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コンピテンシーモデルへの誤解が教育を後退させる

 変化の激しい社会を生きる子どもに,「教育」は何をプレゼントしてあげることができるのでしょうか。

 「教師」がプレゼントしてあげられるものは,何でしょうか。

 「教師」でなければ,プレゼントできないものは,何でしょうか。

 「教師」は,子どもの足を引っ張っていないでしょうか。

 コンピテンシーモデルへの後ろ向きの考え方によって,教育の後退が加速してしまうことを懸念しています。

 あるブログに,こんな記事が掲載されました。

********************

>1人の子どもも排除しないのが教師のコンピテシーモデルであるはずなのに、コンピテシーモデルに近づいた教師は、コンピテシーモデルに近づかない子どもを排除したがるのである。

>モデルというものが、固定的なものではなく、流動的なもの、動的なもの、志向する過程上に想定されるものであるならば、誰も息が詰まらないであろう。

>コンピテシーという概念について、不勉強な私は今さら他人様のブログのタイトルを見て興味を持ち、少しばかり調べてみたのであるが、少なくとも、ストレスのたまるものであるらしいことはわかった。

********************

 教師が教育の仕事にかかわるストレスから逃れようとすれば,当然,そのしわ寄せは子どもに行くのです。

 上の記事を書いた方の誤解をどのように解けばよいのか,短時間では難しそうですが,要は,

 「モデルに近づかない子どもを排除したがる」というのは紛れもない「逆コンピテンシー」であって,こういう傾向は,教育実践にあたっての厳しい自己研鑽を課さない人間の特徴と言えることをご理解いただきたいと思います。

 指導力のない教師,自信のない教師,不安感を抱えている教師は,

 「変わらなければならない」のに,

 「変化」を嫌います。

 「向上心をもたなければならない」のに,

 「何もしない」ことを選びます。

 失敗をおそれて,かたちに示せない人間のどこに,「教育への使命感」があると言えるのでしょう。

 子どもたちの多くは,人生の中で最も大きく心と体が変化するときを過ごしており,そこに自己保身という醜い盾をもって,自らを律する覚悟を持てない大人が,非常に大きな悪影響を及ぼし続けたことへの反省をするきっかけにすべきなのが,「コンピテンシーモデル」なのです。

 子どもは自然に変わる。

 そして,子どもも,変わることを,おそれることもある。

 しかし,心の底から,変わりたいと思っている。

 そういう気持ちを支えるのは,ただぼーっとして「寄り添っている」ような大人ではなくて,大人自身も悩みぬき,成長しようとしているのだということを子どもに示してあげられるような大人なのです。

 子どもは,変われない大人を見て,将来の自分への恐怖を意識下で増幅させてしまうのです。

 「コンピテンシーモデル」は,「管理」されない「強い個人」をつくるためのもので,「管理」する側をもコントロールできる力をめざすものです。
 
 「管理」がこわいといって逃げまわろうとしている教師に,子どもを成長させる力があるとは信じられません。

 子どもに「管理」の意味を教えるのも,教育の役割です。

 「管理」は,だれのためにするものなのか。

 「教育」は,だれのためにするものなのか。

 教育にたずさわる人間の資質や能力について,もっと多くの人の関心や理解が必要だと痛感しています。

 「管理職」のコンピテンシーも,教育現場においては,本質的には教師のコンピテンシーと同じです。

 それを堂々と示せる勇気を。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より