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教員養成課程の質の向上

 教員養成課程は,実質的に教員採用試験対策の予備校のようになってしまいがちなことは,採用試験にかかわった人間を進んで採用している大学では仕方のないことでしょう。

 採用試験の合格者数だけで「評価される」「選ばれる」ような大学なら,仕方がありません。

 「いい教員の卵を育てる」のが「理念」ではなくて,「採用試験に合格できる人間を育てる」のが「理念」なのですから。

 こういう大学の教員は,「現場のことを知っている」強みというより,「採用試験への合格のさせ方を知っている」という強みが生かされているのです。

 「現場のことを知らない」と言われることに,行政機関だけの経験,大学や学会の中だけの経験しかもっていない人の中には,非常に強い引け目を感じている人がいます。

 しかし,そういう人でも,極端な話,たった1日,ある学校の研究発表会などに参加するだけで,現場がかかえている問題に気づいてくれることもあります。

 「指導力のある教師とは,どのような教師なのか」に気づくことができます。

 その課題を解決するために,大学や行政ができることは山ほどあるはずなのです。

 教員養成課程の質の向上は,何で保障されるのでしょう。

 それは,やはり前提として,未来を担う子どもたちのために,「教員の質を高める」という確固たる「理念」が存在するかどうかにかかってくるでしょう。

 「こういう教師を養成する」・・・・そのメッセージが強ければ強いほど,そして,その理念に沿った教育がなされればなされるほど,質の向上を期待することができます。

 理念だけあっても,実際にはろくな授業もできない大学教師が,採用試験の合格の仕方だけ教えても,その指導によってよい教師の資質をはぐくむことはできません。むしろ,逆コンピテンシーが定着してしまいます。

 この「逆効果」・・・・・「こうすればうまくいく」なんて言葉への誘惑に負けてしまう・・・・・は,現場に入ってから意識改革をしようと思っても,そう簡単にはいきません。

 自分で悩みぬくより,目先の成功を優先して,すぐ「魔法の本」にすがりつくような行動にでます。

 中学生なら,「教科書ガイド」に飛びつく,そういうのと同じです。

 退職した後も,現職中の課題に全く向き合おうともしない人間がいることは確かなことで,こういう「やり逃げ」体質,「卒業させてしまえば責任は果たせたと言えるのだ」という無責任体質は,永久に消えることがないかもしれません。

 そうやって考えていくと,大事なのは

 「最初のボタン」なのだ,ということになり,教員養成課程に目が向くのですが,

 最後にこんなことを申し上げて恐縮です・・・・「最初のボタン」は,自分自身が児童・生徒だったときにかけられる,その比重が非常に大きいというのが,私の実感です。

 こういうことが,公平性からするとあり得ないことなのですが,

 「何々先生に教わった人間だから,こういう授業ができるのだ。こういう授業ができる人に,教師になってほしい

 という考え方が生まれてくるのです。

 実際にコネで教師になる,というのは全く別次元の話ですが,

 こういう先生が,一人でも多く,大学でも生まれてきてくれることを望んでいます。

 大学の教師は,評価を厳格な基準に基づいてつける。

 そして,実際になった教員の実績をしっかりフォローして,どういう大学の教師が,いい加減な人間に高い評価をつけて卒業させてきたのかを,しっかり判断していく。

 一人の学生が教師になった後の責任を,大学側がしっかりフォローする。

 教員養成系の大学なら,ここまでやってくれてもいいのではないですかね。

 現場に立った卒業生が,後輩を育てる,そういう活動もできるでしょうし。

 
 匿名さんからのコメント(以下,斜体の部分),いつもありがとうございます。

****************

>私が一番疑問なのは、教師の養成課程である教育学部のカリキュラムが異常なほど少ないということです。

ほかの学部にいて、無理して教職の単位を取る学生と比べたらこの差は明らかで、所属する学部が理系の場合もっと極端です。

また、提出物なども教育学部は工学部と比べて極端に少ないのです。
教育学部という存在に疑問を持ちます。
医学部、薬学部、工学部、理学部で博士のひとのほうが、小学校教員免許を持っているひとより遙かに優秀で、説明する能力が高いのはなぜか、考えてみたら解ることですが、その差はすでに学生の時にどれだけ多くを学んで、解らない課題に向き合って解決し、それを他の人に伝えて残すということをやってきた人たちが博士なのです。

