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dolceさんの指導力への疑問

 dolceさんの記事からにじみでているのは,

 「指導力」とは

 「問われたらその答えを教えてあげることだ

 程度にしか考えておられないことです。

「問い」と「答え」は常にセットになっていなければならない,という発想にとらわれている

 ペーパーテストは記憶力をはかるもの,という認識と,相似形なのです。

 「指導力」に対する想像力がはたらかないから,

 「ある」と「ない」という選択肢しか思い浮かべられず

 「どの程度あるのか」「どの程度ないのか」という発想ができない。

 これが,ご本人の言葉を借りれば,

>「指導力のない教師」「指導力のある教師」って、話がこの段階でストップというのは、どうしてもCPU(脳)のビットが少ないので、そこから先へは進まない

 ストップしているのがご自分であることに気づいておられない。

 「指導力のない教師」「指導力のある教師」という分け方をするのが,

 「2ビット人間」って言うんでしたっけ?
 
 

>「指導力」以上に細分化できない人は、大丈夫か?

 まず「指導力」のレベルを細分化しようとしない人が,大丈夫か?ですね。

 驚いたのは,

 「いかに、粘り強く練習をするかです」という答えと,

 「毎日、音階練習をすることです」という答えが,全く違うものであるという認識でいることです。

>本当に実践を積み重ね、充実してきた人の言葉は平易である

>名実ともに偉い人の言葉は簡単

かもしれませんが,

 言葉がわかりやすいことと,その言葉を直接子どもに伝えて,楽器の演奏を上手にさせようとすることとは別の問題です。

 繰り返しになりますが,指導とは,何かの答えを与えることだ,という発想でいらっしゃる。

 実践を積み重ねてきた人にはわかりやすい言葉でも,習い始めの子どもには,「毎日,音階練習することで楽器が上手になる」という意味の言葉と,「毎日,練習すれば楽器が上手になる」という意味の言葉と,どのくらいの違いがあるというのでしょう?

 「毎日,粘り強く練習することだよ」と答えれば,「どんな練習?」と聞いてくるに決まっています。その答えが「音階練習」なんですよね。
 
 楽器の練習で,音階練習をしないということがあるのか,音階練習ではない練習とは,どのようなものなのか知らないのでこういう感想になるのですが。

*****************

 なぜ,dolceさんには,「問い返し」という発想がないのでしょう?

 どうしたら楽器の演奏が上手になれますか?

 と聞かれたら,

 「こうしろ」と言いたくなってしまう教師。
 
 「こうしろ」と言って,その通りに子どもができて,実際に上手になったら,

 その教師は「指導力がある」と言われるかもしれない。

 でも,ここで,

 「どうすれば上手になると思う?

 と逆に聞き返すことで,相手の意欲,意識,能力の実際,目的,問いの意図などがわかっていく
  
 そして,その中に,答えが隠されているかもしれないことに気づかせる

 この,「気づかせる」ことができる教師は,

 「すぐに教えたがる」教師よりも,優れている面があるのです。


 それが,「自分の頭で考える人間を育てる」教師の姿です。


  「指導力のある教師」のイメージが貧困であるなら,

 教師の言葉をそのまま実行してできるようになった生徒A」と,教師の言葉からヒントを得て自分で考えた方法で努力して,「できるようになった生徒B」の違いを考えてみてください。

 生徒Aは,その後も,答えを聞きに,教師のもとにくるかもしれません。自分の頭では考えずに。

 生徒Bは,その後も,ヒントを聞きに,教師のもとにくるかもしれません。自分の頭で考えるために。

 
 「すぐに教えたがる」教師たちは,「すぐに答えを知りたがる」人間でもあることが多いのでしょう。

 「すぐに答えを知りたがる」教師たちがとびつきたくなるようなタイトルの本が,たくさん出版されていませんか?
 
