ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 教育ブログをやっていて良かったと思えた瞬間 | トップページ | 人間(教師)を成長させるためにあるコンピテンシーモデル »

教育ブログをやっていて情けなく思える瞬間

 教育という仕事は,子どもを相手にするというのが中心なので,そうではない大人とのやりとりをしているときは,「こんな人間は本当に社会人として認められるのか?」と思われるような行動をとっても,多少,大目に見てもらえる,というのが,かつての教師の特権でした。
 
 ですから,「教師の常識は世間の非常識」という言い方には,「教師はそういう人間だから,許せる範囲は許してあげよう」「教師とつきあうときは,そういう意識でのぞんでおこう」「音楽の指導だけは一流だから,他のことには目をつぶろう」という「暗黙の了解」を確認するという意味がこめられていたような気がします。

 教育という仕事は子ども抜きではできない・・・・・女性が住んでいない町に産婦人科医院が必要ないように・・・・わけで,せめて非常識さをさらけ出すにしても,子どもの存在自体は忘れないでいただきたいのに,そうではない人が「教育を語っている」と思うだけで情けなくなります。


 さて,dolceさんが「妄想」とよんでいる私の発言の根拠を示しながら,再度,質問を投げかけてみましょう

 
私の発言:dolceさんは,「お金を出さないと不正合格は果たせない」と考えているようですね。

dolceさんの反応:私はそんなことは思っていません。勝手に捏造しないでください。他人の考えまで立ち入って、自分の気にいるように決めてしまうわがままさは何とも言えませんね。好き勝手に意見を言うだけで足りなくて、他人の考えまで捏造してしまう精神は普通じゃないと思います。どうして、他人の心の中がわかるんですか?

 私がコネ採用と言っただけで,dolceさんが例に挙げて私を批判しているのは,金品の授受がからむ「汚職」の話だけです。私は,ただの「口利き」だけで成立する不正もありうると考えています。選考の条件には本来ないはずの「出身地」などは,人口減少に歯止めをかけたい地方の小さな自治体では,けっこうあり得る「隠れた選考基準」になっている気がします。ここに長年,議員をつとめている人の紹介なんかあったらなおさら・・・。

 「お金を出さないと不正合格は果たせない」とdolceさんが考えているのだろうと書いたのは,その話しか出てきていないからです。

 dolceさんに質問ですが,お金を出さないで不正合格を果たすことは可能なのでしょうか?

 私がdolceさんの考えを「捏造」しているつもりはない・・・・やりとりを通して,自然な予想を立てて・・・書いているのですが,私の予想がどのようにずれているのかは,お金を出さないで不正合格をどうやって果たすことができると考えているのか,どうぞお聞かせいただいて,読者の方にもわかるようにしてもらえると助かります。

 dolceさんの話に説得力がないのは,

 相手に対して「捏造だ」「妄想だ」と批判するわりに,

 それが「捏造である」「妄想である」ことの根拠が挙げられないのが最大の原因です。

 「お前は頭がおかしいからだ」「お前に国語力がないからだ」というのが根拠なので,これに近い指導力不足教員のパターン・・・「私の話が理解できない子どもが悪い」ということしか繰り返せない・・・・を思い出してしまいます。
 

私の発言:教員採用に限らず,「縁故」「(元の)上下関係」「義理」などが影響して,本来の「得点」とは「別のかたちの上積み」によって合格できる人間がいる疑いは,「世間」を知っている人なら当然もつものでしょう。

dolceさんの反応:疑いを持つかどうか、特に「当然」かどうか、私には他人の心はわかりません(超能力はありませんから)。はっきり言えることは「他の人たちはそういう疑いを持つのが『当然』と明言しているあなたの考え方」でしょう。

 縁故採用,コネ採用という言葉が現にあるわけですし,dolceさんの好きなウィキペディアで調べれば,具体例も紹介されているわけですから,もし,「縁故採用などは存在しない」と言ってしまったら,それこそ「世間知らず」になってしまうのではないでしょか。この点については,dolceさんはいかがお考えですか


私の言葉:金品の授受はなくても,「別のかたちの上積み」が「不正」であることは間違いないですね。

dolceさんの反応:すごいですね。どうして、あなたは間違いないと言えるのですか?
あなたが、そう断定できるということは「あなたがその事実を知っている」と解釈できますが、そういうことですね?
そうなんですか、あなたは、公立学校の教員採用に際して「本来の『得点』とは『別のかたちの上積み』によって合格できる人間がいる」を知っているわけですね?なのに秘密にしているということですね。

 これは,dolceさんの読み間違えでしょうか? それとも,これこそが「妄想」?

