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dolceさんの反論パターン

 Aは,ふつう,Bをしません

 と私が述べると,

 BをするAがいないと,なぜ言えるのか

 と反論される。

 そして,BをするAがいないと言えるのは,超能力者だからか,と揶揄する。

 あるいは,「頭がおかしい」という表現をする。

 何度も繰り返されてきた,「基本的なパターン」です。

 dolceさんの反論パターンは,教師の資質の課題をより浮き彫りにしていく傾向のあるものです。

 A=中学校教師は,ふつう,B=差別をしません。

 に対して,

 「差別をしない中学校教師がいないわけない」と言っているだけなわけですから。

 さて,今回の件を,dolceさん自身がまとめていただいた,最初の話から振り返ってみます。

 斜体は,dolceさんの言葉。太字は,私の言葉です。

*****************

私は過去のブログ記事の中で次のことを述べました。

授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

すると、これに反応して、K氏が次のように言いました。


しかし,中学校の教師は,ふつう,
 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」
 などという指示は出しません。
 出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということはしません。


それで、私が、
中学校の教師は○○ということはしませんと、どうしてわかるのか?
日本中の中学校の教師がみなそうだと言えるのか?
また、未来の中学校教師の実践も含めてそう言えるのは、超能力ではないか
のような意見を掲載しました。

***************

 で,私が

ただ,dolceさんの今回の反論記事はかなりポイントがずれているので,ちょっと心配になっていますが・・・・。

 と書くと,

>いやあ、あなたの妄想にはついていけませんよ。

 という反応。「妄想」という「思考停止語」を多用するのも,dolceさんの反論のパターンです。

 あとは,

「●●小出身者だけ,早く終わってしまう」ので,「待っていて」という話でしたから,

という私の言葉に対して,

>そんな話は全くしておりません。そういう妄想が浮かんだんですね。

 と,以前に書いたことを忘れてしまって,「妄想」扱いすること。

 

 私の言いたいことは,

 中学校教師が,授業中に,出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということは,不適切である,ということ。

 だから,ふつう,A=中学校教師は,B=特定の出身小学校名を示して,該当生徒を「待たせる」という指導はしない,と表現しています。

 dolceさんは,まず,こういう表現の意図が読み取れない。

 意図が読み取れていないということがわかってしまうことを前提として反論されるから,余計に「反論のための反論」らしさが際だってしまっています。

 茶摘み体験の話は,どうして出てきたか。

 私の予想は,中学校教師が,出身小学校で子どもを区別している例がある,ことを示したかった。

 dolceさんによれば,それでは都合が悪い(=特殊な例のために,「ふつうの~」という姿の反証としてはふさわしくないことは認識されていることがわかる)らしく,

なぜ教室の授業の話ではなく,特殊な「茶摘み体験」いいえ,「茶摘み労働」の話になってしまったのか?という私の言葉に対して,

>「なってしまった?」だって?何か勘違いしていませんか、ただ私は、私の経験をブログの記事として書きたかっただけです。

 と返す。ただ,読み取り方によっては,もうバレバレなので,一応,以下のような予防線もはってある。

>「だれの目から見ても明らか」かどうか、他人の見方は私にはわかりません。超能力はないですから。

 以下の文を読めば,「無敵の指導力不足教員」の姿が想像されることでしょう。

>適切か不適切かの判断は、あなたがする立場にはありませんよ。誰も、あなたに判断してくれとは言っておりません。


もはや,ワンパターンの,「すべてにあてはまるわけではない」という指摘は不要ですよ。

 という指摘に対して,

>何のことに対してですか?あなたが頭の中で考えていることまで、私にはわかりません。

 というご回答だったので,今回,少しくわしくご説明申し上げました。

 dolceさんの文章を読めば,頭の中で考えていることは,手に取るように分かりますよ。そのまま言葉になっていますから。

 私の文章を読んでも,「わかってはいけない」と命令を下しているのが,dolceさんの「頭の中」の状態です。

 ですから,終わりが見えないのですね。

 今回の記事は,

>勝手にパターンを捏造するな。ではどんなパターンなのだ。具体的に述べてみよ(できないだろう)。

 という「ご命令」に対してお応えしたものです。

 この1文そのものも,代表的なパターンなのですよ。

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教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

dolceさんのパターンは,「反論できるところだけ反論する」というもので,線を引いていない大事なところ,線が引けないところ=反論することができないところだというのもばれてしまうのですね。わかりやすさという点で,ずば抜けたところがあります。

一度下記のリンクを参照してみてください。
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/141.html

この手の反社会性力は、免職に持ち込む以外に、対処の方法はありません。

常識の無い人に、常識を教えてもそれは身につかないと断言できます。
常識が身につかない情報処理を常にその人が行っているため、無理なのです。

認知に関するゆがみと言えばそれまでですが、素晴らしい精神科医でも、カウンセラーでも、本人が問題に気づいて、修正したいと思わない限り、一生治すことは出来ないのです。

OSの一部が破損したコンピュータのように、外部から正しい情報を入力してもメチャクチャな動きをするか、フリーズするか、あるいは一見正常のように見えて、肝心なところでフリーズするのとよく似ています。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「子産(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より