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「学校のおやぢつぶYaKi」ブログに見る教員の無知と責任転嫁の方法

 現場の理解不足,努力不足とは,具体的にどういうことを示しているのか,

 「学校のおやぢつぶYaKi」というブログで,そのことが端的に示されているので,ご紹介します。

**********************

 日本地図から3県だけを教えるといった器用なまねのできる教師はいないだろう。新潟といえば富山や福井を、愛知といえば静岡や三重・岐阜を、福島といえば岩手宮城・・・というように、互いに関連したり対照的だったりする地域を語らざるを得ないからだ。こんな短い文の中にも10の県名が含まれている。
 そもそも文科省に言われるまでもなく、暗記であろうとなかろうと全国の県名を分からせることは社会科の教師の悲願であったのだ。
 だからあの「3県でよいという方針」は、冷笑されこそすれ、歓迎したり尊重したりすることはなかったし、お説通り実行すること自体が無理だったのだ。

 それを踏まえるとどういうことになるのだろうか?
 文科省の方針は間違いだった > それを実行した現場は間違いだったという論理は精細を失う。
 同時に、新学力観という崇高な理想の示すものと、文科省の教科書によるその具体的な展開との間にギャップがありすぎて、現場には混乱しか生じさせなかったのだ。
 それでも現場の不理解と努力不足といえるのか? むしろ密かに基礎基本を大切にしてきた教育現場の人びとに感謝するのがスジというものではないか。

**********************

>暗記であろうとなかろうと全国の県名を分からせることは社会科の教師の悲願であった

 これは,小学校の教師の仕事です。

>「3県でよいという方針」は、冷笑されこそすれ、歓迎したり尊重したりすることはなかった

 中学校の地理的分野で「地域の規模に応じた調査」のうち,「都道府県規模の調査」は,3県くらいを対象に行うことが普通です。

 この学習では,地域的特色を追究しとらえる学習を通して,都道府県規模の地域の特色をとらえる視点や方法を身に付けることをねらいとしているのです。

 「様々な面からとらえた日本」という「中項目」では,さらに,地域の規模に応じて,また,地域間を比較し関連付けて,地域的特色を明らかにする視点や方法を身に付けさせることをねらいとし,自然環境や人口,資源や産業,生活・文化,地域間の結び付きといった視点から,「国家規模や都道府県規模の調査」で身に付けた知識や技能を生かして追究していくのです。
 
 視点によっては,

>新潟といえば富山や福井を、愛知といえば静岡や三重・岐阜を、福島といえば岩手宮城・・・というように、互いに関連したり対照的だったりする地域を語らざるを得ない

 のは当然のことで,実際に学習してきた生徒も多いでしょう。

 あたかもそのような学習ができないようになった,という趣旨で書かれていることは遺憾です。すぐにでも訂正していただきたいし,こういう教師がいること自体が本当に恥ずかしくてやりきれません

 なお,地理的分野の上記の指導については,指導力のない教師ではなかなか目標の実現が難しかった。だから,今回の改訂で,指導力がない社会科教師でも「教えやすい内容」に変わりました。しかし,地理的分野で身に付けさせようとする基本的な目標については変更がありません。

 上記のブログを書いている人には,学習指導要領の目標と内容に関する知識がなく,「現場の理解不足であること」を自ら証明しているにすぎないのです。

>お説通り実行すること自体が無理

 であることは,こういう教師が多ければ,それこそ自明の理です。

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コメント

地域によっては,授業力のない人を管理職にして,子どもに迷惑がかからないようにするところもあるらしいですよ。

 「概ね3と考えると円周の長さが掴めるよ。でも3.14で計算すると正確な円周になる(円周率は無限なので、それでも正確ではないと言えなくもないが)」と教えるのが、教師の習性というものだ。
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円周率は無限???
円周率は無理数と言われる数で
無限級数の極限における収束値ということなんだけど

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210795057

数学ちゃんと履修したのかな?大学卒業して円周率理解していないと思えるような
言い回し、もし子供が質問したら全く説明できなさそうな、、、、

願わくは
小学校で扱う範囲を超えたことでもわかりやすくきちんと説明してくれる先生は
とても素晴らしく、素敵な先生だと思うのです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より