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dolceさんの「情報教育」観はいつのもの?

 教育現場への誤解

 教育に情熱をかける教師への誤解

 学校教育への誤解

 教育観への誤解

 を招くおそれのある,dolceさんの記事を指摘するためにあるブログのようになってしまっていますが,次々にあふれ出てくるので仕方がないでしょう。

 情報教育については,文科省が最初の「手引き」を出してから20年以上が経過しています。

 その見直しが行われたのが,10年前です。

 この間,私も実践をしながら,その効果や課題についていろいろ考えてきました。

 ただ,

>大人にこの質問をすると、子どもはパソコンに強いと言う人が多い。
>どうして、そう思うのだろう。
>私はそう思ったこと(子どもはパソコンに強い)と思ったことはない。
>むしろ、大切な仕事に使うパソコンは子どもに触らせないようにほしいと言う。
>もちろん、パソコンの持ち主が、パソコンをどのように使うかは自由だが、サボートを依頼される立場としては、滅茶苦茶にいじられたパソコンは非常に面倒だ。

 のような記事があると,

 「学校ではどのような教育をしているのか?

 と疑問に思われる方もいるでしょう。

 まずは仕事用のコンピュータを子どもに触らせない,というのは当たり前のことで,「滅茶苦茶にいじる」というのは指導力がない教師が教えるからそうなるだけのことです。

 まず,「子ども」が何歳から何歳までを想定しているのか,わかりにくいですが,

>平気でいきなり電源スイッチを切ったりする

 というと,小学生低学年のような気もしますし,

>子どもがパソコンに強いと言っても、EXCELの簡単な計算ぐらいは直感でわかるようになるかも知れないが

 というと,中学生の話をしているような気もする。

 しかし,中学校では技術で学びますから,「平気でいきなり・・・・」はない。教師に指導力があれば。

 dolceさんが使っている「パソコンに強い」という言葉の意味は,以下の部分から読み取れます。

>会計に使おうということになれば、財務知識も必要であり、一般の小中生では無理だろう。
>もちろん、そういうことにも太刀打ちできる小中生が出てほしいと思うが、もし、そのような小中生が登場するようになったらも真の意味でパソコンに強い子どもの登場ということになるだろう。

 要は,財務会計ソフトが使えたり,マクロを作れたりする子どもが,「パソコンに強い子ども」ということ。

 教員経験者には,一般社会の常識的な言葉が通用しない人がいる,その典型例です。

 dolceさんには,その自覚もおありになる。

>子どもはパソコンに強いと言う人が多い。
>どうして、そう思うのだろう。
>私はそう思ったこと(子どもはパソコンに強い)と思ったことはない。

 それは,dolceさんの独自の「パソコンに強い人間」観であり,少なくとも「常識的」な見解ではありません。

 ここには,dolceさんも「当然のことだ」と同意されるでしょう。

 課題は何かというと,dolceさんは,「平気で電源を切る」レベルと,「マクロを作る」レベルの間のレベルを見ようとしない。

 小中学生の場合,コンピュータはアプリケーションを動かす「道具」であって,「それ自体を学ぶ対象」ではないのです。

 もし,「設定を変える」などの操作をして,「基本ソフト」の仕組みや「パソコン」そのものの仕組みを真剣に知ろうとする子どもがいれば,復旧が難しいことになったとしても,エジソンさんたちが天国で微笑んでくれるでしょう。

 一般社会の人が「子どもはパソコンに強い」と思うのは,

 dolceさんが言うような,

>なぜ、子どもがパソコンに強いと思うのだろう?
>それは、子どもはパソコンを大胆にいじりまわすことにあると思う。

 ではなくて,

 習熟が早いこと

 新しい学習に抵抗なく入れること

 実際に学習で活用できていること

 などを指して言っているわけです。

>道具として使うということであれば、それでもよいと言えるが、少しは理屈も知らないと、パソコンにとってよくない操作をしていることに気がつかないということにもなりかねない。

 子どもがコンピュータを使っていく上で,ネットならその中身に問題があることはあっても,コンピュータそのもの自体によくない操作をする,というのは,教師に指導力があれば避けられることです。

 今,私が学校で使っているコンピュータは,授業が終わった後,一度,授業が始まる前の状況に戻る仕組みになっています。そうすれば,万が一,生徒が勝手にソフトをインストールなどをした場合,電源を落とせば自動的に削除されることになり,安心して使えます。

 コンピュータというのは,道具として使えれば,一般社会に出ても,大きな問題はないでしょう。

 エクセルのマクロをくんでくれる人は,学校に一人いればいい,それくらいのものです。

 この「少しの理屈」を学ぶのが技術の時間などですが,こわいのは,dolceさんが想定しているその範囲です。

 dolceさんのような「パソコン」大好き人間を育てるためには,コンピュータを滅茶苦茶にいじる子どもを認めるべきだと私は考えています。

 音楽教育にしろ,情報教育にしろ,

 「敷居を高くする」

 のが,dolceさん流の教育方針なのですね・・・・いえ,もう現場にはいないわけですから,

 「自分はすごいぞ」と誇示しているに過ぎないと,考える方が自然でしょう。


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コメント

私の名づけた「ミラー現象」というのは,それが生まれた経緯がわからないと,理解しにくいかもしれませんね。

自分は,自分のことを書いている。

その自覚がない。

それは,鏡に映った自分を他人だと思っているから。

話題の人は、後から自分の書いた文章に無理矢理解釈を付けているようです。
文面に表れた、暗黙の欲求が誰しも、わかりやすいほど良く現れています。

解釈はこの場合、ほとんどこの暗黙の欲求を覆い隠すため?
ご本人はそれほど、世間からすごい奴と認めてほしいという強い欲求に動かされていることは、本人も気づかない。

気づいていても否認が自発的に発動され解釈を付けるということなんですね。

20年ぐらい前、パソコンは100万~200万という時代で、今のようなインターネットも無く、外部にアクセスするときは音響カプラというものを使っていました。無料で接続できるところはほとんど無く、今のような有害サイトもほとんどありませんでした。

今ではパソコンは3万円+2万円のディスプレイ+1万円のプリンタでだいたいそろいます。昨今では有害サイトの罠についてよく教えておく必要がありますが、いきなり電源を切ったぐらいで大騒ぎするほどでもありません。

同時に、その電源が切れた場合、復旧の仕方も教えれば良いのです。停電とかコンセントを引っかけてとか、そういうときのために、教えておけばより習熟度も上がりますし、恐れずに不測の事態に対処出来るようになります。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より