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« dolceさん本人の「問題の指導」についてご質問します | トップページ | 指導力不足教員による自己主張のモデル »

dolceさんの場合は,「指導力」以前の問題でした

 今回のご説明(および,説明されなかったこと)で,よくわかりました。

 私の「最大の質問」は予想通りスルーされ,

 出身小学校の違いをもとに児童を区別して,その場で「待たせる」という指示をして,経験がなかったり能力が低い子どもたちに「説明する」ことは,「特に珍しいわけではない」とダメ押しされたわけですね。

 途中で話を拡大している点(「●●小学校出身の人たちだけでなく,経験や能力の差がある場合に,経験があったり能力が高い生徒をあえて特定して待たせて,経験や能力の低い生徒を対象に説明するケース」)はあえてスルーすることにします。

 私がもし指導者なら,次のような指示はしません。

>学年集会で茶摘みの説明を行います。

>すでに、小学校で体験してきている生徒もいるので、説明する先生は「○○小学校出身の人たちは、はじめの方は説明が重複するところがあると思いますが、ちょっと待っていてください」と言います。

 ふつう,指導者は,「●●小学校出身は,待っていて」という指示はしないでしょう。

 「経験がある人も,改めてよく聞いておいてください」ではないですか。

 なぜなら,●●小学校出身者の中には,何かの事情で茶摘み体験をしていない子どもがいるかもしれませんし,小学校時代は上手にできなかった子どももいるかもしれないからです。

 また,●●小学校出身ではなくても,茶摘み体験をしてきて,説明の内容は聞いたことがあり知っている子どもがいるかもしれないからです。
 
 中学校では,このように授業中で,生徒を「出身小学校でくくる」ことは不適切です。

 出身小学校別に,子どもがそれぞれ同質であるという認識を前提にした指導は不適切なのです。

 愛知県では当たり前なのかもしれませんが,ある中学校が特定の小学校とのみ結びつきが強いかのように誤解されるこうした指導は,生徒指導上もふさわしくありません

 こういう話をすると,「では,地域別の防災訓練をするときはどうなんだ」というさらにレアなケースをもってこられるかもしれませんが,そういうときと,こういうときと,話は別。

 何よりも,「授業では,ふつう,●●小学校出身者だけ待たせるという指導はしないだろう」という指摘を完全に頭ごなしに否定してかかり,それだけならまだしも出してくる特殊な事例で指導の不適切さを指摘されてしまう状況が,何を意味しているか,お分かりになりませんか?

 dolceさんの場合は,児童観・生徒観の問題なので,もはや「指導力以前の課題」ということになります。

>子どもの指導に限らず、経験や能力に差がある場合、またはすでに説明を受けている人々が入り交じっている場合は、重複する指導や説明がある人に「ちょっと待っていてください」と断りを入れることは特に珍しいことではない

 このどこが問題かがわからない,というのがdolceさんの現状のようなので,簡単にご説明しますと,

 こういう場合は,「話が重複する人もいるかもしれませんが」で十分なのです。
 
 なぜなら,その説明を聞く必要性があるかないかは,聞く側が判断することであって,話す側が「聞く人」「待つ人」と区別するべきではないからです。

 よく知っていても,確認の意味でしっかり聞こうとする人は多いと思いますし,わかったつもりでいて,大事なところを聞き漏らしやすい子どもに対して,「ちょっと待っていてください」という言葉かけはおかしいのです。

 dolceさんの「指導力以前の課題」というのは何かというと,

 「相手がどういう状態であるか」を勝手に判断してしまうことなのです。

 「生徒のくくり方」も,問題なのです。

 また,「相手がどうしたいと考えているか」を考えないことも課題です。

 それでは,お前の言うことも同じではないか,おれがどう考えようが,おれの勝手だろう,という反応が想像されますが,私が言っているのは,「dolceさんと子ども」との関係。dolceさんがすぐに話題をそらすのは,「私とdolceさん」との関係。話が違うのです。

>なぜ、そんなことを取り立てて問題にするのか不思議に思います。

>勝手に何か問題と言っている人がいるようですが、何が問題なのかさっぱりわかりません。

 取り立てて問題にするのは,やはり繰り返すようですが,

 「特殊な事例」でかつ,「ひっかかる言葉かけ」だからなのです。

 茶摘み体験の事前指導なんて,「ふつうの授業」ではないですよね。

 もし,「ふつうの授業」でそういう事例があるなら,聞くのもこわいですが,どうか教えてください。

 さらに,気になるのは,dolceさん自身が,問題性が「さっぱりわからない」人だからなのです。

 中学生は,教師の言葉かけに,非常に敏感なのです。

 この類の言葉かけは,いじめの引き金になりかねない,というくらいの意識が,教師にはほしいのです。

 こういう「妄想」は,しすぎて悪い,ということはないでしょう。

 集めている生徒全員に,話を聞く姿勢をきちんと取らせておく,というのは,全体指導の基本中の基本です。

 dolceさんという人は,ブログの記事を読めばわかるとおり,言葉かけが,非常に「不用意」なのです。

 他の方からのご指摘もあるように,「鈍感」と言った方がいいのではないでしょうか。

 さらに言えば,そういう指摘を職場でかけられてこなかったとしたら,それが本当にお気の毒なのです。

 端的に申し上げれば,dolceさんは子ども,教員,保護者,どの相手にも限らず,トラブルを引き起こしやすいタイプですね。なぜそうなのか,ご自分だけがわからない,そういう状況に置かれているのではないかと推測し,・・・・これも,妄想であった方が,都合がよいのでしょうが・・・・とても気の毒でなりません。

 私が勤務していた学校にも,同じような教師はいました。

 中3くらいになると,もう「あの人はああいう人だ」という冷めた見方ができるからいいのですが,中1の場合は,そういう言葉かけで失敗されたことはないですか?

 これは「あらさがし」という趣旨ではなくて,本当はその言葉かけのために,とても苦しんでしまった子どももいたのではないか,という想像力をはたらかせることは,全く意味のないことでしょうか?

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コメント

dolceさんは自分にとって都合のよい質問にしか答えないのでわからないのすが、こうした体験学習でも、きちんと教育課程のなかに落とし込んでいかなければなりませんが、私の予想では、総合的な学習の時間にやっていると思われます。
気の毒な単純労働にならないために、いろんな工夫はしていると思いますが、特別活動をこれに使うと、行事ができなくなる。
総合が現場に根付かない、証拠としての、事例という意味もありそうです。

私は、体験学習そのものが間違っていると思います。
私の長女がたしか体験学習で行ってきたのは、調剤薬局でした。
当然ですが、無資格でやって良いという物ではありません。
それ故、見ているだけなのです。

また、どこの学校だったか良く思い出せないのですが、航空管制を体験しに行った児童が、実際の管制指令を出していたことがばれた事件(無資格運用)なども発覚していますね。

資格は特に必要なくとも、営業するのに許認可が必要な物もあります。
食品などがこれに関係あります。

要するに行ってみてくるだけ、という形態にならざるを得ず、現場で労働者をやってもらって、何も得るものなどないでしょう。

むしろ、どういう職業にどういう知識や資格が必要で、修得する難易度がどれぐらいということや、社会貢献としてどういうことがあって報酬を受け取れるのだと、そういうことを教えてから、見学に行くなら、多少なりとも良いかもしれません。

小学生でも勤まったかのように錯覚させて、いざ社会で全く無能なことに気づかされ、現代鬱という病気の土台を形成してしまう体験学習は無くすべきです。

dolceさんに限らず、同じレベルの小学校教師は山ほどいます、子供に現代鬱の土台を形成して何が良いのでしょうか。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より