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教員養成課程の教員の資質・能力の評価

 大学で,育てようとしている「教師の卵」とは,どのようなものか。

 以前から書いているように,それは,大学によりけりです。

 育てようという気はあっても,指導力がなければ・・・というのは,今回のテーマではありません。

 基本的に,教員養成系の大学では,個々の学生の,「個人としての教員の資質・能力」を高めようと努力されている。

 しかし,若い人に限らず,現職の教員であっても,大いに欠けていると感じるのは,「組織の一員として働ける資質・能力」です。そういった能力を高める教育がなされていないからでしょう。体育会などを引っ張っていくような立場になれば,少しは違うのですが。

 極端な話,私は,教員を目指す人には,「校長とは何か」「副校長,教頭とは何か」「主幹とは何か」という「学校経営」の視点からの学習も薦めたい気持ちでいます

 「校長先生とは,何をする人ですか?

 こういう質問をもし教員採用試験の面接で問われたら,大学の先生なら,どのような「模範解答」を学生に教えてあげられますか?

 「副校長とは?」「主幹とは?

 「なぜ,そういう役職の人間が学校には必要なのですか?

 はじめから校長先生になろうとして教員をめざす人は多くはないと思います。教員と経営者は別扱いして,すごく若い人でも校長がつとめられる国もありますよね。

 日本の場合は,一般の教員一人一人に,学校経営の視点が欠けているから,

 小学校では「学級王国」,

 中学校では「部活王国」

 が登場してしまうのです。

 実は,両方とも,「いい先生」(定義は微妙)が経営していれば,子ども・保護者・教師の三者にとって,「最高の楽園」(部活王国は,苦行の連続でも,勝利や賞を手にできて,思い出の楽園となる)になります。それはそれでいいだろう,というのも,一つの学級や一つの部活動だけを視野におさめて話しているのなら,わかります。

 これが,指導力不足,使命感不足,責任感不足の先生が経営すると,どうなるか

 まず,以下のような原則が「足枷」となる。

*****************

 (伊東玲氏のブログより,引用)

>私の経験では、担任したときに、「学級での格差をなくすために」先輩の教師から、あれこれについて、「するな」という申し合わせのようなことを年度当初に釘を刺されてしまうことがありました。

>私がそういう立場になったときは、学年での足並みをもう少しそろえなさい、と叱られたこともありました。

*****************

 若い教師が,先輩教師から「学級での格差をなくす」ことを目的として教育活動への制限が加えられる場合,教育への「使命感」や「責任感」をもつ若い教師なら,何と言うべきか

 ・・・・と,教員採用試験の面接で問われたとしたら,想定できる模範解答は何ですか。

 たとえば,こんな答えはどうでしょう。

 私は,先輩教師と比べたら,指導力が不足していることは明らかだと思います。だからこそ,その不足分を補うために,自分ができることを精一杯行っていきたい。一つ,一つ,私がやってみたいこととそのねらいを先輩教師に相談して,実施できるよう,先輩教師を説得したいです。

 (余計な補足ですが)私が先輩教師になったときも,そういう若い教師のやる気を決してそぐことはなく,学年の教員の一員として,各クラスがお互いに高め合えるような取り組みを一緒に考えていきたいと思います。

 これを,心の底から言えるかどうかを,きちんと見破れる面接官はいると信じたいです。

****************** 

>小学校教師を育てるなら、そういう学校内、職員室内の小学校独特の雰囲気にも考慮して、そのなかでできることを言うべきだと思います。

>失敗学の先生の呼びかけに共感している若い小学校教師もいるでしょうし、いて欲しいとも期待するのですが、現実的にはそれを実行するには、相当にきつい状況があるということもあるのが現実です。

******************

 この「相当にきつい状況」を打破できるのが,「いい学年主任」,「いい主幹」,「いい管理職」です。

 この続きは,またいずれどこかで。

 ・・・あと一言。

******************

>だから、管理職や先輩教師たちにも、失敗学の先生の考えを持ってもらいたい、ということなのでしょうが、それを小学校で若いやる気のある教師が1人でやろうとしても、よほど環境に恵まれていない限り無理だと思います。

******************

 「いい管理職」の資質は,ぜひ,教員養成課程の中で,育んでいただいたいと,切に願っております。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より