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いたましい出来事をネタに本を出版する小学校教師

 書名をあげることはしませんが,

 いたましい教師の自殺の話を枕に,

 「こんな教師になりましょう」

 という個人の能力(指導力)向上を訴えるハウツー本が,現役の教師によって出版されています。

 これが,中学校の私からは理解できない小学校教師との「ズレ」です。

 小学校教師の自殺のニュースに接したとき,

 人それぞれの感想の持ち方はあってよいと思います。

 しかし,たとえば同じ小学校という職場で生きている教師たちには,

 「この問題は行政の責任だ」

 「理不尽な要求をする保護者が増えてきた」

 という反応以上に,小学校という職場の特殊性に対する自己反省が出てこないと,同じようなことは繰り返されると予想します。

 カルロスさんが私のコンピテンシーに疑念を抱かれたのは,

 前に書きましたように,

 「オレガオレガ」という教師を増やすことにつながらないか,ということへの不安(不満)からでしょうが,

 そう考えてしまうこと自体に,小学校の問題性がはらまれているのです。

 小学校では,個人の能力が高ければ,確かに個々の子どもにとっては豊かで実りある学校生活が送れるかもしれません。
 
 しかし,中学校では,いくら個人の能力が高くても,教師間の連携がとれていなければ,成功するものも成功しなくなるのです。

 おそらく,自殺者が出た小学校の教員たちは,「当事者」として,自分たちの責任を痛切に感じてくれたものと信じたいですが,

 全国すべての小学校のすべての教師たち(いちいちこう書くのも面倒なのですが,誤解を避けるため書いておきます)が,同じような問題が起こった場合の「当事者意識」を強く抱くことができるかというと,

 現役の小学校教師が,個人名で,指導力向上にかかわる本を出版している,という実態ひとつとってみても,私は信じることはできない,という思いを抱いてしまうのです。
 
 問題の学級があったとしても,「そんなクラスもあったなあ」なんていう書き方ができる人間がいることからみても,私には他クラス=他国=「学級王国」への不干渉の原則が,小学校を貫いているとしか考えられないのです。

 相互不干渉という小学校の文化は,隣のクラスの教師と共有すべきことがらを,

 個人名で,全国の教師に発信する,という文化を生むのです。
 
 隣のクラスの教師から学ぶべきこと,学べることを,学ばずに,有名校だったり,どこか知らない学校の有名な教師から学ぼうとするのです。

 中学校では,「学年会」にかける時間が非常に長くあります。小学校ではどうでしょうか。

 1学年1学級なら,こういう会議自体が存在しません。

 1学年2学級なら,2人による会議。3学級なら,3人。

 小学校によっては,研究組織として,低学年・中学年・高学年の部会があるかもしれませんが。

 さすがに校内研究の時間がない小学校は皆無だと思いますが,教員間の情報交換,指導力向上のために協働する時間が足りない小学校で,問題は起こっているのがふつうでしょう。

 本の話では,私の感覚では,指導力向上にかかわるノウハウ物をもし出版するとしたら,

 少なくともグループとして,あるいは「学校名」で,出版するのが「筋」だと考えます。

 出版社に聞くと,「個人名でないと売れない」という事情があると説明しますが,

 そうすると,悪循環を固定化する役割を担っているのが出版社,ということになります。
  
 「俺が集めた情報を,俺が先輩から吸収した指導法を,俺が俺の名前で出すのが何が悪い」

 相互不干渉の小学校では,こういう態度の教師に何も言わないのが礼儀なのでしょう。

 自分の仕事が終わったから,定時で帰る。そして執筆活動をする。

 そういう教師のいる小学校に,自分の指導力への不安を抱えて,一人職員室で悩んでいる教師がいないことを祈ります。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より