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人間(教師)を成長させるためにあるコンピテンシーモデル

 真愚さんのご質問にお答えします。

 その前に,「どうやったら指導力を向上させることができますか」
 
 という教師からの質問は,「どうやったら勉強ができるようになりますか」

 という生徒からの質問や,「どうしたら幸せになれますか」

 という「人生相談」での質問と同じようなもので,そういう質問に対して,

 具体的にこうしたらどうですか,と提案することはできなくはないですが,

 私は「自分自身の力で見つけるものです」と答えることにしています。

 あるいは,「私もその答えを聞きたいです」と言います。

 「そういう力がないから,聞いているので」と返されたら,

 「今はなくても,努力を続けていたら,見えてきます」

 「そういう人の姿を見て,聞き取りをするのではなくて,自ら獲得していくのです」

 と答えます。

 このことをご理解いただいた上で,お読みください。

****************

kurazohさんはよくコンピテンシーと言われるけどコンピテンシーって何?。
英語追試組だった私にはこんな言葉にはアレルギー起こす。
何で日本語で言わないのかってね。
まあそれでも何なんだろうっておもって左のカテゴリーをみると
「逆コンピテンシー」ってカテゴリ-は有るのに「コンピテンシー」というカテゴリーは無い。
それじゃーネットで調べてみたがよくわからん。
授業の標準化、マニュアル化の様な気もするが少し違うのか?。
違わないのならそう言えば良いのにわざわざコンピテンシーというのは何故か。
左のカテゴリーに「コンピテンシー」というカテゴリーが無いことがおかしいと思うが?。

****************

 ご参照いただける「教育失敗学HP版」に,コンピテンシーモデルを示しています。

 コンピテンシーは優れた教師に見られる行動特性で,思考の傾向から技術的な面まで,様々なものが含まれます。

 日本語で簡単に表現できる言葉が見つけられたら,私もそっちを使いたいです。造語でもいいので,もしどなたか思いついた方は,教えてください。

 さて,企業の場合,ある人が,よい業績を残せたら,「どうしてその業績が残せたのか」を明らかにしたいと思うでしょうね。そういう業績が残せる秘訣があれば,すべての社員で共有化すると,企業全体の業績はアップするでしょうから。

 しかし,失敗しないですむようなことは「マニュアル化」できる・・・・たとえば,ハンバーガーは何度で何秒焼く,というようなこと・・・・のですが,よい業績を残せた理由は,それよりもっと複雑なことなのですね。

 どうしたら,100点がとれますか,と聞かれて,こうしたらとれると,と答えて,みんなが100点をとれるようになるわけではない。つまり,もともとの能力が左右する面もある。でも,能力が足りないから,示しても無駄だ,とは考えないわけで,こういう努力をすればいい,ということに気づかせるのがコンピテンシーモデルなのです。

 目標の内容とその立て方は,人によって異なる。そして,それはその人自身が決めていくべきものだ

 そういう考え方をコンピテンシーモデルは示している,というのが私の立場です。

 「具体的にこうしろ」,というのを示すことも大事ですが,そんなレベルでよしとしない。

 「自己教育力」をはぐくむための方法の一つでもある,それがコンピテンシーモデルなのです。

 もともとは教員の職務目標の立て方の参考にするために提案したものでした。

 それを,教育全体に応用していきたい,というのが,教育創造学なのですが,まだまだそこまで到達できていません。

 今のところは,このモデルによって,自分自身に合ったかたちの「目標」が見つけられるようになってほしい,というメッセージを送り続けているところです。

 教育の場合,「目標」は抽象的なものである場合が多く,それを実現させるための「内容」も学習指導要領等には示されていますが,具体的な「教材」は,自分の目の前にいる子どもたち,周囲の環境,社会的な情勢などをふまえて考えだしていかなければなりません。そういう営みの中で生まれる「教材」が,あるいは「失敗作」「稚拙」なものだったとしても,「自らつくり出そうとした」「自らつくり出した」という姿勢自体が「教育という営み」らしさを教師からにじみ出させ,子どもとのよき関係をつくっていく土台となるのです。

