してくださった方に,心から感謝申し上げます。

****************

 面接官より。

 あなたが最初に任用される学校の校長は,けっこう自己主張が強くて,あれこれアイデアを出し,教師たちにやらせようとします。

 あなたは,こういう学校で働きたいですか。

 嫌です。

 ありがとうございました。出口はあちらです。

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「授業をやりたい!」という欲望を乗り越えること

 管理職試験の面接でよく聞かれる質問に,

 「もっと授業をして,子どもとたわむれていたいのではないですか

 というものがあります。

 こういう質問にどう答えるのがよいのかというと,

 「授業は教師のためにあるものではなく,子どものためにあるものである

 という原則のもと,教育課程の管理に責任がもてる人間であることを証明するのが一番です。

 「授業をやりたい!」「子どもとたわむれていたい!」というのは,

 教師の側の満足を求める言葉であり,

 実は管理職ではなく,ふつうの教師であっても,そんな「恥ずかしいこと」は口に出すべきではないのです。

 「子どもたちが成長している場に立ち会えるだけでうれしい

 「ただ,子どもたちの本当の成長を阻害している教師がいるので,この対処に力を入れる

 「管理職は,学校の教育課程の管理に責任を負うべき立場であり,すべての子どもの成長を支えられるような仕事がしたい

 ・・・・「具体的には?」・・・・と聞かれたら,用意した学校経営計画の一部を披露していけばよいです。

 全くの物まねではいけませんが,今は多くの学校で経営方針や学校評価結果をHPで公開しているので参考になります。
 
 「すべての子どもの力を存分に発揮させられる教育活動を企画し,教職員の協力・協働のもと実践し,評価する」・・・・・こういう「企画力」の有無が,管理職に強く求められる時期に来ています。

 「人の授業を参観しても,子どもの生き生きした姿は見えない」

 「人の授業を参観すると,自分ではなく,授業者に生き生きした姿を見せる子どもが許せない」

 そんなことを考えている人は,近くに・・・・・村の中にはいませんか?」

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「学べる」人が「教える」人としてふさわしい

 教育実習生たちは,準備してきたことを一生懸命に「教えて」くれようとします。

 その姿勢はすばらしい。

 しかし,授業をビデオに撮ってみてみると,子どもが「学んでいる」ように見えない

 「教えている」つもりの教師と,「学んでいない」子ども

 何も,教育実習生に限った話ではないでしょう
 
 単純に,「機械のように」できることを目指す人たちにとっては,

 「子どもが自ら学び,自ら考える」ことの意義は二の次になるわけですが,

 もし,自分自身が本当に「学んで」きたのだとしたら,

 「どういうところに疑問を感じ,どういうところにこだわりをもって考えてきたのか

 という履歴を紹介してほしいですね。

 正しい方法でただ練習すれば上達でき,それで満足しているような人たちと,「学び続ける」人たちには,決定的な違いがあります。

 それは,人間を「故障した機械」扱いしてしまえるか,そうすべきではないと考えるかの違いです。

 「故障した機械のような人間は排除される」とまで書いた人の発想は,「機械」としての発想であり,

 「人間」を教え,育てる「人間」のものではありません

 「学べる」人が,「教える」人としてはふさわしい,私はそう考えます。

 100%できる人間が,子どもを教えても子どもが同じようにできるとは限りません。

 50%しかできない人間は,そういう人間だからこそ,何かでカバーするための工夫をするわけです。
 
 そういう人間を子どもたちが超えていくこと,これが「教える」ことの醍醐味なのです。

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教育者が学ぶ姿勢をなくしてどうする? ~dolceさんの情けない教育観~

 新しい指導要領になって,

 学習する内容が

 増える。

 変わる。

 だから,教師も,学ぶ。

 この「学ぶ」行為を「苦慮」「負担」と表現するのが,dolceさん。

 これを,「もし,自分が教師だったら」というのなら,よく理解できます。

 しかし,朝日新聞の記事では,指導が「不安」だから「奮闘」している教師が描かれている。

 武道の必修化で,道具がそろわないので「苦慮」するのはわかります。

 ただ,ダンスの指導法で「不安」があるので,学びに行く・・・・こういうのを,「対応に苦慮」「負担だ」とは,

 きっと

 「教育に情熱をかける教師」なら言いません。

 「にわか作り」だと思われたくないから,自信はないけど,習いには行かない。

 そういう教師を是としている。

 情けない。

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嫌われることを恐れない教師が何%いるか?

 あるサイトを通して本や雑誌を購入している人が,その履歴から「どのような人か」が分かってしまう時代になるのはこわいことですね。

 私も,そんな恐怖心からか,いくつかの場所で分けて購入しています。

 雑誌は,購読者でなければ,そのときの特集のタイトルにつられて買ってしまう,そんなものだと思いますが,だからこそ,買うのに躊躇するような雑誌(のタイトル)というのもありますよね・・・。

 しかし,わざわざ「職場の(人間の)チェック」をするために,こんな雑誌を読むことをすすめる人がいるのです。

 びっくりしました。教育に情熱をかける教師への具体的なアドバイスが,これではないですよね。

 そういう人間がいたら,こういう項目に当てはまる,やっぱり人から嫌われる人間なんだな・・・・などと納得して雑誌を買った人間が気を晴らすのではなくて,本人に直に指摘してあげて,「改善すべきことは改善させてあげる」のが「教育的」なのでしょう。

 本人が自覚されていることがらは,いくつあるのでしょうか。

 話は変わります。

 教育に情熱をかける教師は,

 「嫌われる」ことを恐れて指導を躊躇することはありません。

 「好かれる」ために周囲に迎合して指導をゆがませることもしない。

>人に好かれようとばかり考えて動くのも、どうかと思うが

 と書かれているということは,人は基本的に好かれようと考えて動く,という人間観なのですね。

 教師は,こんな考えは捨てた方がよいです。

 小学校の教師が「好き」「嫌い」にこだわることの問題点は,かつてふれました。

 教育の仕事は,「好かれる」ことを考えてするものではありません。

 ときには,問題行動を起こす人間,不適切な言葉の使い方をする人間を,強い姿勢で非難しなければならない。

 こういうときには,「これを言ったら嫌われそうだな」などとは考えない。

 小学校には,受け持ちの子どもたちに「嫌われる」ことを恐れない教師が,何%くらいいるでしょうか?

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機械のはたらきと人間の思考を一緒にしない教育観

 問題の教師が話題に上がるときは,とても憂鬱な気分になります。

 今日も,どこかで,子どもが,犠牲になっている。

 人間は,機械ではありません。

 歯止めがきかなくなってしまったdolceさん・・・・いえ,dolceさんの中の良心の一部であったはずのtsuguo-koderaさんにも乱れが生じ,一体化してしまったので,再考をお願いできればと思います。

 dolceさんは,

>かなりのことは、機械がきちんとやる時代だから、正常な思考回路を持たない人間は、壊れた機械と同じだから、排除されていくと思わなければならない。
 
 とおっしゃいますが,私は教育を語る立場の人間なので,決して排除することはなく,修復をめざして努力しています。

 tsuguo-koderaさんが,コメントの中で

>人間は感情に左右されます。最高の状態で人が働けば、機械を越えるのかも。心が定まらなければ、力を出せませんから、ロボットが管理する機械のほうがマシになるのでしょう。


 と結論付けていますが,これがなにがしかの教育に携わる人の言葉だったとしたら,非常に残念です。

 
 中学校の教師は,ふつう,思考の過程に課題がある生徒に対して,「壊れた機械と同じ」などということを言いません。ましてや,「排除される」というのも,もってのほかです。

 「排除しようとする勢力を抑えて,正しい思考のプロセスを育てていくのが,私たち教師の役割です

 と言えるのが,教育に使命感をもっている教師ではありませんか。

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カルロスさんにお詫び申し上げます

 リアルな世界では,とにかく子どもに害のないよう,おだてるだけおだてて,あっちのスイッチが入らないように努力することでしょう。

 しかし,ネット上の世界は,言葉の制御スイッチがはずれてしまっているというか,感情をコントロールしなくてすむので「過度」な表現を生むおそれがある,ということは,自覚できているはずでした。

 つまり,私が「失敗」の淵へ相手を呼び込んでしまった結果が,今,問題となっている状況なのです。

 学校現場では,やってはいけない失敗を,ネット上の世界だからと,危機意識をもたないで,「解放させてしまったこと」。これが,問題の原因であることは明らかですので,お詫びしたいのです。

 「まさかあそこまで」と思われる人は多かったでしょうが,

 ああいう局面で,あれだけの「本音」を出せてしまう人というのは,リアルな場でも相当に難しいでしょう。

 私は実際に調査できる立場にはありませんが,

 病気休職者の近くに,あのタイプの指導力不足教員はいなかったか,いたとしたら,どのような苦労を病気休職者は味わってしまったのか,お聞きしたいところです。

 本当に厳しいレベルにいってしまっている人は,自分がどういう状況だか把握できないといいます。

 実は重い状況だと思っても,それに気づける分,実は「軽い状況なのかもしれない」ととらえた方がいいかもしれません。

 いずれにせよ,次の記事が見どころでしょう。

 真価?が問われる,まさに「世紀の一瞬」が近づいているのかもしれません。

 私はまだ,「第二関門突破」の夢は捨てていません。

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授業を大事にしない子どもがいる原因

 ●指導力不足につながる事例 3/33 「授業を大事にしない」

 「授業を大事にしない」教師なんて,いるのだろうか?

 これは,実際に「授業を大事にしない」教師に出会ったことがなければ,思いもつかないようなテーマなのですが,学習指導要領には法的拘束力がない,という立場に立って,「授業は教師の自由に行える」という主義のもと,本当に好き勝手やっている・・・・特に好き勝手にやりやすいのは,小学校・・・・・教師を目の当たりにすると,今の学校教育で「本当に大きな問題」であることに気づくのです。

 以前,dolceさんとの間で「授業を自習にして出張する教師」の問題をやりとりしましたが,dolceさんの主張は

 「出張命令には従わなければならない

 私の主張は,

 「授業を自習にさせて出張命令を出すのは,本末転倒のゆゆしき事態

 というものでした。

 実際にそのような課題を,「課題として認識し,改善に向けて努力している」自治体があることを以前に紹介しました。

 教育委員会が,授業時間に,代わりの教師がいないことを知っているのにもかかわらず出張させる依頼を出していたとしたら,「授業を大事にしない」のは学校だけでなく自治体ぐるみの問題であるということになります。

 さて,ここでの話題というのは,「授業を大事にしない」教師や子どもの問題です。

 田沼雄一著『若い先生に贈る失敗から学ぶ教師学』学事出版では,以下のような事例が紹介されています。

 ・・・・教師不在の自習となんら変わることのない学習時間となってしまいます。
  子どもたちも,それに慣れ,うるさいことを言われず,指導もされず放任されている時間が長いのでなんとも思わなくなります。学校のほとんどの時間が授業にもかかわらず,教師が授業を大事にしないから,子どもも授業中,真剣にやろうとしなくなります。

 おそらく,これは小学校教師を対象にした文章になっているのでしょう。中学校では,時間ごとに教師が変わるので。まさか「全滅」ということは考えにくい。

 そのあと,紹介されていることとも関連しますが,普段,とても人に見せられるような授業をしていない小学校教師が,いざ,授業参観となると,「授業の準備をしなければいけなくなる」・・・・・でも,「授業の仕方がわからない」・・・・だから,「授業参観のための授業づくり」なんていう本が出版されることになるのですね。

 親としては,特別な授業が見たいのではなくて,できれば,全く普段通りの授業と,普段の授業での子どもの姿が見たくて,わざわざ(人にとっては仕事を休んででも)学校まで出かけていくのです。

 たくさんの小学校から子どもが集まってくる中学校にいると,いろいろわかってくることがあります。

 あるクラスは,授業そのものが成立していなかった

 ゲームや漫画は持ち込み可で,授業がわからない子どもは,授業の邪魔をしないように,個々にゲームなどに熱中させて,それらで時間を過ごして,授業が終わるのを「待っているように」言われていた