 たいていは読んでがっかりすることになるのでしょうが・・・・・。

 答えを教えることだけが「指導」ではないのです。
 
 そういう意味では,教科書の「指導書」は,「指導力のない人のための本」なのかもしれません

*****************

 dolceさんは,塾の講師の方を相手に,「塾の教育などは教育とは呼べない」というようなことを強い口調で言っていましたが,

 dolceさんの「指導力」観を読ませていただくと,「楽器の演奏の指導は教育とは呼べない」ことも,明らかでしょうね。まあ,dolceさんの話はもともと「教育の話」ではなかったのかもしれませんが。

 それは,楽器の演奏の指導の実践であって,学校教育にたずさわる教師の教育実践とはちょっと質も範囲も対象も異なった行為です。

*****************

 残念ながら,dolceさんが紹介している担任としての「実践」は,少なくとも中学校では,「誤り」です
 
>私は、担任はなるべく教室にいるようにせよと言う。

>放課の時間が大切である。

>子どもは放課が好きである。

>放課は遊びに夢中になって、ほんとうの姿を見せることが多い。


 教室が遊び場だという学校がまず?なのですが,これは,教師の立場としては,悪くはないと思います。

 まず,放課後の学校で教師が預かってくれるのは,親としては大助かりです。

 小学校では,中学校とは異なり,部活動がなく,子どもはすぐに下校させるのが一般的だと思っていました。

 子どもの立場からすると,常に教師に「見張られている」ので,「羽目を外す」「秘密の話をする」ことができず,非常に窮屈なのでしょうが。

 そんなに暇な仕事で,うらやましい,と子どもが思うなら,動機は不純ながら,それも教師志望者を増やすためならいいでしょう。

*****************

 放課=休み時間なんだそうですね。授業と授業の合間に教室にいる小学校の先生は,少なくないのでは?

 課題のチェックから,採点,次の授業の準備など,することがたくさんあるでしょう。

 教室に担任用の汚い(ものが散乱している)机がある小学校を多く目にしてきました。

 ただ児童を見守るためだけに教室にいる,という教師は逆にあまり見たことがありません。

*****************
 

 問題は,中学校です。

>中学生は、体は大きくても、精神的には不安定でまだ独り立ちできていない。

>時には生意気なことを言う。でも、心はそんなに強くない。

>だから、中学生も学校では、たとえ時間数は少なくても、担任は精神的な支えと思う。

>学校が荒れていた時、私は常に教室にいるようにした。

>始め、生徒たちは私を気にして、うっとうしいようであったが、そのうち存在を意識しなくなった。

>教室の空気は穏やかになり、平和な感じがするようになった。


 小学校の教師が中学校に入ると,中学校も「学級王国」にしてしまうのですね。

 「学級王国」は,「担任が支配している状態」ではなくても,「独立国」であることが問題なのです。

 では,この実践のどこが問題かというと,

 中学校の場合,担任は,自分の学級のことだけ考えていればよい存在ではないのです。

 教科担任として,分掌の担当者として,部活動の顧問としての立場がある。

 教師を教育する立場の主幹という役割もある。

 学年の仕事もある。

 常に教室にいる,ということは,常に職員室にはいない,ということだから,

 非常に重要な,職員室でかわされる複数の教師間・学年間の情報交換が,できない立場になる,ということです。

 自分の学級は平和になるかもしれないが,自分の学級の生徒が他の場所でやっていることには対応できない

 中学校という職場のとらえ方に問題があるのです。

 dolceさん以外の教師もそんなだから,荒れてしまったのでしょうか?

 そもそもが,荒れている学校で,担任の教師がいる教室に子どもがずっといる,ということは考えられない

 おとなしく自分の教室で暴れている(?)ような生徒は「荒れた学校」にはいないのでは?

 担任が教室にいるような荒れている学校では,生徒は当然のように他の場所で問題を起こすのでは?