 失敗学とは,正確な定義ではありませんが,イメージしやすく説明すると,失敗から学んで,失敗しないような内容,方法等を探究していくもので,できればすべての教師たちで共有していきたい知識や技術,ものの見方や考え方を扱っています。ある目標に照らして,その実現を図るための努力のかたちはこれでいいのか,という問いかけを自らにするものでもあります。

 教育に限ったことではないかもしれませんが,「よかれと思ってやっていることが,実はマイナスの効果を生み出している」ものがあり,それを私は「逆コンピテンシー」の中で解き明かしてきたつもりです。

 創造学の場合は,今までなかったような新しい指導法を探究するだけでなく,目標そのものも「新しくつくる」対象になり得ます。

 製造業などの場合には,すべては「要素」「構造」「機能」で成り立っており,「要素」「構造」の組み合わせによって,新しい「機能」を果たすものをつくることが「創造」であると定義できるようですが,そういうことができる教師はどうあるべきかを示そうとしているのが「コンピテンシーモデル」であるととらえることもでき,まだまだそれは模索の段階です。

 問い続けていく姿勢そのものが大事なのが,「創造学」でもあるのです。

 今は,以前にも述べたように,「教育失敗学から教育創造学へ」の道を模索しているところです。

 私がdolceさんに「気づかせたい」と思っても,それがなかなか実現しない,そんなレベルの私ですから,そう簡単に答えが示せるものではないと覚悟しています。

 私が教師になってほしい人は,こういうコンピテンシーモデルをみて,「自分もそうやって生きていきたいな」と思えるような人,できれば,そういう「生き方」を実際にしている人です。

 人と序列化されるのが嫌で,失敗を失敗を認めない,批判されると相手をけなす,そんな教師が少なくない学校現場を嘆くとともに,そういう教師を学校が生み出さずにすむ仕組みも創造したいと考えています。

 自分より優れた人をみたら,優れているという評価を受けた人をみたら,素直に賞賛でき,いいところを学ぼうとする教師が増えたら,それだけで学校はよくなると思います。

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コメント

連投しちゃおうか
生徒からの質問というので昔の話を思い出しちまった。
まだインターネットもなくパソコン通信だった頃、小学校の先生から
掲示板に書き込みが有った。
「パソコン通信の面白さを児童たちに教えてあげたいので子供達の質問に答えて下さい。」
とかいうものだった。
それを見ていた私もパソ通は始めたばかりの初心者で面白そうとメールする事にした。
児童は小学校6年生からだったと思うけど、小学生だから質問も簡単なものが多かった。
楽勝楽勝と思いつつ書いていると中に
「どうして勉強するのですか」というものが有った。
私はハタと手が止まり、これは困ったどうしようかと考え込んだ。
その日は今日と同じ日曜日で相撲の千秋楽、優勝したのは誰だったか
千代の富士だった定かではないけれど、子供達がこれを読むのは明日だな、
これを使おうと思った。
 「みんな昨日千代の富士が優勝したの知ってる?。今日は教室で話題になってなーい?。
みんなで楽しく話し合ってなーい?。凄いね千代の富士は。
みんなが楽しく話し合ってるのは、みんなが千代の富士が優勝した事を知ってるからだよ。
知らなかったらお話しできないよね。そうやってね新しく知れば楽しい事がやってくるんだよ。
いっぱい知ればいっぱい嬉しくなれるんだよ。いっぱい知る為に色々なことを勉強するんだよ。」
とメールに書いた。
後で、子供達がとても喜んでいたと先生からお返事が有った。
子供達が勉強したかしないかは分からないけれど、
ひょっとして俺は天才詐欺師かも。