 そして小学校の休み時間というのは,「遊びの時間」であって,学校にはトランプやカードなどを持ち込み可で,そういうので少人数でグループをつくって遊んでいた。

 小学校の「遊び」は,もっと大人数で,体を動かして,伸び伸びとやってほしい,というのは,保護者の立場だけでなく,中学校の教師と言う立場からの要望でもあります

 学力はついていない

 体力もついていない

 ある程度の人数で一緒に活動することに慣れていない

 こういう子どもたちに,「学校における生活の仕方」「学校における授業の意味」を改めて中学校で説明しなければならないのは,本当につらいことです。

 小学校には,「週案」というものがあって,管理職がすべて把握することになっています。

 教育課程の管理のうち,「日常的に行う管理」がこの「週案」の確認です。

 校長によっては,副校長や教頭に任せっきりになっている人がいるかもしれませんが,ここで管理職が課題に気づけるケースと言うのも,実際にはあるのです。

 気温が異常に高い炎天下の校庭でマラソンの練習をするなどのケース。

 「予定通りに進めないと気が済まない」というタイプの「指導力不足教員」には,特に注意が必要です。

 授業を大事にするのは,当たり前ですが,子どもを大事にするということです。

 計画の方を,子どもの健康よりも優先させる教師が,実際にいることを忘れてはなりません。

 授業だけでなく,子どもを教師が大事にしてくれていたら,

 子どもは授業の時間を大事にしてくれます。

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中学生が小学生から学んだこと

 先日,中学生を連れて小学校におじゃましたという話をしましたが,

 中学生は,小学生たちから何を学ぶことができたか。

 発表が,とてもしやすかった。

 その一番大きな理由は,
 
 小学生が

 「目で聴いてくれた

 「相槌を打ったり,話しかけてきたりと,とても反応がよかった」

 ことと考えているようでした。

 小学校に訪問する前にお送りした「自己紹介カード」もよく読んでいてくれたそうで,初対面のときに小学生の方から名前を呼んでくれた,という生徒もいました。

 とてもスムーズに発表や意見交換等が進んだのは,小学校の先生方の受け入れ態勢がとても十分になされていたこと,普段の子どもたちの「聞く姿勢」がしっかり指導されていたことなどが理由として挙げられます。

 こういう問題に気づいた中学生もいました。

 「分からないけど,とりあえずうなずいてしまう,という子もいる

 なぜこういうことに気づけたかというと,やはり「あやしい」と思ったのでしょうね。

 「分かっていれば答えられる質問」を,うなずいている子どもに個別にしてみたそうです。

 そうしたら,答えられなかった。

 話し合いをしているように発表することができた,と喜んでいる一方で,

 「プレゼンをして,相手に本当に理解させる,ということ,理解させることができたということに気づくのは,難しいことなのだ

 と自覚できたことには,意味がありました。

 遠い距離を隔てた「小中の交流」ですが,また何年かおきに,実践できるとよいです。

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指導力がある人とない人の大きな隔たり

 指導力のない人は,指導力のある人の指導のまねをすれば,授業ができると勘違いする・・・・というか,指導力のある人と自分との違いが,何であるかが理解できない・・・・という特徴があります。

 だから,指導力のある人の本を買って読めば,自分もきっと指導力のある教師になれるだろう,と勘違いしてしまう。

 もし子どもの教育に対する指導力が高い人が,教師に対しても指導力を高める指導ができれば,そういう人が一人でもいる学校は,とても教育水準が高くなるでしょう。

 「自分の仕事」が終わったらさっさと5時すぎに帰ってしまうような「指導力のある教師」を,周囲はどう見ているのでしょう???

 さて,指導力があるとかないとかが分からず,「指導力のなさ」を実感させてくれる愚問が,

 「指導力があるってどういうことですか」というもの。

 指導力不足教員が,実際にこういう質問をしてくることがあるのです。

 いくつかの学校を異動してきて,何を見て,何を学んできたのだろう?
 
 学校には,「指導力がある」教師と,「指導力がない」教師しか存在しないと勘違いしている。

 まず,教師は,一定の指導力があるのが,ふつうのこと。

 その中で,他の教師から見ても力があることが明らかな教師,子どもがその教師の指導によって,他の教師の指導によるよりも高い成果が出されるようなとき,

 「高度な指導力をもつ」とか「指導力が高い」という意味で,あえて指導力がある」と言うのがふつうなのです。

 ふつうの教師のふつうの指導力に対して,「指導力がある」という言い方はふつうはしないのです。

 自分が教える教科に関する,ある一定の専門的知識や技能は身に付いていることは最低条件ですが,たとえば,その知識や技能はどのようにして身に付けられたのかをふりかえってみます。

 自分が受けてきたような授業を,自分が展開できて,自分が学んできたようなことを,子どもが学んで,自分と同じような状態になっていけば,「指導力」についてあれこれ言われることはない。

 自分より子どもの方ができるようになっても,教師の「指導力」に課題がある,なんてことは言われない。

 教師の「指導力」に課題があると言われるのは,子どもに実力がつかないからです。

 その理由が,「自習が多い」「質問に答えてくれない」などといった「指導力」以前の問題である教師もいますが,今のところ,「子どもとの会話が成立しない」というレベルの教師で,やっと「指導力不足教員」に認定されるようになります。

 本当は,新しい学習指導要領のもとでの教科のねらいや単元の目標を理解せず,大昔のプリントを使って同じような授業を繰り返しているような教師も,私は十分に「指導力不足教員」に認定してよいと考えていますが,こういう場合はいくらでも「言い訳」が成り立ってしまう。

 「子どもとの会話が成立しない」「すぐに体罰に訴える」などのレベルは,だれの目からも「不適格」に見えるので,判定もしやすいし,「言い訳」もできない

 でも「指導力不足教員」がそういう「線引き」では,子どもも浮かばれないだろう,というのが私の考えなので,

 どういう指導が課題なのかを問題にしている,というわけです。

 指導力の「高さ」には本当に様々なレベル,得意分野の多様さがあるので,それを知りたければ,様々な学校の研究発表会にでも出かけていけばよいのです。

 でも,日常的な「指導力の課題」は,そういう「研究発表」「公開授業」では現れにくいでしょう。

 だからこそ,指摘が必要なのです。

 一般企業のビジネスパーソンに求められるスキルは,

 技術スキル

 対人スキル
 
 概念化スキル

 で,一般従業員→管理者→経営者の順に,下の方のスキルが重要になってくる。

 教師の場合は,採用段階から「対人スキル」・・・・しかも,年齢が下の,子どもとのコミュニケーション能力が重要になります。

 そして,そのスキルの背景には,教育への使命感とか,人間尊重の精神などがなければならない。

 放課後の教室で子どもには見せられないような行為をしていた小学校教師のように,感情や行動をコントロールする能力がない人間は,公務員としてそもそも不適格なのです。

 指導力がある教師,とよばれるようになるためには,

 技術だけではダメ(だから,技術をひたすら高めようとする人たちの中からも,指導力不足教員が出てくる)

 対人スキルがあるかないかは,その人が書いたり話したりしている「言葉」から想像できます

 まずは,技術と対人スキル。これがともに高度である教師に出会ったことがない人は,不幸ですね。

 そういう教師に育てられている子どもも不幸です。

 初任者研修における研究授業でも,「指導力があること」をアピールできる人もいます。

 厳しい私の先輩は,そのときの授業・・・・いや,教育実習のときの授業で,だいたいその人の「指導力のレベルはわかる」・・・・と言います。

 大勢を見てきたそういう人の言葉にはなかなか抵抗しにくいですが,それを教育実習生に伝えても仕方がないので,とにかく授業の技術や対人スキルが磨けるような実践,公開・研究授業,研究会での発表等を続けていけるよう,アドバイスしてあげるしかありません。

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dolceさんに不足している追究力

 書けば書くほどハテナになるdolceさん。

 せっかくの「チャンス」を棒に振ってしまった。

 まだ「出身校別指導」にこだわらないと,気が済まない。

 そして,「そのどこがおかしいのか」についての思考を働かせようとしない。

>グレードの違うものを区別しても、何も問題は起こらない。
>昨日、来客があって、その人は高校の時困ったことがあったと言った。
>中学校の時、その中学校では独特の体操をやっていたので、高校でラジオ体操ができなかったと言う。
>それで、体育の先生から「○○中学校の出身者はできないでしょうから、しばらくは他の人のを見ていても
>いいです」と言われたそうだ。
>この扱いは何の問題もない。

 ラジオ体操は,中学校でしか学んで習得できないものなのでしょうか???

 中学校で独特な体操をやっていた生徒は,すべて,ラジオ体操ができない生徒だったのでしょうか???

 愛知県では,小学校でラジオ体操を教えないのがふつうなのでしょうか???

 せっかくのチャンスだったのに・・・・。

 「本当に,その中学校の出身者は,全員がラジオ体操を知らなかったの?
 
 「ラジオ体操って,前でやっている人の動きを見て,同時にできるものではないの?

 という疑問が生まれない理由はただ一つ。

 人間の思考力を奪うものが何であるかを,今回,dolceさんは如実に示してくれました。

 本ブログの管理者として,本当に感謝いたします。

 **********

 ちなみに,「待っていてください」と,「見ていてもいいです」では,違いが大きすぎますね。

 **********

>自ら自分の病気を公開している、どこやらの先生のように、この方は動画に出てくるチエック項目にもかなり当てはまるように、病気なのだと思う。

 「どこやらの先生」とは???

 こういう1文も,そう簡単にはスルーできませんね。

 dolceさんが変われるチャンスは今しかないかもしれませんよ・・・・。

 カルロスさんの訴えをどうぞお聞き届けください。私から言っても,反発して,次々に問題発言が飛び出すという逆効果になっているようですから・・・・。

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dolceさんを喜ばせるための情報×2

 以前にも書いた記憶がありますが,振り返って自分の文章を読む時間がないので,あらためて古い情報を一つと,新しい情報を一つ,書きます。

 まずは,新しいこと。

 dolceさんによってもたらされた,

>中学校で、音楽の教科書の他にリコーダーの本の別冊があって、子どもが自主的に練習して行って、他校の子どもたちよりずいぶん進んでしまうというので、音楽の先生が、しばしば待たせるということを話していただいたことです。

>私の教えた子どもたちは、全員、音楽の教科書とは別の、リコーダーの練習書を終えてしまったので「ふつうではない」かも知れません。

 という情報から,こういう言葉をお贈りします。

 この中学校の音楽教師が,

 「dolce先生というすばらしい先生に音楽を教わった人たちは,しばらく待っていてください。

 と指示したとするなら,半分はOKです。

 小学校によって教育の質が異なっており,出身小学校による格差が生まれていることに子どもが不安を持たずにすむように配慮するとしたら,特定の教師の名を挙げるのが適策です。

 あとの半分は,「待っている」という無駄な時間の過ごし方を授業中にさせないような配慮が,中学校の教師にはほしかったということ。

 ですから,本来は,小学校名や,教師の名などは出す必要はなく

 「作業が終わった人は・・・・」と言えばよい。

 dolceさんには,「自分の教えた子ども以外のすべての子どもは,作業が遅い」と言い切れる自信があるのか,ないのか。

 仮に,中学校の教師から,その通りだ,ということが伝えられているのなら,

 「そういう言い方をしたら,他の小学校出身の子どもは嫌な顔をしませんでしたか」と聞くべきところ。

>音楽の先生が、しばしば待たせる

 ということは,dolceさんの教え子たちは,授業中にしばしば「待たされる」経験をし,そうでない子どもたちは,「待っている生徒」を横目に,作業を進めていた,ということですね。まさか,その都度,「●●小学校出身の人は待っていてください」などとは言わないでしょうね。


 古い情報とは,これは私の予想ですが,

 上に紹介されていた話は,

 dolceさんを喜ばせるために中学校の教師がした話=実際に,dolceさんが喜んでいるようすが,文章からありありと感じられる・・・で,実際にはそのような「言葉かけ」はなかった・・・・のでは?

 中学校の教師である私の感覚・感性は,そう告げています。

 本当に中学校教師がその通りに言ったかどうかを,dolceさんが確かめたとは考えにくいので・・・・。

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人権感覚がよみがえるかどうかが第二関門

 前の記事の一部の再掲です。

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」[2]という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。[3]

 という私の言葉に対して,

 あいかわらず,

>頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。
>胃のおかしい人がいるから、胃を治療する胃腸科があるのと同じです。

>[3]ここで「ということになります」といえるのは、絶対的な真理でなくてはなりません。
>それは、一般的に承認されていることがらでなくてはなりません。


 という反論のされ方になる。

 いいですか。

 胃のおかしい人が,胃腸科に通う,これはいいです。

 しかし,「頭のおかしい人が治療を受けるための病院」とは,どのような病院のことですか???