 私とdolceさんの「荒れている」学校観にかなりの隔たりがあるのかもしれませんが,

 私の経験した「荒れている」学校では,常に情報が職員室に集まり,そこで意思決定ができるようにしていました。どこに,何人で,向かうか。教室にはだれが行くか。職員室にはだれが残るか。瞬時に決定して,対応にあたるのです。

 自分のクラスだけを守るために,「閉じこもっている担任」の存在は,いかにも小学校の「学級最優先主義者」らしい。

 距離の近さが,心の近さとは限らないことに,こういう教師には気づいてほしい

 自分のクラスの生徒を守るためには,自分のクラスに生徒全員を閉じ込めておかなければならない

 dolceさんは,子どもが

>存在を意識しなくなった

 ことの意味を取り違えてはいないか?と非常に心配になってしまうのです。
 
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コメント

中学校で4月から薬の使い方の指導が義務
http://www.mylifenote.net/014/4_2.html

保健室の先生?か体育の先生に授業をさせたらそれこそ指導力不足ではないのかとおもうのです。なにせ薬剤師ではないし、教科書の内容は20年前の薬の話だったり
大体、薬剤師のまねを数ヶ月の付け焼き刃で出来たとして、それは出来たつもりになるだけで、誤解を生むということにもなりそうです。薬は決められた時間に決められた量を飲むとかいわれても、重篤な副作用がでる場合すくに注視する必要もあり、それが薬の副作用かどうかを見分けるだけの知識まで教えておかないと、間違った使い方をしてしまうことにもなりません。

ただ、正しい薬の使い方をある程度は知っておく必要もあり、一概にそれでは駄目と言うわけにもいかないでしょう。学校薬剤師に特別委免許を与える必要があるのではと思うのです。

そうでないと、いい加減な知識で覚え込ませて指導力があるなんて思い込んでしまう教師を増やしてしまいそうで怖いです。

同様に武道の必修化も怖いです。柔道をやったことの無い体育教師に指導を任せるという、その無神経さが怖い。

指導力の衰弱した教師が相変わらず教壇に立つのと同じ事ではあるのですが上記の例は、悪い結果ならとても重大な事故になり、指導力衰弱教師の場合、塾にたよれば回避できるのでやっかいです。

お勧めの本
はやぶさ 世界初を実現した日本の力 [単行本(ソフトカバー)]
川口 淳一郎 (著)

この本は失敗から学んでいる人の実践です。
決して『武勇伝』ではありません、私は、武勇伝を語る人が嫌いです。
武勇伝には、何も反省がありません、最初から結末ありきのストーリーが武勇伝です。

映画の内容を訂正している部分もあり、一般受けするように監督がそうしたのかも、、と思えることがあります。著者の川口氏が訂正しておかないとと思うのも解る気がします。
リーダーシップの本質とは何かがよくわかる本です。

私が小学生の時、休み時間に教員室に帰らない先生に出会うことが出来ました。
しかし、見張っているという感覚は全くなく、子供の時というのは好奇心旺盛な子が結構多くて、授業でやらない難しいことや(高校生レベルの数学とか)そういうのを質問したらちゃんと教えてくれるのです。だからみんなが競い合っていっぱいいろんな事を教えてもらいました。

小学校の先生で小学生に対数とか三角関数とか微積分とかをちゃんとポイントを押さえて説明できる人というのは少ないのでは無いでしょうか。当然ながら小学校教員なら教員免許を持っているわけだから高校レベルの数学は履修し単位を取っている事になっています。でも教えられない人の方が圧倒的に多いはず。

映画の「はやぶさ(Fox版)」のなかで小学生の子が説明員に電気でどうして衛星が飛ぶの?という質問をして、全然子供に解らない説明をしているシーンがありました。
その説明が全く駄目だったことを自ら気づいてしょげていると、、、

子供に解るように説明出来るということは、説明する側がそのことの本質を良く理解していなければ無理です。それと説明する側が、説明を受ける側の基礎知識がどのあたりまであるのかということ、そして説明を受ける側が何を求めているのかを、探りながら進めなくては全くちぐはぐになります。

この映画の中で失敗して学ぶというプロセスが説明員(竹内結子)、やそのほかのスタッフを大きく成長させてゆく、ということが盛り込まれています。

教えることは、教える側にとって、答えを暗記させることでは無く本質的に明確な知識を得るのに最適なプロセスだと思っています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より