真愚さんへ

たくさんの質問をありがとうございます。
回答まで,少しお時間をください。

その間に,できれば過去の記事をお読みください。

1955個もありますが,お時間のあるときにどうぞ。

教育失敗学HP版の入り口は,ブログの左上にあります。

kurazohさん、匿名さん、こんばんは

匿名さんの言われるwikiは見たんですが、片手落ちの様な気がしまして、

kurazohさんは多少の非難も聞き流すことの出来る広い御心が有りそうで
少し批判めいた暴投でも書いて、、、大きなミットをご用意下さいませ。

> その前に,「どうやったら指導力を向上させることができますか」

答えなどでは有りませんが何かの語呂合わせの一節に
「1つ叱って、2つ褒め、3つ教えて、よき人にせよ」というのがあります。
多分その前にも語句があって
「愛しき我が子が可愛いくば、少し離れてよく見つめ、」なんて言葉がついていて
何処かの和尚か何かが親に言い聞かせた古くからの言葉みたいですが、
親じゃないのでもう離れてるでしょうから、よく見つめる事から始まるのでは?。

> ご参照いただける「教育失敗学HP版」に,コンピテンシーモデルを示しています。

本の紹介でしょうか?、目次みたいだけど。

> コンピテンシーは優れた教師に見られる行動特性で,思考の傾向から技術的な面まで,様々なものが含まれます。

何か仏教と似てますね。お釈迦様が言ったという「原因が有って結果がある」と言うことの内、
「善因善果、悪因悪果」の善因善果だけ引っ張り出そうとしているような、そんな感じですか。
仏教を学んでみられたら?。別に入信せよ言うつもりはないですが、学問的視点からお経を読んでみるのも良いかも?。
ご推薦は出来ないのです。
私が読んだこと有りませんしそれより違う事に視点を変えた方が良さそうな気も。

> 日本語で簡単に表現できる言葉が見つけられたら,私もそっちを使いたいです。造語でもいいので,もしどなたか思いついた方は,教えてください。

善導善致ってどう?。_(.・)☆\(ーー;)

さて、kurazohさんは何か教条的でdolceさんは実務的で、
dolceさんは生徒をよく見てらっしゃいますね。
 吹奏楽が上手になってきて部室が綺麗になってくる、
とか生徒の記述がdolceさんのブログに有ります。
kurazohさんのブログにはバトルっぽい記述で忙しいのか、
失敗学の具体的事例として生徒が出てこない。
失敗は生徒を見て判断してるのでは無いのですか?。
kurazohさんがほんとによく見てるのか、失敗をどう判断してるのか疑問です。

> 「具体的にこうしろ」,というのを示すことも大事ですが,そんなレベルでよしとしない。

具体例をレベルと見ることも出来ますが、モデルと見ることも出来ます。
基本教義の応用力事例として参考になることも有るかと思います。
コンピテンシーモデルと言いつつモデルが出て来てないのでは?。
複眼思考も大事では?。

> 製造業などの場合には,すべては「要素」「構造」「機能」で成り立っており,

機械はスイッチ入れれば動く、その因果関係はハッキリしてます。その境界もハッキリして
ラインと見なせると思います。でも人はラインではなくゾーンです。
それも可成り広いゾーンで先生の指導が良かったのか悪かったのか誤差も大きく見定めることすら難しい。
機械対応的視力では判断は可成り難しいのでは。
機械学より農家とか木を育てる庭師とか生物関連の職人の言葉の方が参考になるのでは?。

> 私がdolceさんに「気づかせたい」と思っても,それがなかなか実現しない,そんなレベルの私ですから,そう簡単に答えが示せるものではないと覚悟しています。

個人が相手なら言葉でいうのは簡単ですから簡単に言いますけど、
相手の言葉で喋るのが一番。
アメリカ人には英語で話し、ドイツ人にはドイツ語で話し掛け、
dolceさんを見下すわけでは有りませんが幼児には幼児言葉で語りかけ
dolceさんにはdolce語で話し掛けることが近道だと思う。
機械語教条語は逆効果かも知れない。それが「見る」という事だと思います。
見てない私が言う事じゃないかも。。。
随分偉そうな事を言っちまったかも、、暴投がミットに収まったかな。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
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  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より