 その病院に通う人を,dolceさんは「頭のおかしい人」と呼ぶのですね!

 dolceさんには二重の問題を指摘しなければなりません。

 「二重の問題」が何かは,おそらく私の文章をお読みの方はほとんどわかる・・・「一般的な承認」が受けられることと思われます。

 絶対的な真理かどうかはわかりませんが。

 まだ突破できていない「第二関門」は,「よくない言葉」と知りながら,その言葉を「よくない使い方」だと自覚できないでいるdolceさんに,「どこがよくないのか」を自覚してもらうことですね。

 そうでないと,もう「見捨てている」かもしれませんが,しょうさんなどが「もうやめた方がいい」とまた「助言」をしに訪れるようになるかもしれません。それはもちろん,dolceさんのためを思って。

***********

>これは、国語力のなさから来るものか、思考がおかしい(わかりやすく言えば、頭がおかしい)のどちらかではないか

 この文章の使い方から,dolceさんが教師時代にどのような言葉を使っていたのか,心配になるのです。

 国語力がまだ十分に身に付いていない子ども,思考力が十分に育っていない子どもが,論理的に「おかしいこと」を言ったとします。これをdolceさん流の「わかりやすい」表現では,「頭がおかしい」とよぶわけですね。

*********************

カルロスさんのご指摘のとおり,私の文章をお読みになった方の中にも,たいへん不快な気持ちになった人がいるかもしれません。

 この場を借りて,お詫び申し上げます。

 お願いは,長い目で見て,希望を捨てない教育のあり方というのを感じていただきたいというのが,私の思いです。

 貴重な時間を割いて,無駄なことをしているように思われる人がいるかもしれません。

 教育という仕事は,ある面では,非常に無駄なことの繰り返しをしているにすぎないとも言えます。

 しかし,それを無駄だからやめる,と思った瞬間が,教育という仕事から去るときです。

 現場にも,そこから去った人の中にも,一度,本当の意味で教育の仕事から去ってしまった人がいます。

 というか,本当の意味で教育の仕事に「最後まで」かかわることができなかった人がいます。

 今回,確信がもてたのは,亡霊の正体です。

 成仏できないでいる理由が行間からしみ出しています。

 あともう少し,ご辛抱ください。

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やっと気づいてくれたdolceさんに感謝!=第一関門突破

>事実のあるないという論点を行為の良い悪いの論点したいのだと言うことです。

 やっと理解していただいたようで,ありがたいことです。

 ようやく「言葉が通じた」という実感がもてました。

 ということは,まだ望みは捨てないでよい,ということになります。

 議論にはなっていませんでした。しかし,ようやく,平行線ではなくなった。角度が生まれたのです

 またまた繰り返しになりますが,

 授業中,早く作業などが進んでしまった中学生に,「中学校の教師は,ふつう,『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』などという指示は出しません」

 と私が書いたのは,それが「不適切な指導」であるからだ,と私が言いたいのだ,という意味が,ようやく通じたようです。

 そういうことを言ってしまうような教師が100%いないなんて言いきれないのは当たり前のこと。

 Aがもし絶対にBをしないなら,そう書くまでのこと。というより,書くまでもないこと。Aは,ふつう,Bをしない,と言っているということは,BをするAがいるのが問題だ,という意味になるのは,文脈を読めば当然わかるはずのことだったのです。

 そういう「不適切な指導」の「不適切さ」を考えてほしいから,わざわざ記事にしているわけです。

 やっと,その部分が通じたようで,まずは第一関門を突破。

 ただ,まだ次のような紹介をしているので,ズレを治すには時間がかかるかも。

>中学校入学後間もなくの掃除の時間、出身小学校別に清掃を割り当てられたことがあって、自分たちは早く清掃が終わったので、教室に戻ると「○○小学校の人は、掃除が上手だね。ちょっと待っててくださいね」と言われたことがあるそうです。

 またまたやってくれましたね。

 掃除の時間に出身小学校別に清掃を割り当てるって,だれが何の目的で行った指導なのでしょう。

 入学した時にはすでにクラスが決まっているし,それは出身小学校別ではあり得ないわけで,それをわざわざ小学校別にするというのは,どのような事情があるのか聞いてみたいところです。

 清掃の技術を出身小学校別に競い合ったのでしょうか?

 そして,大事なポイントは,

 「早く掃除が終わった」=「掃除が上手」とは限らない,ということ。
 
 まあ,これについてはこれくらいで。

 ・・・・よくこんな異常な情報が次々に入ってくる方ですね・・・。

 さらにご丁寧に,吹奏楽部の生徒の話を繰り返される。

 私が言っているのは,「ふつうの授業での話」でしょう。

 そこで,進度が早い生徒を,わざわざ「出身小学校名を出して」,「待たせる」,これが問題の指導だ,と言っているわけですからね。

 「出身小学校名」を出す必要はないし,「待たせる」以外の指導はいくらでもできるでしょう。

授業中,早く作業などが進んでしまった中学生に,「中学校の教師は,ふつう,『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』などという指示は出しません」

 と私が記事にして得られた「穫物」は,今のところみんなdolceさんによってもたらされているので,感謝を申し上げております。

**************

 比喩表現というのは,説明をわかりやすくするためなのですが,dolceさんには逆効果なので,これはやめておきましょう。比喩表現をさして「普遍的事実ではない」なんて言われてしまうようでは,これは日本語を母語としている人との会話ではなくなってしまいますから。

>それよりも「中学校の教師は、猿に変身しない」という言い方は、変身するものが猿でなくてもよいのです。

 というdolceさんの言葉は,独り言ですよね。

 でも,「亀に変身しない」と書いても,私からは,

 「職員室前の廊下で暴れている生徒がいても,職員室から一歩も出なかった・・・・自席から一歩も動こうとしない教師がいた。これが,亀に変身した教師の一例だ」などと言われてしまうので,

 「ネズミに変身しない」くらいにしておけばよかったのかもしれませんね。

 いや,だめか。職員室で窃盗を犯していた小学校教諭がいました。鼠小僧というわけではないのでしょうが。

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」[2]という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。[3]

 という私の言葉に対して,

 あいかわらず,

>頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。
>胃のおかしい人がいるから、胃を治療する胃腸科があるのと同じです。

>[3]ここで「ということになります」といえるのは、絶対的な真理でなくてはなりません。
>それは、一般的に承認されていることがらでなくてはなりません。

 という反論のされ方になる。

 いいですか。

 胃のおかしい人が,胃腸科に通う,これはいいです。

 しかし,「頭のおかしい人が治療を受けるための病院」とは,どのような病院のことですか???

 その病院に通う人を,dolceさんは「頭のおかしい人」と呼ぶのですね!

 dolceさんには二重の問題を指摘しなければなりません。

 「二重の問題」が何かは,おそらく私の文章をお読みの方はほとんどわかる・・・「一般的な承認」が受けられることと思われます。

 絶対的な真理かどうかはわかりませんが。

 まだ突破できていない「第二関門」は,「よくない言葉」と知りながら,その言葉を「よくない使い方」だと自覚できないでいるdolceさんに,「どこがよくないのか」を自覚してもらうことですね。

 そうでないと,もう「見捨てている」かもしれませんが,しょうさんなどが「もうやめた方がいい」とまた「助言」をしに訪れるようになるかもしれません。それはもちろん,dolceさんのためを思って。

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教師による区別を子どもは差別と受け止める場合がある

 学校によっては,学校評価の一環として,児童・生徒へのアンケートを実施し,「投票箱」に入れるような形式をとって,だれによって書かれたかを特定できないような配慮をして,

 「えこひいき」されている人がいると感じることはあるか

 などという,けっこう際どい質問に答えさせるところがあります。

 児童・生徒へのアンケートを実施していること,そして,こういう質問項目があるということは,

 自校の教育活動への自信の表れ
 
 と読み取ることが可能です。

 どんなわずかな「すき」もつくらない,そういう姿勢の表れでもあるのです。

 もし,一人でも,「心配な教師」がいる場合は,特に小学校では,

 「えこひいき」されている人がいると感じることはあるか

 なんて質問は出しにくいでしょう。

 そのクラスの数値だけ目立つことになり,担任教師の立場が心配だ,なんていう「仲良し集団」は嫌がるでしょうね。

 「えこひいき」をしている自覚がある本人が反対することもあるでしょうし,心配性な人は,そんな質問はやめてくれ,と懇願してくるかもしれません。

 しかし,自覚をもって教育活動が行える人は,むしろそういう質問を通して,

 「気づかないうちに行っている差別」の存在を確かめようとします。

 教師が行っている「区別」でも,子どもから見れば,「差別」と受け止められている可能性があることを自覚しておくべきです。

 会社に入って,上司が,「●●大学出身の新入社員は,仕事が早いな。●●大学出身者だけ,しばらく休みをとっていていいぞ」なんて言うことはあり得ませんね。

 そういう「くくり方」は,もし仮に現実として「実力の格差」があったとしても,行わないのが「教育的」です。

 教師に限らず,「出身」によって人を「区別」して扱うことをすべきかどうか,よくよく考えて行うべきでしょう。

 「お国自慢」は「差異」を知り合うのが目的だから,こういう場合はいいのですが,「差異を認め合う」ことが目的ではない場合は,「出身」による「区別」は「差別」に結びつくおそれがあることを知っておくべきです。

 教職を目指す人たちの中には,「人権問題」に関する基本的な知識を学ぶ機会が少ないか全くなかった人もいるかもしれません。現実として,どういう差別の問題があるのか,それを知っておくべきです。

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中学校の教師は,猿に変身する

 小学校の教師は,職場の日常では「群れ」の行動をとらないのですが,

 中学校の教師の場合は,職場で猿と同じような社会をつくっている場合があります。

 むしろ,それが「ふつう」かもしれない。

 dolceさんは,比喩表現を想像力をはたらかせて読み取ることが苦手なようで,

>「中学校の教師は、猿に変身しません」

と言うなら、納得できますが

 ということなのですが,こういう言葉にこそ「反論」できるのが学校という社会を知っている人間なのです。

 もし,「心がせまい」とは何かを説明するとしたら,

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。

 繰り返しになるのですが,

>「中学校の教師は(ふつう)『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』
 などという指示は出しません」
 
>ということが言い切れるかどうかということです。

>「中学校の教師は」と言えば、対象は日本中の中学校の教師です。

>その教師が、過去、現在、未来を通じて、そういうことを言わないと言い切れるかということです。

 以上からわかるのは,「私の言いたいこと」=授業中に,特定の出身小学校の生徒を待たせるような指導はふつう,行われることはないし,もし行われたとしても,それは不適切だ,ということへの反論になっていない,ということです。

 ここも繰り返さないと問題の所在があいまいになるので困るのですが,

 ある小学校の出身者だけ,進度が早くなるから,そういう子どもは待たせておかなければならない状況になる,だから,「待っていて」という指示が出される,という話が私が「おかしい」といったものでした

 「ある小学校の出身者だけ進度が早くなる」のが,「ふつうの授業で見られる」のが「ふつう」ではないことは,これも繰り返しですが,特定の小学校の出身者の中にも,実力の格差があるのが「ふつう」だから,説明するまでもないことでしょう。つまり,「待っていて」はいけない子どもも含まれるのが「ふつう」なのです。そして,何も「待たなくて」よい。同じ説明でも,「いっしょに聞いて」くれればよい。場合によっては,まだ終わっていない子どもを助けるとか,手伝うとか,そういうこともあり得ます。・・・・ということでした。

 dolceさんは,これが反論として成立していないことを,私の言葉の「ふつう」を勝手に(  )を入れてしまうことで,なかば自覚されている

 以前も同じことをされていました。

 「ふつう」ではないことがあるぞ,というのでは,「ふつうはこうだ」という説明の反論にはなりませんね。
 
 「ふつうは2アウト3塁でスクイズは行われない」という言葉に対して,「2アウト3塁でスクイズが行われない」と言い切れるのか,過去もなかったのか,未来もなかったのか,なんて言い出す人はいないでしょう。

 反論のための反論をしているから,窮地に立たされてしまうのです。

 dolceさんがすべき反論は,
 
 中学校の教師は,作業が早く進みすぎる特定の出身小学校の生徒を限定して,待たせておく,という指導がふつうに行われていることを,示さなければならないのです。

 しかし,これを示して上で,「これは不適切な指導ではない」ことも説明しなければならないのです。

>実際、新学期が始まったばかりの中学1年生においては、いくつかの小学校の出身者が集まっている中学校があります。

>そういう時、それぞれの小学校を紹介する時

>「○○小学校の(出身の)人たちは待っていてください」

>ということはあり得ます。

>そして、それぞれの小学校の特徴や自慢を披露することもあります。

 これは,「ふつうの授業で,作業が早く進みすぎるので待たせておく事例」ではありません。

 「~という場合もありえる」と言っている時点で,「ふつうの例」ではないことも,自覚できないのでしょうか。

 そして,書けば書くほど,「おかしな指示」が際立ってくるdolceさん。

 なぜ,出身小学校のよさをPRする場面で,ある小学校出身者に「待っていて」という指示が必要なのでしょうか。この子どもたちは「聞き役」になるのですから,「待つ」のではなく「聞く」のが正しい姿勢ですね。

 実際の指導場面を思い浮かべれば,そういう言葉を発する必要性がないことは明らかです。

 むしろ,「待たせてはいけない」と考える教師にならないと,「授業のねらい」は達成されません。
 
 一方的に「特徴や自慢を披露する」のではなく,それを「聞いてあげる」側が存在しなければ,「授業」として成立しなくなるのです。

 ・・・・・「特徴や自慢」が披露できる小学校と,そうでない小学校の格差が気になる?