教員養成課程である教育学部、たとえ小学生が相手のことであっても十分な良識と教養が必要だと思います。

教養も良識もどちらも磨くすでをしらないまま一人前の教師として教壇に立つことになるというのが問題の根っこにあると容易に想像がつきます。

 教育学部の出身者は,「実際に教える教科の専門的な知識・技能に乏しい」という点が弱点です。

 どちらかというと,「技能」面を重視するタイプが多く,「絵に描いた餅」的な指導案をつくり,堂々とした態度で「失敗」の授業をやりきってしまう。

 教育学部出身でも,まだ「私は体育会で主将をつとめてきました」というような,机に座っているより外で大きな声を出し続けていたような人の方が,よほど現場で「即戦力」になる,という話は以前にも紹介したと思います。

 人にものを教える仕事のことをどんなに考えてみても,なかなか前には進まず,人がものを学ぶ,それを助ける仕事のことを考える,そういう発想が必要なのかもしれませんね。ただ,これを間違って小中学生にやってしまい,顕在化してしまったのが「学力低下」の問題でした。

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コメント

中学校の現場では,やはり部活動の指導ができないと,程度の差はあるでしょうが居心地が悪くなるところでしょうね。

担任なんかより,よほど部活の顧問との関係が深くなる。

中学校生活の一番の思い出は?というと,やはり部活動という大人も多いのではないでしょうか。

私が東京都にいたとき,採用される若い人が,いかにも「部活動経験ありません」なんていうひ弱そうな人が多くて,「まさか,体育会系の人間は無条件ではじいたりしてないでしょうね」なんて冗談を人事担当者に言ったことがありました。

だいたい,初対面というか,第一印象で「この人は」というのはわかりそうなものなのですが,直感で採用するわけにもいかず,「なぜ選ばれたの?」と確かめたくなる人が多かったですね。

筆記試験で点数をとらないとどうにもならないので,早く誰かが対策を立てにくい,もっといい採用の方法を開発してくれないかなと思ってしまいます。

体育会キャプテンという色眼鏡も怪しいです。

http://www.youtube.com/watch?v=V_5SdU3AaDM
この記事のようなのが教師になっていた事実は重たいと考えるべきです。
いろんな色眼鏡で判定しようとするのが間違い。

民間企業なら試用期間として6ヶ月ぐらいがあり。その期間適正が無い場合、解雇です。

教員の場合は採用が決まればたとえ猥褻事件で起訴されても(起訴休職)事件を否認している限りは、1審有罪で上告すれば処分されません。適正の可否を判定できてそれを決定できる権限がどこにも存在しないのです。

採用試験で偽った自分を見せることは非常に容易であり、間違った採用を取り消すことも出来ないというのが制度上大きな欠点です。

指導力というのがあるなしも判定できる人がいないということになると思います。
それ故、部活で○○県大会優勝とか、そういう無意味な事で(子供の学力と関係ない)
指導力云々を示すという明後日の評価が平然と行われるようになってしまいました。

授業をおろそかにしなければ部活に熱心な先生はとても好ましいのですが、授業は一人前では無く、かなりいい加減(小学校に多い)で部活だけという先生だと、子供はその時は楽しいかもしれないけれど、大人になって衰弱した学力のせいで就職先も決まらず、就職しても問題に直面したらフリーズする。こういうのは子供のための教育では無く、教師の自己実現の踏み台としての教育という歌劇になると思います。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より