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やっと気づいてくれたdolceさんに感謝!=第一関門突破

>事実のあるないという論点を行為の良い悪いの論点したいのだと言うことです。

 やっと理解していただいたようで,ありがたいことです。

 ようやく「言葉が通じた」という実感がもてました。

 ということは,まだ望みは捨てないでよい,ということになります。

 議論にはなっていませんでした。しかし,ようやく,平行線ではなくなった。角度が生まれたのです

 またまた繰り返しになりますが,

 授業中,早く作業などが進んでしまった中学生に,「中学校の教師は,ふつう,『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』などという指示は出しません」

 と私が書いたのは,それが「不適切な指導」であるからだ,と私が言いたいのだ,という意味が,ようやく通じたようです。

 そういうことを言ってしまうような教師が100%いないなんて言いきれないのは当たり前のこと。

 Aがもし絶対にBをしないなら,そう書くまでのこと。というより,書くまでもないこと。Aは,ふつう,Bをしない,と言っているということは,BをするAがいるのが問題だ,という意味になるのは,文脈を読めば当然わかるはずのことだったのです。

 そういう「不適切な指導」の「不適切さ」を考えてほしいから,わざわざ記事にしているわけです。

 やっと,その部分が通じたようで,まずは第一関門を突破。

 ただ,まだ次のような紹介をしているので,ズレを治すには時間がかかるかも。

>中学校入学後間もなくの掃除の時間、出身小学校別に清掃を割り当てられたことがあって、自分たちは早く清掃が終わったので、教室に戻ると「○○小学校の人は、掃除が上手だね。ちょっと待っててくださいね」と言われたことがあるそうです。

 またまたやってくれましたね。

 掃除の時間に出身小学校別に清掃を割り当てるって,だれが何の目的で行った指導なのでしょう。

 入学した時にはすでにクラスが決まっているし,それは出身小学校別ではあり得ないわけで,それをわざわざ小学校別にするというのは,どのような事情があるのか聞いてみたいところです。

 清掃の技術を出身小学校別に競い合ったのでしょうか?

 そして,大事なポイントは,

 「早く掃除が終わった」=「掃除が上手」とは限らない,ということ。
 
 まあ,これについてはこれくらいで。

 ・・・・よくこんな異常な情報が次々に入ってくる方ですね・・・。

 さらにご丁寧に,吹奏楽部の生徒の話を繰り返される。

 私が言っているのは,「ふつうの授業での話」でしょう。

 そこで,進度が早い生徒を,わざわざ「出身小学校名を出して」,「待たせる」,これが問題の指導だ,と言っているわけですからね。

 「出身小学校名」を出す必要はないし,「待たせる」以外の指導はいくらでもできるでしょう。

授業中,早く作業などが進んでしまった中学生に,「中学校の教師は,ふつう,『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』などという指示は出しません」

 と私が記事にして得られた「穫物」は,今のところみんなdolceさんによってもたらされているので,感謝を申し上げております。

**************

 比喩表現というのは,説明をわかりやすくするためなのですが,dolceさんには逆効果なので,これはやめておきましょう。比喩表現をさして「普遍的事実ではない」なんて言われてしまうようでは,これは日本語を母語としている人との会話ではなくなってしまいますから。

>それよりも「中学校の教師は、猿に変身しない」という言い方は、変身するものが猿でなくてもよいのです。

 というdolceさんの言葉は,独り言ですよね。

 でも,「亀に変身しない」と書いても,私からは,

 「職員室前の廊下で暴れている生徒がいても,職員室から一歩も出なかった・・・・自席から一歩も動こうとしない教師がいた。これが,亀に変身した教師の一例だ」などと言われてしまうので,

 「ネズミに変身しない」くらいにしておけばよかったのかもしれませんね。

 いや,だめか。職員室で窃盗を犯していた小学校教諭がいました。鼠小僧というわけではないのでしょうが。

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」[2]という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。[3]

 という私の言葉に対して,

 あいかわらず,

>頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。
>胃のおかしい人がいるから、胃を治療する胃腸科があるのと同じです。

>[3]ここで「ということになります」といえるのは、絶対的な真理でなくてはなりません。
>それは、一般的に承認されていることがらでなくてはなりません。

 という反論のされ方になる。

 いいですか。

 胃のおかしい人が,胃腸科に通う,これはいいです。

 しかし,「頭のおかしい人が治療を受けるための病院」とは,どのような病院のことですか???

 その病院に通う人を,dolceさんは「頭のおかしい人」と呼ぶのですね!

 dolceさんには二重の問題を指摘しなければなりません。

 「二重の問題」が何かは,おそらく私の文章をお読みの方はほとんどわかる・・・「一般的な承認」が受けられることと思われます。

 絶対的な真理かどうかはわかりませんが。

 まだ突破できていない「第二関門」は,「よくない言葉」と知りながら,その言葉を「よくない使い方」だと自覚できないでいるdolceさんに,「どこがよくないのか」を自覚してもらうことですね。

 そうでないと,もう「見捨てている」かもしれませんが,しょうさんなどが「もうやめた方がいい」とまた「助言」をしに訪れるようになるかもしれません。それはもちろん,dolceさんのためを思って。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
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  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より