 そういうセンスのある人に,できたら教師を志してほしいですね。

 dolceさんのセンスは,次の言葉でよくわかります。

>中学校で、音楽の教科書の他にリコーダーの本の別冊があって、子どもが自主的に練習して行って、他校の子どもたちよりずいぶん進んでしまうというので、音楽の先生が、しばしば待たせるということを話していただいたことです。

>音楽の練習では、吹奏楽部の例なんかよくわかると思うのですが、進度に差が出る時、進度別にグループを分けて練習するなんてことはやります。

>私の指導していた小学校の子どもが、中学校へ行って、校長やPTAを動かして吹奏楽部を作ったという話はしました。

>そういうこともあって、要請されて、私が時々中学校へ行ったりしました。

>祝日や日曜日の練習の時も行きました。

>そういう時に出た話です。

 途中からdolceさんと私のやりとりを読まれた方は,この部分を読まれて

 「ああ,なるほど!」と気がつかれたことでしょう。

 何を自慢したかったのか,そして,それが否定されたことに,カチンときたのだな,というのがありありと伝わってくる部分ですね。これが「読解力」です。

 そして,たったこの部分だけでも,「猿化した教師」が「習熟度別による学習」を行うと,こういう失敗を犯すのだな,ということがわかります。不適切な指導法です。

 それについては,あえて説明するまでもないでしょう。

 教職につこうと考えられている人には,この「どこが不適切なのか」が問われるようなケースの想定問答をぜひお考えください。

 dolceさんがわざわざ自ら核心的な部分にふれていただいたので,この部分さえお読みいただければ,もう十分だとも言えるでしょう。

 自慢話をしていたdolceさんが否定されたのではなく,中学校の音楽教師の指導が不適切であったと指摘された経緯にあらめて気がつけば,ご機嫌もなおるでしょうか。

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dolceさんの反論パターン

 Aは,ふつう,Bをしません

 と私が述べると,

 BをするAがいないと,なぜ言えるのか

 と反論される。

 そして,BをするAがいないと言えるのは,超能力者だからか,と揶揄する。

 あるいは,「頭がおかしい」という表現をする。

 何度も繰り返されてきた,「基本的なパターン」です。

 dolceさんの反論パターンは,教師の資質の課題をより浮き彫りにしていく傾向のあるものです。

 A=中学校教師は,ふつう,B=差別をしません。

 に対して,

 「差別をしない中学校教師がいないわけない」と言っているだけなわけですから。

 さて,今回の件を,dolceさん自身がまとめていただいた,最初の話から振り返ってみます。

 斜体は,dolceさんの言葉。太字は,私の言葉です。

*****************

私は過去のブログ記事の中で次のことを述べました。

授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

すると、これに反応して、K氏が次のように言いました。


しかし,中学校の教師は,ふつう,
 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」
 などという指示は出しません。
 出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということはしません。


それで、私が、
中学校の教師は○○ということはしませんと、どうしてわかるのか?
日本中の中学校の教師がみなそうだと言えるのか?
また、未来の中学校教師の実践も含めてそう言えるのは、超能力ではないか
のような意見を掲載しました。

***************

 で,私が

ただ,dolceさんの今回の反論記事はかなりポイントがずれているので,ちょっと心配になっていますが・・・・。

 と書くと,

>いやあ、あなたの妄想にはついていけませんよ。

 という反応。「妄想」という「思考停止語」を多用するのも,dolceさんの反論のパターンです。

 あとは,

「●●小出身者だけ,早く終わってしまう」ので,「待っていて」という話でしたから,

という私の言葉に対して,

>そんな話は全くしておりません。そういう妄想が浮かんだんですね。

 と,以前に書いたことを忘れてしまって,「妄想」扱いすること。

 

 私の言いたいことは,

 中学校教師が,授業中に,出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということは,不適切である,ということ。

 だから,ふつう,A=中学校教師は,B=特定の出身小学校名を示して,該当生徒を「待たせる」という指導はしない,と表現しています。

 dolceさんは,まず,こういう表現の意図が読み取れない。

 意図が読み取れていないということがわかってしまうことを前提として反論されるから,余計に「反論のための反論」らしさが際だってしまっています。

 茶摘み体験の話は,どうして出てきたか。

 私の予想は,中学校教師が,出身小学校で子どもを区別している例がある,ことを示したかった。

 dolceさんによれば,それでは都合が悪い(=特殊な例のために,「ふつうの~」という姿の反証としてはふさわしくないことは認識されていることがわかる)らしく,

なぜ教室の授業の話ではなく,特殊な「茶摘み体験」いいえ,「茶摘み労働」の話になってしまったのか?という私の言葉に対して,

>「なってしまった?」だって?何か勘違いしていませんか、ただ私は、私の経験をブログの記事として書きたかっただけです。

 と返す。ただ,読み取り方によっては,もうバレバレなので,一応,以下のような予防線もはってある。

>「だれの目から見ても明らか」かどうか、他人の見方は私にはわかりません。超能力はないですから。

 以下の文を読めば,「無敵の指導力不足教員」の姿が想像されることでしょう。

>適切か不適切かの判断は、あなたがする立場にはありませんよ。誰も、あなたに判断してくれとは言っておりません。


もはや,ワンパターンの,「すべてにあてはまるわけではない」という指摘は不要ですよ。

 という指摘に対して,

>何のことに対してですか?あなたが頭の中で考えていることまで、私にはわかりません。

 というご回答だったので,今回,少しくわしくご説明申し上げました。

 dolceさんの文章を読めば,頭の中で考えていることは,手に取るように分かりますよ。そのまま言葉になっていますから。

 私の文章を読んでも,「わかってはいけない」と命令を下しているのが,dolceさんの「頭の中」の状態です。

 ですから,終わりが見えないのですね。

 今回の記事は,

>勝手にパターンを捏造するな。ではどんなパターンなのだ。具体的に述べてみよ(できないだろう)。

 という「ご命令」に対してお応えしたものです。

 この1文そのものも,代表的なパターンなのですよ。

不良品の宣伝マン

 指導力不足教員の研修の難しさは,まず自分の現状が理解できていないこと,理解しようとしないことにあります。

 一生懸命に自分を擁護しているつもりで述べていることのほとんどが,その人が抱えている課題を如実に示しているのに,自分の言葉が,「自分の正しさ」「相手の間違い」を証明したつもりになっている。

 わかりやすいたとえは,自分で「商品の欠点ばかり」を宣伝し,「商品が売れない」理由を「商品のことを正しく理解できない消費者」のせいにしている。

 そのことを指摘すると,こんな答えが返ってくる。

>知らないよ。だって、私は何も問題と思っていませんから。そういう言い方ができるなら「問題のあなたのオツムはどうして、そうなったんですか?」という質問もできますね。

>勘違いしていませんか?適切か不適切かの判断は、あなたがする立場にはありませんよ。誰も、あなたに判断してくれとは言っておりません。

久しぶりに小学生に授業をしました

 昨日はちょっと特別な日でした。

 中学校3年生を引率して,小学校へ。

 小学生を授業で教えるのは,12年ぶりでした。

 当時は小学校の先生とのTTでしたが,今日は,私1対4年生から6年生までの児童でした。

 中学生も,3年生から6年生を対象に,グループ別に研究成果の発表をしたのですが,いくつかの条件を出したので,準備には苦労をしたと思います。

 発表の条件とは,

 一方的な情報の伝達にならないように,「やりとり」をお互いに楽しみながら,理解度を探りつつ,「言いたいこと」の多くを伝えること。

 指導力のある教師とそうでない教師の違いの例は,

 「やりとり」をお互いに楽しんでいるか,いないか。

 子どもの理解度に応じた指導ができるかどうか。

 指導力のない教師と,それ以前の教師の違いは,

 そもそも「やりとり」する情報があるかないか。

 子どもの理解度が判断できる材料(情報)があるかないか。

 結論から言えば,中学校3年生は,

 それなりに「指導力のある教師」の姿を見せることができました。

 教育実習生の場合は,気負いが過ぎたり,責任感が強すぎるのが邪魔して,

 「理解度に応じた指導」ができずに,「理解度を無視した指導」を行ってしまう場合がある。

 3年生が発表に成功したと判断できる理由のひとつが,

 「発表しやすかった」という感想を述べていることです。

 *************

 問題です。

 「発表しやすかった」理由として,最も多く挙げられていたのはどういうことでしょう? 

指導力不足教員を変えるための突破口

一連の記事に関しては、お読みいただきたいのは、あくまでもdolceさんの「反論パターン」です。
しばらく、ランキングのためのバナーはつけません。
注目してほしいのは、dolceさんのblogです。

さて、改めてお断りしますが、dolceさんが指導力不足教員であるとは言っておりません。

指導力不足教員と同じような指導をしており、反論も同じような仕方であるために、事例を活用させていただいて、教師の指導力を向上させるために必要な条件を探っております。

今回のテーマは、

「指導力不足教員教員と教育を受けている子ども」との関係性を考えなければいけないのに、

指導力不足教員というのは、「自分と、自分の指導の課題を指摘した人間」との関係性のことで頭がいっぱいになってしまうという特徴がある、ということです。

これは、実際の指導上では、「指導に反感をもつであろう子ども」のことは全く視野に入らず、「指導を受け入れるであろう子ども」のことで頭がいっぱいになってしまう、という問題として表面化します。

子どもの側からすると、これは「不公平感を高め」「えこひいき」「特定の子どもへの特別待遇」をする教師という姿にうつります。

dolceさんの過去の紹介事例でわかりやすかったのが、

部活動に遅刻してきた生徒を注意したら逆ギレされ、「何時なら来れるのか」などという、社会人なら絶対に経験することはない言葉をかけられ、何と、「全員が集まれる時間を話し合いで決めろ」と指示を出し、結局、開始時間が遅くなったという、「時間を守ってきたほとんどの子どもたち」への思いが完全に欠如した指導です。

dolceさんはまだ、

ふつう、授業で●●小学校出身の生徒は待っていなさいなどという指示を中学校の教師はしない(すべきではない)ということへの「正しい反論」はできていません。

ふつうの授業の事例が紹介されていませんし、とにかく「なぜそれが不適切なのか」を考えようとしない。

茶摘み労働という特異なケースをもってきて、「ほら、こういう事例もあるんだぞ」という姿勢自体が、「ただ逃げているだけ」であることに気づくことができない。

なぜ、授業中に●●小学校出身の生徒を「待たせる」指導をするのが不適切なのかはすでに書きましたから、繰り返しませんが、指導力不足教員は、「こういう言葉をかけたら、私は気に入られそうだな」と一度思ってしまうと、「こういう言葉を聞いたら、反感を覚える生徒がいるかもしれない」ことは、全く考えられなくなってしまう。

「あなたと、子どもとの関係の問題ですよ」という指摘に対して、

「お前にそれを言われる筋合いはない」と反発して、

結局、「子どもとの関係」に入りこんでいけない。

指導力不足教員が、現場に復帰するための研究授業をすると、(ある意味、仕方のないことかもしれませんが)参観している教師の方ばかりが気になってしまって、「一部の子どもにしか目がいかず、子ども全体の動きを視野に入れた指導ができない」ことを実証してしまうことになる。

突破口は「子どもの生の声」だと思われるかもしれませんが、こういうとき、「筋金入りの指導力不足教員」は、子どもも攻撃対象にする。裁判を起こした指導力不足教員が、このタイプでした。

