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回転がきかない部活動の指導者

 次のグラフは,中学校教員の年代別構成比の推移を示しています。

24033102

 私が教員に採用されてからとほぼ同じ時期の推移ですので,これをもとに約20年を振り返ってみますと,

 平成の頭では,部活動はかなりさかんで,やはり20代,30代の教師はそれなりに多かった,という印象が残っています。全国平均では,やはり過半数がこの世代だったのです。

 しかし,平成13年,これは私が2校目で勤務を終えようとしていたころですが,40代,50代の教師の方が多くなっています。

 ちょうどこのころでした。部活動を何とかもってほしいという校長の要望にキレて,教員を辞めてしまった人がいました。若い世代が入らなくなっているので,部活動顧問の「世代交代」ができず,それまでは何とか逃げられていた教師が,部活動の顧問を引き受けなければならなくなった。

 これが,その前の顧問がとても熱心で,生徒や保護者の信頼のあつい人だと,とてもやりにくいわけですね。

 実際に,顧問の転勤先に住所を移して,転校してしまう生徒まで出てくるわけですから。

 その後,40代,50代の教師は増え続け,3分の2を占めるようになっています。

 小学校では,50代の教師の中でも大量採用だった時期の人が退職しはじめていますから,5年くらい前に20代,30代の割合を「底を打って」います。

 中学校ではようやく底を打ったくらいでしょうか。

 それにしても,3分の1が50代というのは,やはり多いですね。

 学校の先生は気も若いし,見た目は実際に年齢不詳の人も多いですから,子どもはそれほど気にしてないかもしれませんが・・・。

 部活動については,30年くらい前は,新しい教師がどんどん入ってきますから,部活動の顧問も,どちらかというと「取り合い」みたいな状況もあったでしょう。

 私も,大学まで野球をしていましたが,顧問を務めたのはバスケットボール部でした。

 これが,今では「押し付け合い」になってしまう学校も増えている。

 なかなか厳しいですね。

 学習指導の問題なら,「塾」に頼るという選択肢があるのですが,

 部活動の指導となると,これは難しい。

 これから増える中学校の新規採用教諭にとって,まず大きな壁は,部活動の指導でしょう。

 勉強しなければいけないことが多くて,たいへんですね。

 冗談交じりに私がいつも話すのは,教員になって,

 学習指導,生活指導,部活動,どのようなエネルギーのかけ方になるかというと,

 教員になる前は,5対3対2くらいかと思っていましたが,

 実際に教員になると,1対3対6くらいの比重に私は感じました。

 休日がないのにはまいった。自分の草野球の試合が午前中,午後はずっと部活,のような・・・。

 学校によっては,1対8対1のようなところがあるかも。
 
 0対0対10なんてところも・・・・。

 参考までに,次のグラフは小学校のものです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より