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« 「学校のおやぢつぶYaKi」ブログに見る教員の無知と責任転嫁の方法 | トップページ | 県の常識が非常識かもしれない »

逆コンピテンシーの典型である校長先生の言い訳

 定年退職を迎えられた「学校のおやじ」さんの記事を引用させていただきます。

 企業でたとえてみれば,社長は,理念を示すだけで,職場環境や施設などの条件を改善しないまま,現場に工夫しろ,とせまってくると愚痴をたたいている地方の営業所の所長みたいな苦情ですね。
 
 同じ条件下でよい業績をあげている所長もいるのに。そういう所長から学ぼうとする姿勢があるだけで,少しは変わるのでしょうが。 

*************************

 文科省や御用学者たちは、新学力観の展開のボトルネックは現場にあると見た。
 しかしそれは【1】現場の問題ではなく、環境整備、条件整備をしないまま現場に強要したことや、方針の右往左往がネックだったということが明らかである

 環境整備とは、理念を影響力のある義務教育にだけ押し付けて、高校や大学の得られなかったことがあげられる。【2】文科省自身の全国学力調査だって矛盾の固まりだ。ペーパーテストを重視するなと言わなかったかな?高校や大学の入学試験は、新学力観を重視したものになったのかな?
 条件整備とは、理念を実現するためにはどのような条件が必要なのかを考えず、いや考えたかもしれないが、それを実現できなかったことにある。
 それは小学校における英語教育にも当てはまる。

 「やれ」といえば「やれる」と思うのは言霊の国の根本的な欠陥だ。「これが正しいから、それをやれ」、【3】「理念はこうだ、現場が工夫せよ」でことが済めばこんなに簡単なことはない。命じたから実現できる、実現しないのは現場が悪いという発想はやめなくてはならないのだ。
 「美味い飯を作れ!」「五族協和!」「百発百中!」「非核平和!」「新学力観!」「防災、安全!」という語に共通するのは、「私、宣言した人」、それが実現しないのは「あなたの認識不足、努力不足」
 コトダマの国ですよ。祈れば台風さえやってきてくれると他人だよりなのだから。

************************
 
 典型的な逆コンピテンシーモデルを示していただいて,ありがたく思います。

 dolceさん風に,わかりやすく,課題をお示しします。

【1】 新しい学力観・・・・せっかく,「自ら学び,自ら考え・・・・・」という子どもに示してほしい学ぶ姿を教師が具現化するチャンスがあったのに,それを「時間がない」「金がない」「ものが足りない」「高校が悪い」などという理由でできなかったことへの反省をしない教師たちは,ますます信頼されなくなってしまいました。

 能力不足だったのですね。

 「時間がない」のはたいてい能力の低い人の言い訳で,能力の高い人は「時間がない」とは言わないから,どんどん仕事がまわってきて,そしてどんどんこなしているうちに能力も効率も高まってくる。

 「時間がない」といっている人には,仕事はまわってこないから,仕事のこつもわからないし,内容すら理解できない。職員会議では,こういう人のための「説明」に費やす時間が,けっこう長くかかったりする。本当に「時間がない」状況をつくり出しているのは自分自身だということに気づいていない。

 「金がない」なら,「金がかからない」ことをすればいい。「金がない」と言っておきながら,子どもにやらせっぱなしのワークを買わせたり,無くても困らないはずの高価な教科書の指導書を買ったりする。

 新しい学力観は,激しく変化する社会への対応力をつけることも重視しているのに,教師はその逆の力を見せうけてくれている。

 指導力のない教師たちは,教科で学ぶべき内容を学習指導要領で示せば,強制だと文句を言う。総合的な学習の時間を設定し,内容は学校で決めてよい,と言えば,「何をやったらいいかわからない」と文句を言う。

 成功している学校の事例に目を向けることもせず,環境が悪いからできないと言う。

 クラスの中で,あるいは家庭で,勉強ができない言い訳を同じようにしている子どもはいませんか?

【2】 全国学力調査の内容をどうやらご存じない。dolceさんと全く同じ。

 また,それなりに工夫をし出した公立高校の入試問題の変化もご存じない。

 ペーパーテストを重視するな,というのは,正しくは,ペーパーテストの結果だけで合否が決まるようなことはおかしい,という意味でしょう。

 「記憶力を問うだけのペーパーテストを重視するな」というのだったら,私の考えと一致するのですが。

 ペーパーテストを重視するな,などと言ったのは,だれが,どこで,どのような文脈でなのか,教えていただきたいです。

 なお,入学試験と学力調査は全くの別物です。
 
【3】 こういう非難のしかたをする人がいるから,文科省はしなくてもよい調査をして現場に余分な負担をかける,という人もいるし,私からすると,「理念はこうだ,現場が工夫せよ」ですんでいてほしいのが文科省という役所の立場です。行政の指示が具体的になってくればくるほど,現場の側は苦しくなっていくはずです。

 環境がないからできない,という言い訳をする校長がいる学校に,子どもを通わせたいと思いますか?

 環境には厳しい面がありますが,こういう工夫をしています,と具体的に説明できる校長と比べてみてください。

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宇宙の成り立ち、古代文明の有様、外国の実情などを知る場合にも、我々は英語を使わなくてはならない。
外国人が我々日本人を理解する場合にも、英語を通して行われている。かな・漢字を通して理解されているわけではない。
だから、英語は、我々にとって単なる一外国語ではなく、とりわけ重要な国際語というにふさわしい情報交換の手段となっている。

英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。

「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「楽毅」第四巻より
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    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より