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「東京の公教育への心配」の仕方への心配

 toshiさんという人の記事を読むとわかるとおり,

 東京の公教育への「心配」の仕方は,二通りあります。

 一つは,toshiさんのように,「先生の立場」からの心配。
 
 もう一つは,私や,東京の公立学校に子どもを通わせている,あるいはこれから通わせる予定の「保護者の立場」からの心配。

 toshiさんは,教育委員会(教育長)の方針という,校長が従わなければならない教育長の命令の中身を心配している。

 私は,なぜ教育委員会(教育長)が,そのような方針を出したかを知っている。

 東京の先生方の教育が,保護者の期待に応えきれていないということ。

 そして,その傾向は,特に小学校の場合は教員の大量採用によって,どんどん高まっていく,ということ。

 だから,toshiさんみたいな人たちの「対応能力の欠如」をみると,「だからだめなんだ」と思ってしまう。

 教員のなかには,教師としての資質だけでなく,公務員や社会人としての資質にも欠けている人がいるのがばれてしまう,と。

 dolceさんのように,校長の命令には絶対に従わなければならない,という立場の人ばかりなら,命令に従っている教員の指導力不足を盾に,校長の命令なり教育委員会の命令なりに疑義を呈することが可能になります。

 校長の命令=教育委員会の命令どおりにやっているから,こんなレベルの教員ばかりになってしまって,東京の教育力が低下しているのだと。

 しかし,toshiさんたちの発想は,そうではない。

 教育委員会の命令に,疑義を呈している。

 それはそれで,決して悪いことではないのですが,

 命令の趣旨を理解して,それに沿った行動を起こし,

 教育の目標の実現に努力してみて,そこからさらなる改善への道を見いだしていく,

 そういう意欲の欠如がありありと感じられる,

 それが,東京に限らず,公教育への心配が高まるということへの心配なのです。

 タイトルだけ読むといいことが書いてありそうでも,なぜか不思議と教育への熱意が感じられない,そんな教育ブログもあるものです。

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コメント

若い人には,古い人の話を聞くのも大事ですが,古い人の近くにいるより子どもの近くにいる時間を長くしてあげたいです。勉強になるのは,今,苦しんでいる10年後の自分みたいな人の近くにいることでしょうか。

>教育の目標の実現に努力してみて,そこからさらなる改善への道を見いだしていく,
>そういう意欲の欠如がありありと感じられる

見てきました、全く同感です。要するに昔は良かったといっているだけで、どこをどう改善するのかという話は無いですね。昔は良かったと思う人はすでに脳が老化し始めていて、いろいろな判断を間違うことが多いです。高齢者のドライバーに事故が多いというのとほぼ同じで、脳の老化は男性の方が目立つようです。

脳が老化すると、新しいことを受け入れにくくなります。それ故昔は良かったとなるのだろうと思います。誰しもやったことの無いことを初めてやるには相当なエネルギー、集中力、やる気、意思の力など掘り出して使わなければなりません。
それに抵抗するばかりでは良くはなりませんね。リハビリはつらいけど何もしないでいるとさらに衰弱してしまうのです。抵抗するエネルギーを受け入れるエネルギーに変えなくては、あまり良い結果にはならないと予測がつきます。

結局現役時代に何も磨かれていないということなのだと思えるのです。
研究者でかなり年配の人とかは七十歳を過ぎても新しいことに挑戦し、発表し成果を重ねてゆくのですが、、、、

脳の仕組みと学習、教育には密接な関係があると考えられます。
鳥が教育という行為を行うのも確かめられています。(私は母猫が子猫を教育しているのを見たけれど)鳥は学習能力がかなり高い動物という位置付けです。

動物に負けるのでは文明社会について行けない困った人になってしまいます。
今の日本の現状は、日本人の就職先が外国人に奪われているという現実。
これをもっと重く受け止めるべきでは無いでしょうか。
脳が老いた老人の描いた理想論は現代社会ではすでに通用しない側面を持っているということです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より