では、だれが「突破口」となるのか。

やはり、現場の教員しかいない。

同僚しかいないのです。

dolceさんの場合の希望は、管理職からの言葉なら、無条件で「はいはい」と聞きそうなところ。

ただ、一般の場合は、「判断を下す」管理職は「被告」となりうる立場ですから、難しい。

学級担任制の小学校教師の場合は、具体的な指導場面をみることができる「同僚」がいないことが、残念なところ。ですから「校内研究」で、年間1人3回は研究授業をする、などの方法で、「突破」していくしかありません。

指導力不足教員による自己主張のモデル

今回のdolceさんとのやりとりで、教師たちにどのような負担がのしかかっているか、とてもわかりやすいサンプルをご提供することができたと思います。
dolceさんのようなタイプの教師に、「ご意見」が述べられる人はどのくらいいるでしょうか。

負担の取り方は二通りで、放置するか、言い争うか。

放置すれば、子たちにしわよせがいく。

言い争えば、子どもの教育よりも果てしなく多い労力を要することになる。

精神的に楽なのが、反論するのに神経を使うより、子どもの教育へのマイナス要素を放置することだという人もいれば、私のように、子どもの教育へのマイナス要素があることがどうしても耐えられないがために、終わりのない言葉のやりとりを続ける者もいる。

出身小学校で子どもをくくり、その子どもたちのプライドをくすぐることで、効率を高めようとする教師が、どのような指導観をもっているか、教師なら容易に想像がつきますね。

そして、そういう教師を支持してきた人たちもいるでしょうが、強い反感をもっていた人も、たくさんいることでしょう。

指導力不足教員のタイプの一つが、dolceさんと同じような「反応」をする人たちです。

私には、退職したdolceさんがどういう教師だったかを判断するのは記事の内容だけからですので、もちろんdolceさん=指導力不足教員と言っているわけではありません。

ただ、問題がある指導を紹介してくれることはたしかで、かつ、指導力不足教員が行う自己主張とよく似たパターンのことばを繰り出してくれていることもたしかです。

「そのどこが悪い」という開き直りから始まる一連の「ことば」は、そのお手本のようなものです。

ある指導力不足教員が出版している裁判記録を読むと、同じようなことばがたくさん登場しています。

こういう教師を現場でどうしたらいいのか。

本当に頭をかかえている問題で、研修担当の指導主事は、最低でも一年間、あの一連の消耗戦を続けるのです。

生の資料というのはなかなかオープンにはなりませんので、本当に貴重な資料ですね。

dolceさんには、「どうでもいいこと」で、実際に、どうでもいい結果になっていてくれれば、私も安心できます。

でも、dolceさんにとって「どうでもよくはない」ことは、ご自分の指導についてとやかく言われることで、その反応の強さゆえに、「教科書のようなことばの数々」が公開されていることに、改めて感謝申し上げます。

関係者の方は、対策を考えましょう。

そして、実際に同じような教師がいる場合は、対策を講じましょう。

dolceさんの場合は,「指導力」以前の問題でした

 今回のご説明(および,説明されなかったこと)で,よくわかりました。

 私の「最大の質問」は予想通りスルーされ,

 出身小学校の違いをもとに児童を区別して,その場で「待たせる」という指示をして,経験がなかったり能力が低い子どもたちに「説明する」ことは,「特に珍しいわけではない」とダメ押しされたわけですね。

 途中で話を拡大している点(「●●小学校出身の人たちだけでなく,経験や能力の差がある場合に,経験があったり能力が高い生徒をあえて特定して待たせて,経験や能力の低い生徒を対象に説明するケース」)はあえてスルーすることにします。

 私がもし指導者なら,次のような指示はしません。

>学年集会で茶摘みの説明を行います。

>すでに、小学校で体験してきている生徒もいるので、説明する先生は「○○小学校出身の人たちは、はじめの方は説明が重複するところがあると思いますが、ちょっと待っていてください」と言います。

 ふつう,指導者は,「●●小学校出身は,待っていて」という指示はしないでしょう。

 「経験がある人も,改めてよく聞いておいてください」ではないですか。

 なぜなら,●●小学校出身者の中には,何かの事情で茶摘み体験をしていない子どもがいるかもしれませんし,小学校時代は上手にできなかった子どももいるかもしれないからです。

 また,●●小学校出身ではなくても,茶摘み体験をしてきて,説明の内容は聞いたことがあり知っている子どもがいるかもしれないからです。
 
 中学校では,このように授業中で,生徒を「出身小学校でくくる」ことは不適切です。

 出身小学校別に,子どもがそれぞれ同質であるという認識を前提にした指導は不適切なのです。

 愛知県では当たり前なのかもしれませんが,ある中学校が特定の小学校とのみ結びつきが強いかのように誤解されるこうした指導は,生徒指導上もふさわしくありません

 こういう話をすると,「では,地域別の防災訓練をするときはどうなんだ」というさらにレアなケースをもってこられるかもしれませんが,そういうときと,こういうときと,話は別。

 何よりも,「授業では,ふつう,●●小学校出身者だけ待たせるという指導はしないだろう」という指摘を完全に頭ごなしに否定してかかり,それだけならまだしも出してくる特殊な事例で指導の不適切さを指摘されてしまう状況が,何を意味しているか,お分かりになりませんか?

 dolceさんの場合は,児童観・生徒観の問題なので,もはや「指導力以前の課題」ということになります。

>子どもの指導に限らず、経験や能力に差がある場合、またはすでに説明を受けている人々が入り交じっている場合は、重複する指導や説明がある人に「ちょっと待っていてください」と断りを入れることは特に珍しいことではない

 このどこが問題かがわからない,というのがdolceさんの現状のようなので,簡単にご説明しますと,

 こういう場合は,「話が重複する人もいるかもしれませんが」で十分なのです。
 
 なぜなら,その説明を聞く必要性があるかないかは,聞く側が判断することであって,話す側が「聞く人」「待つ人」と区別するべきではないからです。

 よく知っていても,確認の意味でしっかり聞こうとする人は多いと思いますし,わかったつもりでいて,大事なところを聞き漏らしやすい子どもに対して,「ちょっと待っていてください」という言葉かけはおかしいのです。

 dolceさんの「指導力以前の課題」というのは何かというと,

 「相手がどういう状態であるか」を勝手に判断してしまうことなのです。

 「生徒のくくり方」も,問題なのです。

 また,「相手がどうしたいと考えているか」を考えないことも課題です。

 それでは,お前の言うことも同じではないか,おれがどう考えようが,おれの勝手だろう,という反応が想像されますが,私が言っているのは,「dolceさんと子ども」との関係。dolceさんがすぐに話題をそらすのは,「私とdolceさん」との関係。話が違うのです。

>なぜ、そんなことを取り立てて問題にするのか不思議に思います。

>勝手に何か問題と言っている人がいるようですが、何が問題なのかさっぱりわかりません。

 取り立てて問題にするのは,やはり繰り返すようですが,

 「特殊な事例」でかつ,「ひっかかる言葉かけ」だからなのです。

 茶摘み体験の事前指導なんて,「ふつうの授業」ではないですよね。

 もし,「ふつうの授業」でそういう事例があるなら,聞くのもこわいですが,どうか教えてください。

 さらに,気になるのは,dolceさん自身が,問題性が「さっぱりわからない」人だからなのです。

 中学生は,教師の言葉かけに,非常に敏感なのです。

 この類の言葉かけは,いじめの引き金になりかねない,というくらいの意識が,教師にはほしいのです。

 こういう「妄想」は,しすぎて悪い,ということはないでしょう。

 集めている生徒全員に,話を聞く姿勢をきちんと取らせておく,というのは,全体指導の基本中の基本です。

 dolceさんという人は,ブログの記事を読めばわかるとおり,言葉かけが,非常に「不用意」なのです。

 他の方からのご指摘もあるように,「鈍感」と言った方がいいのではないでしょうか。

 さらに言えば,そういう指摘を職場でかけられてこなかったとしたら,それが本当にお気の毒なのです。

 端的に申し上げれば,dolceさんは子ども,教員,保護者,どの相手にも限らず,トラブルを引き起こしやすいタイプですね。なぜそうなのか,ご自分だけがわからない,そういう状況に置かれているのではないかと推測し,・・・・これも,妄想であった方が,都合がよいのでしょうが・・・・とても気の毒でなりません。

 私が勤務していた学校にも,同じような教師はいました。

 中3くらいになると,もう「あの人はああいう人だ」という冷めた見方ができるからいいのですが,中1の場合は,そういう言葉かけで失敗されたことはないですか?

 これは「あらさがし」という趣旨ではなくて,本当はその言葉かけのために,とても苦しんでしまった子どももいたのではないか,という想像力をはたらかせることは,全く意味のないことでしょうか?

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dolceさん本人の「問題の指導」についてご質問します

 どこかの中学校教師の指導事例かと思ったら,ご自身の指導とは・・・・・

 ならば,お答えいただけることがたくさんありますね。

 茶摘み体験の学習を行うことが,「指導力の不足」を示しているわけではないことは,記事を読めばおわかりになりますよね。

 もしその時点で誤解されていたようならば,訂正される必要がありそうです。

 dolceさんは,大事な「指導内容」については,まだその事実を何も語られておりません。

******

 いくつか,質問があります。

 最大の質問は,

 「早く進みすぎる●●小出身者だけを待たせる」という事例が,

 なぜ教室の授業の話ではなく,特殊な「茶摘み体験」いいえ,「茶摘み労働」の話になってしまったのか?

 それしかなかった?

 もうこの授業自体が「ふつう」ではないのは,だれの目から見ても明らかですね。

 そして,重要な質問は,この茶摘みの場面で,

 ●●小出身者が,なぜ「早く進みすぎるので」「待たなければならなかったのか」です。

 この理由がよくわかりません。「指導力の低さ」を感じるポイントがここです。

 この「労働」が,「ノルマ制」だったとしか,考えられません。

 子どもたちは協力して作業するのではなく,

 自分の割り当てられた分だけ,やればよい,ということですか?

 「●●小出身者だけ,早く終わってしまう」ので,「待っていて」という話でしたから,

 それ以外のことがなかなか考えつきません。

 その次の質問は,

 これは何の授業だったのでしょう?

 授業のねらいは?

 dolceさんは,茶の摘み方の指導をすること,中学生を労働者として使うことが,教師の仕事だと思っていらっしゃるのですね?

 「茶摘みを仕事にしている」中学生って,これはこれですばらしいのかもしれませんが,今も続いていますか?

 何時間,子どもは茶摘みをするのでしょう?

 授業時間で摘める量は「製品にできる」ほどの量なのでしょうか?

 次は細かい質問ですが,

>茶摘みの場所は、全国一の生産高のところです

 これ,静岡県のことをおっしゃっていますか?

 それとも,市町村の単位?

 いくら後継者不足といっても,中学生が教師の指導のもとで労働者として茶摘みをしているというのが,どうも解せません。

 そういう体験用に,お金をとって体験させる,という「観光農園」的な茶農家や組合があるのは知っていますが・・・。

 いずれにせよ,茶摘み体験をさせること自体には,問題はないのです。

 問題なのは,その指導のあり方なのであって。

 ・・・・議論をされたそうなので,ご回答をいただくのが楽しみです。

 ただ,dolceさんの今回の反論記事はかなりポイントがずれているので,ちょっと心配になっていますが・・・・。

 健在なところは相変わらず絶好調なのですけど。

 もし本当に,「●●小出身者は待っていてね」という指示が,「ふつうの授業でなされること」の不適切さを認識できないのであれば,その点についても,議論をしなければなりません。

 もはや,ワンパターンの,「すべてにあてはまるわけではない」という指摘は不要ですよ。

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dolceさんが紹介してくれた指導力の低い教師の事例を解説します

 一生懸命考えて出てきたネタが,

 「小学校時代に茶摘み体験がある中学生に先に茶摘みをさせ,その体験がない中学生を待たせる」というケース。

 もしかしたら,「茶摘み体験があるために早く作業がすんでしまった生徒を待たせておく」のかも。

 しかし,これを「授業中のケース」と呼ぶには,あまりにも特殊な事例すぎますね。

>例えば、授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

 というdocleさんが紹介されていた事例について,

 私が,ふつう,授業中にそういう指示の仕方をする中学校教師はいない,と書いたら,なんだか過剰な反応がかえってきましたが,

 この「茶摘み」が「ふつう」のケースではないのはだれの目にも明らか。

 しかも,その指導のあり方がまたまずい

 ふつうは,茶園に行くまでに,「茶の摘み方」などは指導しておくのが常識。

 そこで初めて「摘み方を指導する」のはおかしい。

 また,早く作業が終えた子どもを待たせておく,というのもおかしい。

 どういうケースを想定しているのか,はっきりわかりませんが。

 出身小学校別にグループをつくらせて茶摘みさせるよりも,茶摘みの仕方をよく知っている子どもと,未経験の子どもを同じグループにして,子ども同士でやり方を教え,教えられながら作業を進めていくというふうに指導するのが「ふつう」ですよ。

 籠はそんなに大量にあるわけではないですから,必ずグループで茶摘みをすることになる。

 もし,本当に「戦力」として子どもが使われているのだとしたら,「待っているひま」「待たせておくゆとり」などないですよ。

 あと,こちらは茶農家の方と親しいですから誤解のないように書いておきますが,

 茶農家さんにとってのこの時期というのは,年間の大部分の収入を得るほど,重要な期間です。

 しかも,手摘みの茶は高級茶であって,売り物になる茶の収穫を小中学生に手伝わせているというのも,非常にレアなケースです。日本の場合,茶は摘んだらすぐに次の行程に入らないと,発酵してしまいますからね。

 収穫は,基本的に機械で行われます。

 とにかく,時間との勝負なのですから。
  
 こういう時期に「茶摘み体験」ができるのは,よほどの余裕のある農家です。

>日本人の生活になくてはならないお茶ですが、こうした子どもたちが担っている

 将来は担う人がいるかもしれませんが,・・・・・。

 どうもご自分の書くことに関しては,鏡で反射してしまうよう。

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ミラーニューロンの活躍で不登校は減らせるか?

