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小学校における「指導力横並び化圧力」の弊害

 カルロスさんが,私に語らせたかったであろうことを,そのまま,記事にしておきます。

>この執拗な小学校教師に対する敵視は何だろう。

 小学校の先生の特徴は,その「横並び意識」の強さ。

 中学校における,教員の連帯感というのとは,ちょっと違う

 「みんな同じ程度がいい」という,「指導力横並び化圧力」の強さが,問題の教師を批判されていることを,当てはまらない自分も相手にされていると誤解してしまう傾向の土台になっています。

 中学校の教師は,こんなことはありません。

 まず,dolceさんのように「自分のことだな」ということに気づかない教師がいて,

 「それがどうした」と開き直れる教師がいて,

 「あいつらの事だな」と距離をおける教師がいる。

 一部に,ああ,自分にもあてはまるかもしれないから,気を付けておこう,というごく自然なとらえ方をしてくれる教師がいる

 あんな教師の授業は受ける子どもがかわいそうだな,という教師がいても,他の時間で何とかなるだろう,とストレスをためずにいられるのが中学校の担任。

 小学校の担任は,崩壊学級を横で眺めながら,何を考えているのでしょう。

>普通は中学校について言われるようなことを、小学校の教師に対して言っている。

 ように見える。

 地域によっては,中学校でも小学校レベルの問題があるのですね。

>「ミラー現象」は、対象に自身の醜さを見て、嫌悪感を持って攻撃する、というもののようだ。

その「ミラー現象」の、最適な例が、失敗学の先生に言わせると、情熱の先生ということになる。

 私の使っていた「ミラー現象」という本来の言葉は,

 自分の醜い姿を見ながら,他人を攻撃している=結局,自分で自分を攻撃している

 というもので,「鏡を見ているという自覚がない」ため,恥ずかしいことになっている,という意味です。
 
 確かに,小学校の教師にも,中学校の教師にもあてはまることが多いかもしれませんが,小学校の教師に多い問題,中学校の教師に多い問題を,「それがなぜなのか」も含めて書いているつもりです。

>学級崩壊や体が寄り添うや教師の顔色をうかがうなど、小学校時代に生徒たちが見につけて中学校で「実践」しているようなことを、すべて小学校だけの問題のように書き立てている。

 中学校では,「学級崩壊」ではなく,「学校崩壊」「学年崩壊」が起こっているのがふつうでしょう。

 これは,私が想定している「崩壊現象」は,生徒の事情ではなく,教師の事情で起こっているものが多いです。

 教師の顔色をうかがうのは,小学校でも中学校でもおこるでしょうが,中学校ではすべての教師の顔色をうかがう必要はありません。自分に実害がないとわかれば,素直な表現ができます。
 
 小学校の場合は,対象の大人は担任教師一人ですから,一つ間違えると,「たいへんなこと」になります。

 中学校の場合は,担任教師との関係づくりに子どもが失敗しても,他にいくらでも関係がつくれる先生がいます。

 
>失敗学の先生は、相当に信頼され尊敬もされているようだから、みんなその言説に振り回されて、特に心ある人は受け止めようとして四苦八苦するけれど、冷たい見方をしてみれば、ただの愚痴なんだ。

 四苦八苦するのが教師の仕事です。

>中学校で生徒が思うように動かなかったり、最初から仕込み直しをしなければならないことへの苛立ちを、その原因と思われる小学校教育にぶつける。

 ここはちょっとした誤解です。

 最初から仕込みができるので,やりやすいのです。

 とても不謹慎な言い方をさせてもらうと,ダメダメの小学校から上がってくる子どもが一番指導しやすい

 子どもたち自身が,「自分たちで動ける」ことの喜びに目覚めるからです。

 小学校の学級崩壊の中心人物というふれこみで上がってきた子どもが,学級委員になって目覚ましい活躍をする,という場合があります。

 そういう目で見られていた子どもも,一度,中学校で「信頼される喜び」を知ると,小学校教師から見れば「約束が違う」?という姿を見せるようになります。

 どうして,小学校では,ああだったの?

 という疑問を抱いてくれるだけでも,次の何かにつながるでしょう。

>そのくせ、生徒たちが見につけている「狡猾な生き方」については、小学校の教師に対してだけで、中学校の教師には「犠牲となったいけにえの羊のような従順な生き方」を演じている生徒たちの姿をまるごと信用する。

 いわゆる,「落ち着いた学校」の意味がわからない,中学校教師への警句として,使わせてもらいたい言葉ですね。

 力でおさえつけられている「落ち着いた学校」と,子どもが自分の能力を最大限に発揮できている「落ち着いた学校」とは,外見上,同じように見えるかもしれませんが,大違いです。これは,子どもの目を見れば,すぐに診断可能なことですけど。

>ほほーい。失敗学の先生、もしもこれを読んでいたら、今、吐き気がしたのではないか?
>失敗学の先生のもっとも苦手な世界、「仲良く手を携えて」。

 残念でした。

 アイコンタクトで

 「ここは私が」「このあとよろしく」「ここはあの手で」「あとにしましょう」

 などの意思疎通を日常的にしている中学校の教師集団は想像できないでしょうね。

 こういう関係は,「仲良く手を携えて」なんて言葉で表現するようなものではありません。


>かなり無理して、ストレスがたまっているのじゃないの?
>生徒に対して寛容でいる分、そのことを失敗学の先生は否定するかも知れないが、それでも粘り強く生徒に向き合っているからこそ、ブログで、たまったストレスを発散しているように見える。

 そういう誤解を生んでしまうのは,私の文章力のなさと,

 内容の過激さのせいでしょうか。

 ご心配をいただいているカルロスさんには感謝申し上げますが,それは杞憂です。

 生徒に対して寛容な人・・・・なんていう私の評価を,子どもたちに聞かせたら,みんな吹き出してしまうでしょうね・・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より