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小学校担任の「はずれ」への対応

 「教育に情熱をかける教師のため」ではなくて,「教育への情熱を欠いた教師のため」なら,指導力不足教員を多面的に捉えていこうとする態度は,プレッシャーになるわけですからやめた方がいいですね。

 それより,最初は「はずれ」と思っても,あとで「いい先生」と思えるようになることがある,なんていう「なぐさめ」を言っておいた方がよいのでしょう。

 このブログは,タイトルどおりの記事を書くことが使命です。

 新年度早々,いやな使命ですね・・・。

 間もなく,新学年の担任が発表になります。

 小学校では,学習指導から生活指導まで,大部分の面倒をみてもらう人が決まるわけですから,保護者も子どももハラハラ・どきどきです。

 3月までの段階で,すでに「はずれ」当確の人がいる場合などは・・・・。

 教師の実績や評判を耳にしたことがない場合には,「第一印象」で「あたり」とか「はずれ」とかいう感想をもらしてしまいます。
 
 この「第一印象」がいかに大事かは,言うまでもないですが,「第一印象」にだまされてはいけない,なんて教訓が得られるなら,教師にとっても子どもにとってもいいことです。

 しかし,「第一印象」どおりということになると,話は別です。

 教師の側ではまずもって,「あたり」と評価されるのはそう容易なことではない,と覚悟しておくことが大事ですね。

 それだけ責任も重いし,教育はなかなか思い通りにはいかないのが常です。

 少しでも親の不安を和らげるためには,小学校の場合,「組織」をどれだけ前面に出せるかが勝負でしょう。

 研究・研修組織などの校内分掌のあり方,管理職をはじめとした多くの教師による授業の質の確保への取り組みなどが,PRできるとよいですね。

******************

 しかし,それをどう頑張っても,「はずれ」は「はずれ」という評価が下される場合があります。

 正真正銘の「はずれ」の場合,親として,どうしたらよいか。

 それが,子どもにとって,長い人生のたった1年のこと,と考えようとすればできない話ではないでしょうが,そのたった1年のなかで,取り返しのつかない傷を負う子どももいることを忘れてはなりません。

 ある記事では,「休みが多い学級担任を変えてほしい」という相談への回答が示されていました。

 小学校の管理職にとって,もう「想定問答」ができあがってしまっているような頻繁な相談(要望)が,

 「学級担任を変えてほしい

 というものです。

 「変えても同じようなもの」とはなかなか言えません。

 つまらない言葉の行き違いから,「担任おろし」の要望を出される場合もあるでしょうが,私のブログ記事が具体的に活用されてしまうと,都合の悪い教員は少なくないと思います。

 55+33で88項目の中から,具体的な課題を管理職が指摘されると,本当に「やりにくい」でしょうね。

 そういう教員は,たいてい長くても3年くらいで異動しますから,ついうっかり,管理職が

 「今年だけは勘弁してください

 なんて答えた日には,逆上した保護者が学校に乗り込む,なんてことも起こってしまうのです。

 学校によっては,「いつ産休に入るかわからないような女性の教員は担任にしないでくれ」なんて要望もあるのです。これはちょっと困りますね。

 「私はいつ産休に入るかわかりません。もしそうなったら,子どもや先生方に迷惑をかけるので,担任にはしないでください」という教員がいるのも,一方で困りものです。

 指導力不足が原因の「担任おろし」の要望は,冷静沈着に,しっかりとデータを集積して,まずはある程度,まとまった段階で「見直しの要望」をして,その後,何の改善もみられない場合に,「管理職の責任の追及姿勢」も明らかにして,正式に要望する,それを,お互いに信頼できる何人かで,行うのです。そのような,「組織的な動き」が必要です。

 基本的には,子どもとの協力,なんて形ではなく,つまり,子どもには直接的に担任への批評はさしひかえて,事実だけを聞き取っていく。そういう配慮は大切です。とりあえず,「崩壊状態」になっていないのであれば。

 一言だけ,おことわりしておきますが,「崩壊状態」になってからでは,遅いです。

崩壊に至っていないのであれば,最初の「見直しの要望」の段階で,改善される可能性もあるのです。

 このような行動は,正当な権利というより,ほとんど保護者の義務として,学校に要求すべきです。

 何だか暗ーいイメージの作業ですが,実際にはそうでもないですね。

 子どもが担任をかばってくれたりすると,子どもも一層,好きになれます。

 「担任おろし」の要求は,決してヒステリックにはやらないで,あくまでも,システマティックに行う。

 そういうノウハウを公開するとしたら・・・・・こんなブログでしかあり得ませんね。

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コメント

匿名さん,真愚さん,コメントありがとうございます。

教員の異動は,1年でも可能なところがあります。

Aという地域で苦情を受け,Bという地域に異動して苦情を受け,Cという・・・の繰り返し。

体育の授業を見学に行った校長先生が,教員が一人でグラウンドでランニングしていて,生徒たちはただ思い思いの遊びをしていたのを見たとき,本当に驚いた,という話を耳にして,その話を知り合いの先生にしたら,上に書いたような「有名人」であることがわかりました。

こういう先生が異動したとき,「真実」の情報は,はじめ,校長しか知らないんですね。

学年主任や,教科主任に内緒にしてしまう管理職がいる。

で,問題は絶対に起こってしまうから,どうしても対応が後手後手にまわってしまう。

これも,頭が痛い話です。

親の詭弁に対応せんでも、、、
子は親を選べないのだから、、、

>そういう教員は,たいてい長くても3年くらいで異動しますから

直接かかわったことはないのですが、小学校教員で新任以来50過ぎになってもきっちり3年で異動している人、問題が多いということですね。
 多分定年まで3年間隔で異動するのだろうなと予測はつくのですが、、、親の立場からすれば授業がいい加減な先生には消えてもらいたい。

 しかし採用の時演技力を発揮して採用されるケースではないかと、「心理テストはウソでした」という本、血液型占いとロールシャッハ、クレペリン、YGなどが大して変わらないレベルのものであると書いてあります。
 血液型は演技で変えることは出来ませんが、心理テストは演技で結果を偽れます。
その結果、演技力の高い人が選択的に採用されてしまうということになるでしょう。

演技性人格障害(HPD)の人が、人物的にすれているという間違った採用基準を施すという皮肉な結果です。HPDの人はかっこのいいこととかそういう言葉を巧みに使いますが中身は無いので、授業はさっぱりです。授業がうまくいかないのを子供のせいにします、時々スケープゴートになりそうな子供がいたら教師もいじめに加担します。

それでもその先生は担任のまま、子供には選ぶ権利が与えられません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より