 日経ヘルス&プルミエの記事に,「ミラーニューロン」=「物まね神経細胞」のはたらきと意義が紹介されていました。

 目で見た人の動きを,体が勝手にまねするようにはたらく神経細胞

 無意識のうちに「自分も同じように動け」と命令を出し,「同じような動きをする」ことで,

 「行為の意味を理解する」というしくみ。
 
 ミラーニューロンの起源は,「自分を自分と感じるシステム」であったとも。

 自分の体を動かすとき,脳内の命令と,目で見た体の動き が一致すると,

 「これは自分の体だ」という一体感が生まれる。

 こういう話を聞くと,今までかなり否定的だった

 「ダンスの必修化」も,「ミラーニューロン」の活動機会拡大につながり,ひいては「不登校の減少」につながるのではないか,という期待感まで抱いてしまいました。

 鉛筆をくわえた状態だと,相手の微妙な表情の変化が読み取れなくなる,とも言われています。

 これはかつてどこかで読んだ記憶がある。

 それは,顔の筋肉の「使用制限」がはたらいているからで,それが「心で理解することの可能性を制限」することに結びついているとのこと。

 顔の筋肉も含めて,体の動きをもっと解放してあげることが,「心の感度」をアップさせる効果がある。

 小学校では教師たちは,とにかくオーバーアクションで,大げさな表情や動きをするものですが,そこには「それをまねさせて,心の反応をよくする」というねらいがあったのかも。無意識的にも。

 中学校段階の教師になると,「大人げない」こととして,派手なことは避けるのがふつう。

 しかし,以前に書いたことですが,「指導力のある教師」の資質の一面として,

 大した話ではなくても,大げさに喜んだり,大げさに驚いたりする傾向が見られる。

 ・・・・これが,相手の「心をつかむ」コツなのか?

 そういう機会にめぐまれないことが,「中1ギャップ」の原因のひとつか?

 可能性の一端を留保して,中学校の教師は,一度は,上がってくる小学校の児童たちの担任の授業を参観すべきでしょう。

 高学年になってもオーバーアクションの教師の児童たちには,まだそれなりの「動き」をみせてあげるのが大事なのかも。

 小さい時に,様々な感情を示す家族たちを間近で見て,それを無意識にまねする自分がいて,相手の感情を理解しつつ,自分が自分であることを理解することができた中学生と,そういう子ども時代を過ごすことができなかったことを教えてもらっている中学生では,「表情の豊かさ」に大きな格差があることは,多くの方が経験上知っていることでしょう。

 中学校段階で,そういう「経験の不足」が補えるかどうか。

 縁起でもない話ですが,いよいよ連休明け。

 明日から「登校しぶり」「体調不良による欠席」が増え始めます。

 最初のアプローチが大切です。

 ダンスセラピーは学校教育に応用可能?転移可能でしょうか?

 専門家の方で,すでに論文等を発表されている人はいるのでしょうね。

 検索上では,『ダンス・セラピーの理論と方法 舞踊心理療法へむけての序説』(八木ありさ著,彩流社)という本があるようです。

 中学校体育の導入段階からダンスを取り入れれば,不登校は減らせる?

 もちろん仮説にすぎませんが。

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喜劇としてのヴァレンヌの悲劇は続く

 かつてのdolceさんの実践記録には,

 ご自身が保護者から「担任おろし」の要求を受けた,

 という貴重な情報がふくまれていました。

 それが貴重な情報であると判断できる理由はたくさんあるのですが,ここでは1つの理由にしぼります。

 確かそこには,保護者からの「専科の教員への不安・不満」が背景にあったと分析されていたと記憶していますが,
 
 問題解決能力というのは,

 あらかじめ問題の原因になりそうなことを特定し,それ以外の選択肢を消すことではなく,

 まず問題になりそうなことを多角的に考えて,可能性のあることに気づく姿勢というのが大切になるのです。

 そういう姿勢がないと,悲劇なのに喜劇に見えてしまうのです。

 それが悲劇なのです。

 世界史でヴァレンヌ事件の説明を受けたときと同じような感覚に襲われています。

 教育現場では,この類の問題が山積しすぎていて,

 解決意欲すら失われているのが現状です。

 それに気づいている人は,見切りをつける。

 私が自分がその仲間であることを認めたくなくて,こうした記事を書いているのかもしれません。

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dolceさんには通じない言葉

 dolceさんには,

 「武士に二言は無い

 という言葉の使い方が通用しないようです。

 「武士」とは何か?を武士なりに考えて,出している答えが,すべての武士にあてはまるとは,だれも考えないのが普通です。

 「中学校教師」とは何か?どういう存在であるべきか?を中学校教師なりに考えて,語っている言葉が,すべての中学校教師にあてはまるとも,だれも思っていないでしょう。

 「教師」や「元教師」が,公の場で見ず知らずの人の言葉を聞いて,子どもの見ている前で「おまえは頭がおかしい。こんな病気の症状と似ているな」なんてことは言うはずがないと言ってみても,現実問題としてはそういう人間はいるかもしれない。

 相手を「超能力者」と揶揄したりするのが問題解決への道ではなく,

 こういう場面では,こういう理由で,こういうことを言う可能性がある,と指摘する姿勢が,教育現場にも求められているはずでしょう。

 問題解決能力を自分で語ることはできても,問題解決を実践することはできない。

 それが実践できないことを,他者のせい,「頭のおかしい人たち」のせいにする。

 こういう人に自覚をもたせることができないでいる,「教育界」の無力さ加減にあきれて,失望してしまう人が,「産業界に取り込まれてる教育界」に子どもを任せようとしているのでしょう。

*********************

 わざわざ私の書いていることの裏づけとなる文章を公開してくれました。

 感謝いたします。ようやく「k氏」と呼んでいただいたことも。

 隠されたメッセージに気づくことができるような想像力があれば,問題は解決するのでしょうが。

 自作自演をカモフラージュできるチャンスもあったのに,ヴァレンヌの悲劇は続く。

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ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる

 海軍大臣山本権兵衛が,東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したとき,明治天皇に

 「運のいい男だから

 と説明したそうです。

 この一言だけからも,いろいろなことを考えることができます。

 日露戦争というものへの当時の軍人の考え方

 優れた指揮官の資質

 内田樹は,武人の優れた資質に,

 「ないはずのものをあらしめることによって,あるはずのことをなからしめる

 ことができる力を『安宅』の弁慶もひきながら,紹介しています。

 (内田樹著『街場の読書論』太田出版)


 起こるはずのことが起こらなかった場合,

 それがなぜ起こらなかったのかを後から説明するのはとても難しい,というか,説明したとしても,具体的な根拠があげにくい。

 これが,起こるべくして起こった場合は,後からいくらでも根拠をあげることができる。

 教育の世界にも,説明できないたくさんのことがあります。

 ベテランのAさんの学級が崩壊し,新採のBさんの学級が,とてもよい状態を維持している。

 これを聞いた瞬間に,Aさんは人柄に課題があり,Bさんには情熱があったのだろう,などと想像するのが,「精神主義」「情緒主義」の人間。こういう人は,「感動する」のが好きだから,よい方向に向かっているときは周囲も迷惑しませんが,いったん負のスパイラルに入ると,破滅するまで抜け出すことができない

 歴史を学ぶと,日露戦争と勝利と,アジアと太平洋地域における戦争の敗北には,共通する背景があることに中学生でも気づくことができる。

 Aさんのどのような行為が,崩壊を招いたのか,と同じくらいに,Aさんがどのようなことをしなかったことが,崩壊を招いたのかも考えなければなりません。

 Bさんがどのような行為をしたから,よい状態が維持できているか,と同じくらいに,Bさんがどのようなことをしなかったために,よい状態を維持できているかを考えなければ。

 やがて,Aさんの学級は秩序を取り戻し,今まで経験したことのないような成長を子どもが見せることになるかもしれませんし,Bさんの学級が崩壊し,今まで経験したことのないような荒れを子どもが見せることになるかもしれない。

 ベテランのベテランらしくあってほしい点は,「このままではまずいな」という「アラーム」が聞こえること。

 残念ながら,その「アラーム」が聞こえてないな,と思われる人が教育現場にいる。

 案の定,ということもあるし,「結果オーライ」的な,「よく何も起こらなかったな」と安堵できることもある。

 本当に指導力のある人というのは,「なぜこの人のもとで子どもがちゃんと成長しているのか,理由がわからない」人のことなのかもしれません。

 自己教育力という便利な言葉が教育界にはあるんですね。

 こんなことを東郷さんに言うのは失礼なのでしょうけれど。

 ************

 最後に一言。書き忘れていました。

 今の学校教育の問題。

 あるはずのものをなからしめることによって,ないはずのことをあらしめる

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無遠慮なカルロスさんの態度は,嫌いではありません

 私には,しょうさんとも,カルロスさんが「情熱の先生」と呼んでいる人とも,「教員養成の先生」とも,コメント欄を通じての長いやり取りがあった末に,「言いたいことを言い合っている」「お互いに書きたいことを書いている」という経緯があります。

 「情熱の先生」の場合はコメントの書き込みができないために,ブログの記事上でこちらの伝えたいことを伝えざるを得ないという事情もあります。それも,相手が読んでいただいている,ということが前提になっています。

 「公開書簡」ですね。
 
 ただ,カルロスさんの場合は,ちょっと違いますね。

 自らの個人的な事情を前提にした上で,記事を公開し,割と一方的な「公開書簡」を出されていらっしゃる。

 人によっては「教員の行動は社会の非常識」と見られるかもしれませんね。

 しかし,私の場合は,だからといって「排除」することはありません。真理を追究しようとする情熱は,ときに「非常識」な行動をともないます。「非常識」な行動によって,たいていは「おかしな常識」が崩されていくものです。

 ただ,他人のブログの記事に,ふれられていないことがあって怒ってしまうというのは,あまりに行きすぎでは?

 たとえば,私が自分の子どもを水難事故で亡くして,そのことを思い出してしまうので,記事を書かない,という事情があったとしたら,それでもカルロスさんは,

 同じ境遇の人間の立場になって,情報を発信すべきだ!

