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dolceさん流の「ごまかし」術

 dolceさんは,「お金を出さないと不正合格は果たせない」と考えているようですね。

 何だかそういう発想自体が,嫌らしい。

(ここは,残念ながら,ごまかしきれていません。過去の記事を読まれてしまうと,指摘が矛盾しているのが明らかになってしまうのに,それにはおかまいなしに「次の矢を飛ばせる」のはすごいです。)

 教員採用に限らず,「縁故」「(元の)上下関係」「義理」などが影響して,本来の「得点」とは「別のかたちの上積み」によって合格できる人間がいる疑いは,「世間」を知っている人なら当然もつものでしょう。

 「どうしてこんな人が教員になれたのか?」という人を目の前にしたら,容易に想像できる話です。

 金品の授受はなくても,「別のかたちの上積み」が「不正」であることは間違いないですね。

 (「別のかたちの上積み」が「不正」ではない可能性がある,とdolceさんが判断しているのは少し意外でした。が,これは「合格してしまえば問題ない」という自分の発言との整合性を保つための指摘なのでしょう。)

 こういうケースでは,採用された人間は,「不正」があったかどうかを,今の制度では,確かめる方法はありません。(具体的な点数やその根拠の開示に耐えられる採用試験をするのは無理でしょう。)

 そもそも自分の採用について,コネによる「不正」があったかどうかを調べる人間はいないでしょう。(自分自身がコネを使う,という発想自体をしていなければ,なおさらです。)

 「不正はなかったですか」と聞かれる方も,合格させるために不正をしたのなら,「不正がありました」とは答えないでしょう。

 今の採用方法だと,こういう「不正」を暴くのはかなり難しい,というか,ほとんど不可能でしょうね。

 繰り返すようですが,dolceさんのように,「採用試験に合格したのだから,何の問題もない

 とだれもが思っているのであれば,このタイプの「不正」を暴こうという発想もできないことになります。

 dolceさんの根本的な欠点は,「採用試験に合格して教員になったのに,指導力不足で現場に立てなくなる」教員の存在への課題意識がないことです。

 だから,指導力の有無の方へ眼が全く向かない,というか,そっちが本題だと都合が悪くなってしまうのです。

 dolceさんのブログの中の「世間」の意味は,もしかすると「世間」で使われている「世間」ではないかもしれません。どなたかの解説をいただきたいところです(dolceさんの解説はもはや不要です)。 

 多くの人は気づいていると思いますが,dolceさんという人の頭の中では,「仮定する」「想像する」という操作が困難というか,否定されていて,使い物にならない模様です。

 そして,「断定している」と勝手に「断定する」ことで,思考停止に陥ってしまう。

 dolceさんとのコミュニケーションがうまくいかないのは,もしかしたら,私の日本語を他の言語に誤って翻訳して,その誤訳をもとにしてご自分の見解を日本語で述べているからなのでしょうか。

 別にdolceさんに話しかけているわけではない部分も,自分への語りかけだと誤解して返している部分が多々あります。

******************

 学力観についてもお答えしないといけないのですが,

 dolceさんタイプのクレーマーは,自分が重要な質問に答えないですむ根拠を,「そっちがこっちの質問に答えないから」とするので,こちらの方は,答えないといけないですね(そして答えると,それは正しくないといって,自分が質問に答えてないことはごまかしてしまうのです)

 電話対応の時間が長くなってしまうクレーマーの,代表的な「神経回路」です。

>ところで「学力観を示していない」という批判について、あなたの見落としを示しましたが、その後どうなったんですか?
>あなたは、勝手に見落としておいて「スルーする」と、他人を批判しますね。
>あなた自身はどうなんですか?

>学力についてきちんと答えましょうね。

>「ペーパーテストが悪い、いけない」なんて私は言ってませんよ。人の話を改作しないでください。

 私が批判しているのは,dolceさんが「ペーパーテスト」は記憶力を測るためのものだ,と主張していることであって,「dolceさんがペーパーテストを否定している」と書いたことはありません。

 「ペーパーテスト」では教師としての使命感など,欠かせない資質や能力を測定しきれない。だから,「ペーパーテスト」=「記憶力」で選ばれてしまうような仕組みには問題がある,と言っているのは,dolceさんではなく,私の方です。教員採用試験というのが,「そういうもの」だとすればです。実際に,そういう面はあるでしょう。

 ただ,「ペーパーテスト」は記憶力を測るためのものだ,というのは,昭和時代の学力観の象徴だということを述べています。樽の概念図も同じようなものです。

 私が見落としているわけではありません。

 平成時代の学力観を理解している証拠がどこにもない,ということを述べているのです。

 この意味がdolceさんにはわからないので,エンドレスになってしまっているのですね。

 新しい学力観に基づいた指導要録の書き方も知らなかったし,時間がどこかで完全に止まってしまっているdolceさんの「時代遅れの学力観」と,現在の「学力観」の違いを詳しくお知りになりたい方は,文部科学省のHPをご覧になることをおすすめします。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より