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中学校における子どもたちの「再起動」

 腹話術をマスターするなどして,7歳の子どもの気も引かなければ朝礼で話ができないような小学校の校長とは違って,中学校の校長になると,半分「大人」を相手に語りかけることができるようになります。

 多くの人にとって,「校長の話など退屈そのもの」などと思い返されるかもしれませんが,

 ときどき「当たり」がでることもあります。

 ある生徒が,「小学校のとき,大好きだった先生がいたが,その先生の授業で発言すると,『またあいつか』などという声が上がるようになり,それ以来,こわくて授業で挙手することができなくなってしまった。でも,入学式や始業式のとき,校長先生や副校長先生が・・・・・・・・とおっしゃってくれたので,私は気持ちを切り替えて,授業にのぞむことができるようになった」と心境を語ってくれました。

 ・・・・・・・・・・にあてはまる話の内容を想像することはできますか?

 中学校は,小学校のときに受けた心の傷を癒すところでもあります。

 「寄り添われていた」のに,「気づかれていなかった」心の痛み。

 その傷のことを,オープンにできる新しい教育の環境。

 もちろん,中学校でも,多くの心を傷を受けていくかもしれません。

 しかし,中学校という新しい環境は,「再生」のチャンスであふれていることに気づかせられたら,失敗をこわがらない子どもを育てることができるでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より