 と主張されるでしょうか。

 私は,「心」の問題にはあえてふれようとはしていません。

 それは,それにふれることで,正しい判断を誤る人というのが必ずいると思われているからであり,「心の問題」として片付けようとしてしまう人がでてくるからであり,何よりも,それが「人の心を操作する手段」として現実的に使われていることを知っているからです。

 「本当に心がやさしい人」「思い悩んでいる人」と周囲から思われている人には,「なかなか言いたいことも言えなくなる」のが普通の人の心理でしょう。

 それまでの職場環境などはある程度明かしているとは言え,匿名と言う立場で,そして,「教育問題」について語る,という場合には,リアルな人間関係のような「情緒的な言葉のやりとり」は,極力省いていくべきだと私は考えています。

 お世辞もけっこう。話を聞いた感想・・・感動しました,共感しました・・・というメッセージも大切だと思いますが,それを聞くことを目的に「教育論」を書いているような人はいないでしょう。

 「やさしい言葉をかけてくれなければ,気に入らない」という子どもはカルロスさんの近くにはいませんか。

 中学校入学当初,こういうタイプの子どもをけっこう目にします。

 小学校時代は,担任教師から,そして,家庭では親から,「褒められ続けて」生きてきたのでしょう。

 何かしたあと,私の前にやってきて,「褒められるのを待っている」子どもに毎年のように遭遇します。

 「どうかしたの?」と聞くと,意外な表情,ちょっとがっかりしたような表情を見せるので,

 直接的に言うわけではありませんが,

 「ここは,当たり前のことを当たり前にやって,いちいち褒められる,そういう場ではない

 ことを一斉に指導することになります。

 もちろん,落としたプリントを拾ってくれた子どもに「ありがとう」という言葉をかけるのは,当たり前のこと。

 悪いことをしたとき,「謝り方だけは一人前」という子どもはいませんか。
 
 誠意を込めて謝れば,何をしても,大人は許してくれる,そんなふうに育ってきたのであろう子どもをみると,本当にがっかりします。

 話がそれました。

 情の管理と知の管理は,なかなか両立しないと言われます。

 小学校には知の管理は不適切だ,というご意見もわかります。しかし,情の管理というのは,結局は本人の心次第というわけで,現実的には「甘えの助長」につながるおそれがあるのです。

 「荒れたクラスもあったなあ」なんてとぼけたことが堂々と文字にできる,元管理職には,管理能力がなかったことがありありとしている。

 知の管理がイコール「非情の管理」という印象を広めたい人たちには,「甘えられる源泉」を保持しておきたいという「甘え」がありませんか。

 制度も含めた,教育の問題,教師の問題・・・・現実を直視すれば,過去のことをもとにした感動や共感にとらわれることなく,未来の話をしなければなりません。

 何をどうしていくべきなのか。

 心と心の交流は,リアルな世界でのやりとりを重視してください。

 出会い系サイトのようなものでだまされた子どもの指導をしたときによく言うことです。

 書かれた言葉だけで相手をどういう人間か,判断してはならない。その目で実際の人物を見るまで,

 「カオナシ」だと思ってやりとりすること。

 まとまらない話になりました。

 情の管理を重視するにせよ,知の管理を重視するにせよ,最終的には,人間一人一人,教師一人一人の自覚が芽生えないと,何も変わりません。

 自覚がない人に,「自覚をもて」というのは,

 勉強ができない子どもに,「勉強しろ」というのと同じ。

 小学校の教師と中学校の教師の違いについても,考察していただくきっかけになれば,幸いです。

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コンピテンシーモデルに対する誤解をどうか解いてください。

 カルロスさんは,

>コンピテンシーモデルを考えると、必ず見えるのが、そういう同じ顔をした無表情なマネキン。

 とおっしゃいますが,私のモデルから,そういう画一化された教師像が描けるかどうか,どうぞ再考されてみてください。

 簡単に到達できない目標に向かって努力するのが,知性をもった人間らしいところです。

1 自分自身に対する,厳しい姿勢を維持するための
 自己統制力
 自己展開力
 自己変革力


2 他人に対する,あたたかく,厳しい姿勢を維持するための
  対人関係力 (関係構築力)
  対人指導力 (対人サポート力)
 対人変革力


3 個人としてだけでなく,組織として,強い意志と行動力をもって成果を出すための
 成果追求力
 成果統合力 (チーム成果志向性)
 成果創造力


4 成果を実現するための効果的な方法を考え,実行するのに必要な
 戦略遂行力
 戦略立案力
 戦略創造力

5 戦略を生み出す思考を働かせるために必要な
 論理追求力
 論理統合力 (フレームワーク構築力)
 論理創発力 (ビジョン構築力)


6 効果的な戦略を生み出し,効率的に実行するために必要な
 情報追求力
 情報活用力
 情報創造力 (情報発信力)


7 時間を有効に活用するための
 効率追求力
 効率調整力 (組織効率極大化力)
 効率創発力 (自己効率極大化力)

 マネキンには,教育を変えることはできません。

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「心のふるさと」としての小学校

 だれの言葉だったでしょうか。

 小学校のころは,情緒ができあがる時代。

 中学校から,高校にかけては,知性とかができあがっていく時代と。

 情緒,心の成長を支える小学校の教師の役割は,その面で,特に大きなものに。

 情緒の安定を最大限に重視しようとすれば,各教師のふるまいの仕方もおのずと決まってくることでしょう。

 もちろん,中学校や高校では情緒の面を軽視してよい,というわけではありませんが,情緒面から見るとハテナでも,知性や運動技能,指導技術の面から尊敬される先生がたくさんいる。

 なぜあんな鬼のような人間を,みんなが慕っているのか・・・・外部から向けられる目というのは,一種,羨望のようなものですね。

 ・・・・岡潔の言葉でした。

>なかでも,中学校時代には知性とか意志とかについて,夜がまさに明けようとしてなかなか明けきらない長い朝ぼらけのような時期です。(『風蘭』)

 教師として,この微妙で「はっきりとは見えない」はずの変化の瞬間に出会えることが,授業をしていて,生活指導をしていての最高の醍醐味でしょう。

 人間は,ほめられると態度が一変するものです。子どもに限らず,大人も。

 情緒面から見れば,人間というのは本当に単純なものです。

 でも,相手の中から本当の力を引き出すためには,直接的な言葉は適しません・・・・・というか,素手でつかみあげるようなことは,したくはない。

 間接的な言葉。手は出さない。

 人がいて,できるようになって,喜ぶのも,いいでしょう。

 でも,知性や意志は,人がいなかったとしても,自分の力でできた,できるはずだ,と思える喜びを味わうことで,より強く成長するものと信じています。

 情緒,心が簡単に乱される人がいます。

 通じ合わないことの違和感に勝てない人がいます。

 小学校時代を思い出しましょう。

 そこに,情緒の安定を支える「小さな社会」があったのですね。

 学校生活の出発点に戻って,先を見れば,何が見えてくるでしょう。

 「変われる自分」への自信を取り戻せる場が,小学校でしょうか。
 
 中学生は今,「自主・自律」の意味を,真剣に考えています。

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カルロスさんに「内申書」の意味をお示しします

 *一部,加筆いたしました(4日,0時35分)

 小学校の先生はご存じないかもしれませんが,

 中学校の教師が高校入試のためにつくる資料=調査書,通称,内申書は,

 中学校の教師が恣意的に内容を操作することはできません

 小学校の教師がつくるもののように,子どもの評価情報をほとんど一人の教師が独占しており,評定が本物かどうか,確かなものであるかどうか,公印が押されていてもあやしいものを入試得点に入れるのは公立の中高一貫校くらいなもので,私立中学校はほとんど参考にすることがないのは,ご存知かと思います。

 つまり,小学校の評定は,中学入試に使われて点数化されることは,まずないと考えてよいでしょう。

 これが中学校の評定となると,全く異なります。

 中学校の場合,高校入試のための調査書(内申書)に書かれているもので,入試の合否判定のための材料の中心は,

 各教科の評定です。

 これが大部分。

 ですから,一人の教師がつけられるのは,教科担任としての評定で,9教科中の1教科のみ

 観点別学習状況の評価も各教科担任がつけます。

 実際の評定と提出された評定が一致しているかどうか,

 「成績一覧表」を提出させて教育委員会でチェックします。

 総合的な学習の時間の内容や,部活動の大会での成績,英検などの資格,学級委員などの役名も記入されます。

 高校によっては,出席数も重視します。

 私立高校の場合は独自の調査書があって,遅刻や早退の回数まで細かく記入しなければならない学校もあります。

 今は目標準拠評価ですから,どのような評定がどうやって出されたか,すべての教師がすべての生徒の評定について,きちんとした説明ができなければなりません(これは本当は,小学校も同じはず。2と3はどう違うかが説明できなければいけないのです)。

>ひいきのことがとかく問題となるのは、内申書を書く立場にある中学や高校の教師である

 というのは,いつの時代の話でしょう。

 「内申書を書く立場」の中学や高校の教師は,ほとんど事務的な仕事として,こなすだけです。

 評定の内容を見ながら,志望校までの距離がどうとか話すときには,担任は「心に寄りそう」こともあるでしょうが・・・・。

 地方は今でも,「ひいき」が問題になるのでしょうか。

 「対応の不平等」が明らかになると,今の親はだまっていないのでは?

 親から説明を求められる,という文化がない地域では,いくらでも仕事の手は抜けそうですが・・・。

 そういう親の態度はまずいですよ,ということも,このブログでは訴えかけています。

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遠交近攻の小学校教師たち

 小学校では,個性的な担任の「跡継ぎ」になるとき,けっこう摩擦があるようですね。

 しきたり,というか,学級のルールというか,経営方針というか。

 別の国になってしまう。
 
 あの人のクラスは引き継ぎたくない・・・・そういう気持ちになる教師がいても,おかしくはないでしょうね。

 人によって一番やりにくいかもしれないのは,

 毎日学級通信を出していた担任から引き継いだ人。

 こういう人は,前の年の学級通信にはすべて目を通さなければならないし,自分もある程度は発行しないと,保護者から,また子どもが楽しみにしていた場合は,「さぼっている」なんてレッテルをつけられてしまうおそれがある。

 学級通信も大事ですが,小学校くらいなら,家で学校の話をどれだけできる子どもに育てるかが担任の力量の一部なのに,子どもとの会話の時間を削ってでも,職員室での教員との情報交換の時間を削ってでも,学級通信づくりに精を出す教師がいる。

 小学校なら1人くらい,そういう「声がかけにくい人」がいるでしょうね。

 もっと小学校の教師は,

 校内で「心を寄せ合う」方がいいですね。

 でも,その「機会」がなかなかないのかも。

 授業を自習にして,せっせと全国の研究会に通う教師たち。

 それを学校に帰ってすべての教師の共有財産にしようと努力している人は,どのくらいいるでしょう

 私はかつての職業柄,管理職だけでなく,生活指導主任,教務主任などから,公的にも,そうでない場でも,ありとあらゆる愚痴を聞く機会がありましたが,一番気になるのは,

 すぐ近くの人とは距離をすごくとって,

 研究会などの仲間とは,本当に情報交換し合って,よい関係を築いている人の存在です。
 
 もっと校内で主導的な役割を果たせるはずなのに,

 「もったいない

 というのが,私の印象でした。

 
 カルロスさんは教職経験何年目の方かわかりませんが,記事を読ませていただく限りでは,とっくにリーダーになっていなければならない人でしょうね。

 しっかり育てたい子どもの範囲が,「王国」内か,「学校」内かの違いが,大事なところです。

*****************

 近くを攻めている状態ではなくても,守りは堅い,という特徴もあります。

 一番いいのは,「いい人」であろうとすること。

 これが一番,「批判を受けにくくするこつ」です。

 「人柄がいいから,許してあげよう。

 対子どもでも,対教師でも,対保護者でも。

 これで得をしている教師は,数知れず。

 「褒め合う」「讃え合う」文化は,すばらしいです。

 でも,いったん牙をむくと,怖い。

 子どもが一番おそれているのは,それなのです。

 一番信じていた人が豹変する姿を目の当たりにした子どものショックは,はかりしれない。

 子どもも無意識にそれを知っているから,・・・・。

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中学校1年生の5月危機に備えて

 中学校1年生の当初は,授業をしていると,子どもたちの

 「反応のよさ」に,教師のたちの気持ちも高まります。

 挙手は多いし,とにかく授業に集中している生徒が多い。

 しかし,そういう姿も,やがて見られなくなっていく。

 授業がわからなくなっていく,子どもの学力の問題や,教師の指導力の問題は,ここでは置いておきます。

 課題は,

 「同調性圧力」に慣れていた子どもが最初に遭遇する「排除圧力」との戦いです。

 授業で子どもがとても「いい反応」をしている,というのは実は教師の自己満足にすぎない面もあります。

 それは,大した話でもないのに「バカウケ」する状況。

 「みんながウケているときに,自分だけしーんとしているわけにはいかない」という同調性圧力への屈服という姿であるという解釈もしてみることが大切です。

 こういうことが積み重なると,自我が芽生えた子どもたちにとっては,やがて「周囲に合わせる」ことが負担となってきて,自分と周囲のどちらに合わせるべきか,悩むようになっていく。