不正の事実を私が知る立場にはないことは,だれの目にも明らかです。

 私は,

 採用された人間は,「不正」があったかどうかを,今の制度では,確かめる方法はありません

 とも書いています。
 
 「別のかたちの上積み」とは,選考基準には入っていない,関係者の口利き,出身地,両親の実績などに基づく加点のことを私は想定しています。

 こういうことによる「加点」は,選考上,不正な行為ではないのでしょうか。dolceさんのご意見をうかがいたいものです


私の発言:そもそも自分の採用について,コネによる「不正」があったかどうかを調べる人間はいないでしょう。

dolceさんの反応:「いないでしょう」と言われても、私は「はい」とは言えませんね。だって、他人のことはわからないですから。心が咎めて、告白する人がいるかも知れませんから。それに、別件で調べたいたら、そういうことを告白するかも知れませんからね。

 そもそも,自分の合否に関して,コネによる不正があったかどうかを調べる手段がないのです。受験している自分自身が合否の判定にかかわることができないのは当たり前ですね。dolceさんなら,どうやって調べますか?


私の発言:繰り返すようですが,dolceさんのように,「採用試験に合格したのだから,何の問題もない」とだれもが思っているのであれば,このタイプの「不正」を暴こうという発想もできないことになります。

dolceさんの反応:と言うことは、100%とバレないと考えていないということですね。完全犯罪はないと考えてみえるということですね。バレないうちに、明るみに出しましょう。何度も言いますが、私は「他人の心」はわかりません。


 dolceさんという人は,書かれている文章から,「他人の心」だけでなく,「病気への疑い」まで考えをめぐらせてくださっている方なのですが,これはやはり「受容の心を大切にしている」からではないでしょうか。

 「採用試験に合格したのだから,何の問題もない」

 というdolceさんの言葉というのは,採用試験では,一切の不正はあり得ない,ということを意味しているわけですよね。

 私の場合は,不正があり得ないとは言えない,という考えだから,まだ「不正」を暴こうという発想が可能なのだ,と申し上げているのです。特に,校長とか教育長,議員の子どもで,採用試験に合格した,指導力がまるでない教師を見ると

 dolceさんは

>採用試験に不正なく(何のうしろめたいこともなく)合格したなら、何の問題ないです。

 と言いますが,

 繰り返しになって恐縮ですが,不正なく合格できたのかどうか,確かめる手段はないのです。私にも,dolceさんにも,採用試験を受けた人間にも,確かめることはできないのです。

 dolceさんは

>普通の人間だったら、そういうのは「疑い深い性格」ということになりますが、あなたが不正に確信が持てるというなら、やっぱり超能力がある

 事実,不正が明るみになって合格が取り消しになった人がいるわけですから,「ほかにもばれていない不正があるのではないか」と想像するのに「超能力」は必要ないのでは?

 この世の中には,これだけの証拠をつきつけられても,決めつけや誤解に対する反省をしない人がいるとうことは,「超能力」を必要とせずに断言できます。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 経営ブログ 仕事術へ

« 教育ブログをやっていて良かったと思えた瞬間 | トップページ | 人間(教師)を成長させるためにあるコンピテンシーモデル »

ブログネタ」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

コメント

「あの方」は相変わらず・・・・憐れな人です。
他人に投げかけた自分の言葉の重みを認識できない。
人から投げかけられた言葉には異常な執念を燃やして反応する。
こういう人が職場に一人いるだけで,現場はたいへんだったことでしょう。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/54473718

この記事へのトラックバック一覧です: 教育ブログをやっていて情けなく思える瞬間:

« 教育ブログをやっていて良かったと思えた瞬間 | トップページ | 人間(教師)を成長させるためにあるコンピテンシーモデル »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より