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教育に情熱があっても無駄な「職務」観

 職務専念義務というのは,国家公務員法の第96条,地方公務員法の第30条で規定されている,

 すべて職員は,国民全体の奉仕者として,公共の利益のために勤務し,且つ,職務の遂行に当っては,全力を挙げてこれに専念しなければならない

 というものです。

教育公務員が「全力を挙げて専念しなければならない職務」とは何でしょうか?

 地方公務員法第35条では,

 職員は,法律又は条例に特別の定がある場合を除く外,その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い,当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない

 とあり,「特別の定」によって,

 職務専念義務が免除される場合として,研修などが認められているのです。

 教育公務員特例法の第22条2に注目してください。下線は私が引きました。

 2  教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。

 研修に限らず,授業時間にかかるような教員の出張は,直前に決まることはほとんどなく,あらかじめ授業に支障がでないようにしておくことが可能です。

 それなのに,授業を行わず,「自習にする」という選択肢がとられるような出張の命令というのは,地方公務員法の「職務専念義務」の趣旨に反しているわけです。

 dolceさんもご存じのことだったと思いますが,

 職務専念義務というのと,

 地方公務員法第32条に規定されている以下のこととは趣旨が異なります。

 職員は,その職務を遂行するに当つて,法令,条例,地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い,且つ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

 ですから,

>自習になるとしても、出張の職務命令が出たら、その職務命令に従うのが職務専念義務です。職務命令に従わないことが、職務命令違反です。いついかなる場合も「授業」が職務専念義務ではないです。どうも「授業」が刷り込まれてしまっているようです。

 というdolceさんの考え方では,

 「法律の趣旨に背く上司の職務上の命令に従うべきかどうか

 という「思考」を働かせることができず,

 「命令絶対主義」という立場になるのです。

 法律の趣旨は,子どもの教育=職務に専念することであって,それに支障がでる「勤務場所から離れる研修などの出張」は,「認められない」というのが,正しい解釈なのです。

 「命令なんだから仕方がないだろう

 ということを言っているのが,dolceさんなのですが,この人に

 「教育に情熱をかける教師のための」アドバイスは果たして可能なのでしょうか。

 子どもから,

 今日は先生と勉強がしたい。

 どうしていなくなってしまうの?

 と聞かれて,「校長先生の命令だから,しかたがないんだよ」

 と答えるのは,校長先生への責任転嫁でもあるし,子どもからすればただの「言い訳」でしょう。

 法律の解釈がおかしいのが,dolceさんであり,同じようなことは,いくつかの自治体でも現実としてあるようです。

 以上,実は,以前にも書いたようなことの,繰り返しでした。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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