 それが,正しい子どもの姿なのでしょうが,

 あまりに早い時期に「周囲に合わせる」ことをやめると,今度は

 「排除圧力」を受けるようになる。

 これを,「排除圧力」と感じてしまうかどうか。

 小学校から,「違うことがよいこと」と教えられている子どもは,それほど気にはならないかもしれませんが,「排除圧力」の中には,非常に強力なものもある。

 みんなが手を挙げていると,自分も手を挙げないといけないように思える。

 みんなが先生の話にウケると,おもしろくなくても,自分もウケないといけないように思える。

 排除圧力を排除するための心のはたらきです。

 こうした,群れで飛んでいる鳥のように,先頭に合わせて瞬時に方向を変えるような動きは,

 クラス目標として

 「One for All」「団結力」などという言葉を強く使ってしまうようになると,なおさら「至上命令」として従わなければいけなくなる。

 生きていくために,一緒になる。

 本当は,「All for One」「個性」が大事なのに,中学校1年生にクラス目標をつくらせると,「まとまり」の方を優先させてしまう。

 日本では同調性圧力は空気のように当たり前のものですから,こういう「全体主義」的な目標ができても,「すばらしい目標だ」という印象の方が強い。

 こういう状況で,自我の芽生えが早い子どもが,

 群れから離れる行為

 をした場合,どうなるか。

 これは,自分の意思で行ったことだから,排除圧力や矯正圧力が加わっても,そんなに問題ではないかもしれません。

 しかし,自分は群れで飛んでいきたいのに,

 群れから追い出されるような行動を周囲からとられた,と感じてしまうと,どうなるか。

 子どもは,学校に「居場所」がなくなった,と思ってしまう。

 自分と言う存在が承認されない場所は,自分がいるべき場所ではない,と思ってしまう。

 成長すれば,自分の「居場所」は自分でつくる,ということがわかるのですが,周囲がそれを用意してくれるもの,と思っている未成熟な子どもは,「居場所」がない学校に行きたくなくなってしまう。

 これが5月連休後の「危機」です。

 4月当初から,

 だれもが「居心地がよい」と感じる場所というのは,

 みんながいつも同じでなければならない,同じである,そういう場所ではなくて,

 「違いが認められる場所」なのだ,

 という前提で指導されていれば,子どもたちは周りの子どもたちの「変化」に正しく対応できるようになる。

 「変化」への「誤った対応」が,「排除行動」なのです。
 
 「お前がそういう態度だから,私たちの居心地が悪くなる」という態度を,教師がどうコントロールしていけるか。

 これが5月の生徒指導の重点課題となるのでしょう。

 5月は,教師の側も,個人の「失敗」を「成功をつかむためのヒント」ととらえて,本人だけを責めるような指導の仕方を避ける。

 ただ,全体に対しては,「違いを認める原則」を徹底させるために,強い指導に出る。

 どんな指導をしても,おそらく不登校を開始する生徒はゼロにはできないでしょう。

 「そこに至る経緯」を,どれだけ深く分析できるか。

 失敗から学べる学校づくりは,子どもだけに強いるのではなく,教師自ら実践していかなければなりません。

***********

 ところでカルロスさん。

 小学生は,中学生と比べたら,未熟な存在です。

 小学校が悪いわけではありません。

 まだ成長できていない,それだけのこと。

 あまり小学校の先生は,責任を感じすぎない方がよいですね。

 責任感が強すぎる先生のクラスから上がってきた子は,息をつける場所がなかなか見つけられずに,力尽きていくことがあります。これも5月危機の一つでしょう。

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小学校7年生の教育方針

 中学校1年生,何とか4月を無事に乗り切ることができたでしょうか。

 この時期から問題続出という学校は多くはないと思いますが,もし「もう始まっている」学校があったとしたら,それをチャンスと受け止めて,学校全体でバックアップしてもらえるとよいですね。

 中学校1年生の最初の危機は,連休後に訪れます

 緊張感が一気に緩んだ後の,

 「小学生がえり」を一時的なものにできるかどうかが,中学校での3年間を決定づけるといっても過言ではないでしょう。

 小学校がえり,とか,小学校7年生

 という表現は,小学校の教師からはあまり快く思えない表現かもしれませんが,

 小学校がそうだ,という意味ではなく,

 中学校入学後,1か月くらいはできていたのに,緊張が緩んでしまってできなくなってしまう・・・・そういう「現象」のことを表している言葉だとお考えになってください。

 中学校では教室移動も多いですから,体育の次の特別教室の授業といったら,子どもは大慌てです。

 ちょっとでも体育の授業が延びてしまったら,「休み時間」どころではありません。

 体育の授業中よりも速く走っている子も見られます。

 中学校に入ったら,「時間厳守」はすべての生活に求められることですから,「授業遅刻」などあってはならないのです。

 小学校では,「20分休み」の終わりのチャイム=次の時間の始まりのチャイムが鳴っているのに,まだ遊んでいる,担任教師は,ただ集まるのを待っている,なんて姿が見られることがありますが,中学校ではあってはならないことです。

 「小学校がえり」には,次のようなものもあります。

 「すぐに担任教師をたよる」傾向。

 小学校は一人親が常に自分の家=ホームルームにいた環境であったのに対し,中学校ではそれにあたる人物はいつも出かせぎばかりしています。

 教師への依存心が強い子どもは,後述の状況に陥ったとき,不安で学校に行けなくなる場合もあります。

 入学したばかりの子どもたちは,10人くらいが同時に質問してきたりします。

 順番が待てる子どもと,常に自分と教師との関係が1対1であり,教師は自分のことを優先的に扱うのは親と同じで当たり前だと考えている子どもの違いがはっきりわかります。

 また,小学校時代,担任の期待に応え続けていた「よい児童」が,中学校では生徒の役割の多様化・多角化から,自分自身の存在意義を見失って,不安定な状況に陥ることもあります。

 学年主任の立場なら,「どういう目で担任を見ているか」で,中学生になれたか,小学生のままかの区別をつけることもできるでしょう。

 「中学生らしくなれたね」と言えるタイミングは,たとえば,

 ○教師がいないときでも,だれ一人遊んだりさぼったりすることなく,清掃活動ができたとき。

 ○教師に言われなくても,今,何をするべきかをきちんと判断することができて,進んで動けるようになったとき。

 ○集合や解散時に余計な口をきかなくなったとき。

 これができないと,中学校の教師はよく,

 「小学生に逆戻り」「小学校7年生」などと言って,別に小学校が悪いと思って言っているわけではなく,中学生としての自覚をもたせるという意味で「刺激」を与えます。

 連休後の危機には,こういうタイプのものもあります。

 ●自分が担当している仕事で,ミスをして,そのまま「つぶれてしまう」生徒。

 ●小さな失敗でも,その「挫折感」があまりに大きくて,なかなか自信を取り戻せなくなる生徒。

 ・・・・中学生になると,1人1人の役割が多くなって,学校内をかなり広い範囲で動き回るようになります。

 広がるのは行動範囲だけでなく,交友範囲も,学習範囲も,上級生との関係も,教科担当の教師との関係も,学年の教師との関係も,生徒指導部などの教師との関係も。

 小学校とは比較にならないほど多くの「関係性」が生じますから,それぞれの場での「ふるまい方」で神経を使う子どもは,それだけで疲れ果ててしまいます。

 疲れるだけならいいのですが,問題は,「ミス」で責められてしまったとき。
  
 こういうとき,自己否定が極端に強く始まり,明るかったはずの中学校生活の展望が一気に闇に閉ざされるようになってしまう子どももいます。

 授業の持ち物を聞きに行ったり,提出物を回収して担当の教師に渡しに行ったり,未提出者に催促したり,・・・・教科の係になった子どもたちは,最初,よくある「ミス」をやらかしてしまう。

 ●授業の連絡をするとき,持ってこなければならない物の指示を忘れてしまったという場合。

 ●授業連絡を先生に聞きに行くのを忘れたという場合。

 こういう場合は,5月の段階では,

 「貴重な(失敗の)経験」「他の人もミスする可能性が高いこと」などという評価の仕方をして,

 「失敗しても,同じミスを繰り返さなければよい」「失敗は,しっかり反省できていれば許される」などということをわからせるような指導方針の徹底を,学年及び教科担当の教師にお願いしておくべきでしょう。

 教師によって言っていることややっていることの違いに,戸惑う子どもが多いのも,中学校1年生の特徴です。

 世の中はそういうもの,と気づかせることも大事なのですが,やはり「不統一感」の中でも,「理不尽だ」と思われることについては,中学校ではヨコの情報交換をしっかりして,最初のうちは「ばらつき」をなくした方がよいかもしれません。

 時間が立てば,「同じ」ことよりも「違う」ことに子どもは意味を見いだせるようになっていくでしょうから。

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やっていい失敗とやってはいけない失敗がある

 小さい時も,親から,先生から,よく耳にした言葉です。

 積極的に行動して,失敗するのは,次につながる。

 チャレンジして,失敗することで,くよくよしていてはいけない。

 消極的に行動して,あるいは,行動をおこさないで,よくない結果を招くような失敗は,何にも結び付かない。

 私が「教育失敗学」という言葉を使い始めたとき,ある人は,

 「教育に失敗は許されるのか?

 と私に問いました。

 そのとき何と答えたか忘れてしまいましたが,

 今なら,

 「教育は失敗の連続です。そういう意識が,よりよい教育を生み出します」

 「教育の成功体験も大切ですが,その次の段階として,同じことを繰り返せば必ず成功するとは限らない人間の教育のあり方を見つめ直して,常に厳しい目で自らの実践を振り返ることが重要です」

 「失敗を恐れる教師は,結局,何もできず,『例年通りで』『今まで通りで』しか言えない。こういう人に,未来をきりひらいていこうとする意欲をもつ子どもを育てることが可能でしょうか」

 「新しいことに取り組むとき,必ず反対する人がいます。そういう人は,失敗を極度に恐れているのです。そういう姿勢では,現状の問題すら解決することはできないでしょう」

 「失敗を認めるのが本当の『ゆとり』であり,そこから本当の成功への希望が見いだせます」

 などと返事ができるのでしょうが。

 本田宗一郎のような,製造業の人の言葉を,

 「教育の世界とは違う」と切って捨てることはできません。

 教師の中にも,小さな「失敗」への後悔で頭の中がいっぱいになってしまって,前に進めなくなる人がいます。

 子どもと同じです。

 教師教育という分野が,もう少し,脚光を浴びてもよいのかもしれません。

 これは,以前も申し上げましたが,大学による「アフターサービス」のような機能も含めて,「教師はだれがどのように育てていくのか」を真面目に議論すべきときに来ているようです。

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悩める中学生を動かせる教師とは?

 読まなくなった文庫本は,みんな教室に持って行って,置いておくか,子どもにあげてしまうのですが,家から運ぼうかどうしようか迷った一冊。

 『人生の達人・本田宗一郎』・・・・・坂崎善之著,講談社文庫。

 最初の一言が,

>人を動かすには,他人の気持ちになりうる人でなければならんね

 で,先ほどの記事を書きました。

 中学生と接していると,一人一人の「悩み」にぶつかることがあります。

 完全にバリアで外の世界を遮断している子どももいれば,

 表情だけで多くを語っている子どももいる。

 中には,小さな入口を広げて待っている子どももいます。

 声をかけるタイミングや場が,その子どもとつながれるかどうかのすべてなので,これは半分以上,その場の空気や「運」がすべて。

 中学生くらいの子どもは,心だけでなく,心や体を覆っている空気も繊細にしています。

 本田宗一郎は,前の言葉にこう加えています。

>その代わり,自分が悩むね。自分が悩まない人は人を動かせないと思うな。悩む経験を持っていないような者のために人は動くもんじゃない

 子どもは大人の背後にあるものも微妙に感じ取って,大人との距離をとっています。

 中学校から高校くらいになると,問題を抱えている教師の方が,子どもとの距離が近いのかもしれません。

 小学校は,全く逆だというのが,気の毒な子どもたちを見て知っている私の認識です。

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人の気持ちがわからないのか,と責める人が,人の気持ちがわからない

 タイトルだけで,十分?

 人の気持ちを察することを,小学校のころからとても強く要求される日本の教育。

 同調性圧力の強さは,小学校が最強か。

 それで,疲れて,麻痺してしまうのかも。

 気持ちを読まれないようにするために,とても疲れている子どもたちがいます。

 正直であれ,とも要求される子どもたち。

 気持ちを読まれてしまっているのに,気づかないのか,気づこうとしないのか,言っていることとやっていることが違う大人がいます。
 
 子ども時代の経験が,人生を左右する・・・・納得していいのか,悪いのか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より