ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 真愚さんは,なぜ「教えたくなった」「伝えたくなった」のか? | トップページ | やはり,「指導放棄」は小学校の常識だった! »

心だけでなく体も「寄り添う」小学校教師たち?

 匿名ブログなのに本音や真実を語ることなく,うわべだけ同情したりするような姿は,子どもが嫌がる大人の姿そのものです。

 さて,toshiさんのブログのコメント欄をのぞかせていただいたら,私の方を擁護?してくださった方が2人もいらっしゃいました。

 しょうさんとゆっこさんです。

 私がtoshiさんの記事にだまっていられなくなるのは,

>確かにおっしゃるような教員は、少数ながらわたしのまわりにもいたなあと、今、ふり返って思います。

 というようなコメント。

 この「少数ながらわたしのまわりにもいたなあ

 というとぼけた書き方が,私の経験の中で何人か思い浮かぶ「いい加減」な管理職そのものの「語り口」で,どうも黙っていられないのです。

 小学生は,中学生と比べたら大人に対する依存度が高く,それだけいい影響も悪い影響も受けやすい子どもたちなのですが,

>指導放棄されて荒れてる所

 があっても,「いたなあ」ですませる神経そのものが,小学校を「緊張感のない」=「大人の世界ではない」おかしな空間にしてきたのです。

 中学校の先生への文句を言う何十年も前に,自分の学校の指導力不足の教員を何とかすべきだったのです。

 今日は,ほんの少しだけ,私と生徒との会話を紹介します。特例です。

 昼休みに中庭で3年生の女子生徒とバレーボールをしていた私に入学したばかりの1年生の多くが興味を示して,そのあまりの反応の強さに「どうして?」と聞いたところ,気に入った女子だけを集めてべたべたしている小学校の先生を思い出した,というのです。

 小学校では,心だけでなく体も「寄り添う」教師がいるんですね。

 私の「通りがかりのグループ」とたまたま一緒に遊んだだけ,という説明で誤解は晴れたようですが,生徒というのは教師と先生の関係というものに非常に敏感なのですね。

 話の流れは小学校の先生の「依怙贔屓のすさまじさ」とか「授業のいい加減さ」に発展していき,私から「知り合いでもあるから,それくらいにしておいて」となだめても,「怒り?」はおさまりがつかない様子でした。

 中学校では,聞こうと思えば,小学校の問題点は生徒からいくらでも出てきます。

 小学校の教師の中には,

 「中学校では小学校の教師の悪口を言えば中学校の先生を喜ばせることができると子どもは考えている

 とゆがんだ子ども理解をしている人がいるのですが,

 小学校高学年にもなると,おかしい大人とまともな大人の区別がつくようになるのです。
 
 どういう目で,小学校時代の苦悩を訴えているか,想像力をもたない無責任教師には,全く自覚したことがない悪癖や教育の質の低さを小学生が理解したときの失望を理解することはできないでしょう。

 本当に困っている子どもは放置され,ただ甘えたいだけの子どもにだけ「寄り添っている」教師は,自分のどこが問題なのか,気づくことができないのです。

 担任として常に40人と一緒にいるだけで,「寄り添っている」などと思っている人はいないでしょうが,「寄り添われたくない」という子どもの心の成長を無視してベタベタし,自己満足にひたっている教師はいませんか。

 私が「聞き捨てできない」と言ったことが,何をさしているか,想像しようとしないその態度が,子どもから「見放される」原因なのです。

 小学校で学級崩壊のくわしい内容をひろうしてくれる生徒もいるのですが,当然のことながら,その生徒自身が崩壊の原因をつくっていた,ということもあります。

 話を聞いていると,「結局,問題だったのはあなた(生徒のこと)の姿勢だよね?」という「お叱り」で終わりにできるものもあるのですが,「聞き捨てならない」話も少なからず登場してしまいます。

 東京の心配をする前に,小学校の「指導放棄」をはじめとした多くの問題を心配するのが「実践的」でしょうね。

 6・3・3制の見直しは,現実のものになりつつありますよ。

 さて,ゆっこさんは「この件は おしまいにして頂けませんか?」とおっしゃっていますが,

 「心からの叫びを聴いてほしい!」というtoshiさんの要望にお応えして,Aさんという方のメールの内容を検討してみたいと思います。

 Aさんにとっては私からのコメントなど期待していない(もし本当にそうなら,その態度がダメなんだと強く言いたいのですが)のでしょうが,ここはtoshiさんの要望を優先させたいと思います。

******************

 次の記事で書いたように,toshiさんが「おしまいにする」とのこと。

 こういう姿勢が,教育をダメにする。

 そして,教育ブログも,つまらないままにする。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ 

« 真愚さんは,なぜ「教えたくなった」「伝えたくなった」のか? | トップページ | やはり,「指導放棄」は小学校の常識だった! »

ブログネタ」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

コメント

今は,保護者の声が学校教育に反映できる世の中になりました。
小学校の問題は,子どもへの責任がごく少数(普通は担任一人)の教師によって担われていること。
選択の余地のない,閉塞的な環境の中では,なかなか批判もしにくいものです。

日教組の授業のやり方、多分ご存じだと思うのですが、5分間ぐらい授業が始まったら何か先生が話をして、後の時間は生徒に順番に当てて発言させるというもの、子供が何か言えば(自虐的な考えの推奨)褒め、そのため後続の子もそれに習うというメチャクチャなことが未だに行われているということ、子供が先生の誘導になびいたら寄り添っていると勘違い、本当のことを発言しようものならいじめのターゲットに。

子供は無力ですから、表面上先生に同調している場合も、かなり現実にはあると思います。同じ事が組合と教師の間にも存在します。組合の手前、反日のように演技している。子供は年数がたつと卒業しそういう影響はだんだん受けなくなりますが、教師の場合、反日のふりをしていたら、ほんとに反日に染まる人がかなりいると思います。

そのせいで、子供の本質を考える以前に反日運動やインチキな教育理想論へと進みその足固めとして子供と寄り添う???そういう表現になるのでしょうね。

立場というものを全くわきまえない(日教組なら当然)ということが一番の根っこにあると思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/54512610

この記事へのトラックバック一覧です: 心だけでなく体も「寄り添う」小学校教師たち?:

« 真愚さんは,なぜ「教えたくなった」「伝えたくなった」のか? | トップページ | やはり,「指導放棄」は小学校の常識だった! »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より