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教育ブロガーにみる天と地の違い

 片や,何の足しにもならない懐古主義・教師自己満足型・自己保身至上主義の記事。

 片や,ほんのちょっと注目されているだけの,大学の教員養成課程への疑問を題材にした私の記事に,誠実に答えていただいた記事。

 これこそが,「天と地のひらき」と言うべき差です。

 古い鋳型にはまったまま,ものすごく小さい窓から外をのぞき,枝葉のはしっこをつかまえてああでもないこうでもないと語る記事と,

 新しい鋳型の産みの苦しみを味わいながら,多くの窓から外に出て,果実にばかりとらわれないで,土や水,根のはり具合,日の当たり方,風の動きまで読み取ろうとする「過程」まで示してくれる記事

 「あの方」に「育てられた教師」の話を,もしそういう教師がいたとするなら,どこかで聞いてみたいものです。

 

 さて,小学校と中学校,高校はとばして,大学。

 これらの連携については,本当にいい「モデル」があるでしょうか。

 基本的にそれぞれの校内だけで相当「多忙」なので,ふつうは「連携」などできない。

 しかし,「校内」を犠牲にすれば,不可能ではありません。

 それより,「連携」のための人員を増やしてもらえると,一番助かるのです。

 たとえば,3か月は小学校の教員,次の4か月は中学校の教員,残る時間は大学の教員,のような教員が「連携」のための仕事の中心的な立場に立つのです。

 普通に考えると,それだけの期間しかいない教員が,「学校の役に立つ」とは考えにくい。

 しかし,「連携」の仕事を本気でやろうとしたら,ひまな管理職がお茶を飲んで,だれも読まない「報告書」をつくっていても,何にもなりません。

 それぞれの現場に実際に立って,「指導の実際」を知り,課題をつかみ,その解決に向けての「協働作業」の音頭を取っていく。そういう中心人物がいないと,「連携」はただの「絵に描いた餅」になってしまいます。

 少し前の記事で,「組織の一員として動ける教師」という立場について書きましたが,

 この「組織の一員として動く教師」というのは,「上の人間を指示・命令にさからわずに仕事をする教師」という意味ではなくて,「教師一人の力で子どもを教育している」のではない,「教師集団の力で子どもを教育している」という実感がもてる教師のことを想定しています。

 「組織に使われる」のではなく,「組織を使う」教師が求められているのです。

 東京都の改革の趣旨をよく理解できていない方,「組織を使う」という言葉の意味がわからない寝ぼけた管理職は,東京都の改革に眉をひそめ,「組織に使われる教員たちはかわいそう」という見方をしています

 実際に,力のない教師はそう思ってしまうところがあるのは仕方がないのですが,そこで求められているのは「組織に使われる教員」,などでは決してなく,「組織を使う教員」なのです。

 「行政が強圧的」なんていって弱音を吐いている程度では,そんな連携は何の役にも立たないでしょう。

 私が小学校教育の「経営不全」を取り上げるのは,「組織を使う発想の欠如」が教育に与える影響が大きいと考えるからです。すぐに「学級」のような小さい単位の「内輪」のことを気にする習慣。もっと大きなところに気が回らないと・・・。中学校に上がって,「近視眼的なものの見方・考え方」に染まった生徒を塗り替えていくのは大変な作業になります。

 本当は,「子どもに寄り添う感性を,大学で磨ける?」というテーマで書きたいことがあるのですが,ちょっと今晩は時間がなさそうです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より