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長野県の「自習を減らす」努力は,実を結んだの?

 公立学校で,授業が自習になってしまう原因を調べていた過程で,

 長野県教育委員会に事務局がおかれた「義務教育関係会議等のあり方見直し検討会議」の提言(平成21年12月14日)という資料を見つけました。

 この会議の目的は,公立学校における「会議等のあり方を見直すことで,教員が子どもと向き合う時間をより多く確保する」ことだったようです。

 内容を読まなくても,学校は会議が多いために,教員が子どもと向き合う時間が少ないという実態と,「会議等」の「等」の中には,「出張」が含まれているのでは?という予想が立ちます。

 「はじめに」を読んで驚いたのは,以下の内容です(下線は私が引きました)。

*******************

 これまで県教育委員会や市町村教育委員会,教育関係機関等では,子どもたちの伸びる力を一層伸ばすためには,授業の充実が最も重要であると考え,広く教員等を集めて会議等を開催してまいりました。

 これらの会議等は,授業が行われている時間帯にも設定されることがあり,多くの学校では,このような場合には授業を交換を行い他の教師が授業をしたり,課題を設定しプリントなどを用意して自習をさせたりしています

*******************

 「授業の充実」のための会議によって,子どもたちの授業が犠牲になっていた(のが常態化していた)!

 本末転倒とはまさにこのことですね。

 でも,長野県では,こうした実態を見直そうとした

 「会議等の見直し」に関する会議で得られた「共通認識」は,

*******************

○ 会議等への参加のため,授業を自習にしたり,放課後子どもとじっくりかかわる時間がとれなかったりする実態がある。これらは,子どもたちの伸びる力を一層伸ばすためには,憂慮する状況である。

○ 県教育委員会及び市町村教育委員会,教育関係機関は自習を削減させ,教員が子どもと向き合う時間を確保するため,本年度内にそれぞれの実情に即して,実効性のある見直しを行う。

○ 以下略

*******************

 というもので,「市町村教育委員会への提言」として,9つ挙げられていますが,そのうち2つだけ紹介しますと,

*******************

① 各学校に対して,授業時数の確保及び自習の削減,教員が子どもと向き合う時間の確保のため,実状を踏まえて,会議等や諸行事について見直しをするよう,働きかける。

⑥ 各学校に参加を依頼した会議等であっても,学校内で事情がある場合は,児童生徒の指導を優先させる。

*******************

 のような原則のもと,具体的に会議や出張を減らす方策を示しています。

 県教育委員会には,「悉皆による会議等だけでなく,各学校や市町村教育委員会の主体性を尊重した,希望参加方式の会議等も今後位置づけていく」のような提言もありました。

 私の意見を申し上げれば,これでもまだ生ぬるい,という感じですが,

 実現可能な変革を訴えようとしている,という意味に解釈します。

 現在,長野県はどう変わったか,よくわかりませんが,

 授業が自習になることが,「授業に支障が出る」という解釈になっていなかった,という「教育現場の常識」がいかに非常識なことだったか,という実態がお分かりいただけたかと思います。

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コメント

荒れた学校を一度経験すると,学校における「自習」が教育の「自殺行為」であることがよくわかります。

kurazohさんこんばんは

なんか変なタイトルに思えます。
自習は大切だよ、予習復習も自習だし分からぬ事を辞書で調べることも自習だ。
いや学校の授業だって自習が主体じゃない?。
学校という勉学の場において主力になるのは生徒の学習力がその結果の重要な要素じゃない?。
先生というのは助言者助力者だと私は思う。
先生がどんなに有能でも生徒に勉学意欲がなければ右の耳から左の耳に抜けるだけの気がする。
学校は学舎ともいうけれどこれは生徒の学習行為が主体だと言う事じゃない?。
だから自習を減らすというタイトルは変だと思う。
先生が主体なら小等教授所、中等教授所なんて呼べばよい。
「自習を減らす」努力、というのはなんか変だ。
kurazohさんの言いたいことは生徒の行為じゃなくて先生側の行為の事を言いたいのでしょう。
先生が教授しないとか講義しないとか、職務怠慢じゃないかとか。
それなら不教授とか未講とか、師怠とか、
言いたい事の本位に近い新しい言葉を創作してみるのも教育創造学として良いのじゃないかな?。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より